医療ガバナンス学会 (2016年10月20日 06:00)
これは難治患者にとって極めて重要な意味を持つ。患者申出療養は難治患者にとって最後の希望である。4月に患者申出療養が実施可能となってから半年後に、やっと臨床での利用が実現することとなった。しかし問題はこれからである。今後、患者申出療養が広範囲に利用されるのか、それとも希少なものとなっていくのかが問われるからである。
従来の評価療養制度における先進医療は保険収載を前提とする臨床研究が必須であり、研究対象となる患者は厳格な条件に合う患者に限定される。これに対して患者申出療養は、研究よりも治療を最優先にして難治の患者に幅広く未承認薬や先端医療あるいは海外の標準治療の門戸を開くという趣旨で設立されたものである。
ところが東大付属病院の今回の申請でも明らかなように、患者申出療養といえども保険収載を前提とした臨床研究が厳密に課されているのである。これはまさに屋上に屋を重ねるようなものである。厚労省は患者申出療養を保険外併用療養費制度の拡大版といって憚らない。すなわちベースは評価療養と同じということである。しかし、患者申出療養において行われる臨床研究のデータは評価療養における先進医療の研究データよりも質が落ちることは明らかである。そのようなデータが保険収載を前提とした臨床研究といえるだろうか。
内閣の患者申出療養制度創設の趣旨を損ねるこのような制度設計は、実際の運用を担う厚労省官僚によって考え出されたと思われるが、その意図に沿っていけば今後の患者申出療養の普及は難しくなるであろう。この制度設計の効果は、難治の重病患者を診ている医師が患者申出療養の利用に後向きになることや患者申出療養の申請に対して有識者会議が承認に慎重になることであり、患者にとっては自分の治療の最後の希望が絶たれることである。
患者申出療養は難治の患者にとってもっと身近なものにならなければならない。臨床研究や治験に参加できない患者、日本で承認された抗がん剤を保険の適応になっていないがんの治療に使いたい患者、未承認薬を個人輸入している患者、日本の標準治療の効かない患者など命の瀬戸際に立っている患者は大勢いる。がんは将来ある若い人も罹る病である。そして新薬開発も医療技術も日進月歩の時代である。患者申出療養は、そういう医療を誰もが受けやすくするために創られた。
そもそも患者申出療養が創られたのは、日本に混合診療を認めないという特異なルールがあることによる。保険医療機関は国の認めた保険診療しか行えず、それ以外の医療(保険外診療)を行ったら医師や医療機関には保険資格停止という処分、患者には保険外診療と併用して受けた保険診療も全額自費負担となって保険分(通常医療費の7割)を返還するという処分が科される。ただ国の認めた少数の保険外診療である評価療養は保険診療との併用を認める保険外併用療養費制度という例外規定がある。しかし、混合診療禁止というルールがなければ保険外併用療養費や患者申出療養などの変則的な例外規定も必要ない。医師や患者はもっと自由に意欲的に医療にアクセスできる。医師と患者が選択して決めた未承認薬や先端医療を自費で自らの責任で受け、併用する保険診療には健康保険が使えれば合理的な医療費で病と闘えるのである。
しかし、混合診療は今後も認められず保険外併用療養費という例外規定は存在し続けるだろう。それならば評価療養と患者申出療養は峻別されなければならない。患者申出療養は保険収載の呪縛から解放されなければならない。難治患者を診る医師がもっと申請しやすくなり、有識者会議もよほど安全性が疑われるもの、明らかに非科学的なもの以外は承認すべきである。保険に収載される未承認薬の有効率の基準データは約20%と聞く。
それは10人のうち8人は効かないということである。逆に、有効率が10%とは効く患者も10人に1人はいるということである。有効という点では偽薬効果さえ臨床研究で実証されている。このような医療の不確実性を考えれば、難治患者が望む治療を混合診療の一言で片づけて済む問題ではない。日本の標準治療で治らない患者が自費で自由に治療を選択し、併用する保険診療には保険を給付するだけのことである。そのような制度を悪用する医師の存在が患者の治療における自己決定権を否定する理由にはならない。ベネフィットとリスクのバランス感覚が正常であれば患者の治療選択と決定の自由、生存権が優先する。
このような主張に対して、国民皆保険が崩壊するという反対の合唱が必ず起こる。それは認識のリアリズムに欠ける念仏のようなものだが、国民皆保険崩壊の萌芽はすでに別のところで出始めているのである。