医療ガバナンス学会 (2016年12月2日 15:00)
1.準強制わいせつ被告事件(平成28年(刑わ)2019号)の概要
2016年5月10日、乳腺外科専門医が右乳腺腫瘍摘出手術直後の患者診察の際に、健側の右乳首を舐め、一旦退室し、その後更に同人の右乳房を見ながら、陰茎付近をさすり自慰行為をするなど抗拒不能に乗じてわいせつな行為をしたという被疑事実をもって、千住警察署は、手術から任意取り調べを一回もすることなく、100日以上経過した8月25日に、突如として逮捕・勾留しました。
東京地方裁判所は勾留を決定し、東京地方検察庁は、9月14日に起訴しました。起訴状の公訴事実では、「乳房を露出させた上、その左乳首を舐めるなどし、もって同人の抗拒不能に乗じてわいせつな行為をした」とあり、逮捕時の勾留状の被疑事実の「自慰行為」は削除されています。
2.背景となる事実経過
2016年
5月10日 手術
7月7日 柳原病院が申入書(詳細な事実経過)を千住警察署に提出
8月25日 逮捕 (逮捕以前の任意取調なし)
8月27日 勾留決定
勾留決定準抗告⇒棄却
勾留取消請求⇒却下
8月28日 捜索差押(柳原病院)
被疑者自宅および所属医療機関捜索差押
9月4日 捜索差押(柳原病院・二回目)
9月5日 勾留理由開示公判 被疑者(外科医師)が被疑事実を否定
9月8日 第1回公判期日前証人尋問 A証人(医師) 2時間
9月9日 第2回公判期日前証人尋問 B証人(看護師) 2時間
9月14日 公訴提起(起訴決定)
9月16日 保釈請求 (刑事第14部)
9月21日 保釈請求 却下
9月23日 準抗告 却下
10月11日 保釈請求(二回目、刑事第14部)
10月13日 東京保険医協会 保釈嘆願書送付
10月14日 保釈請求 却下→準抗告 却下
11月14日 起訴(公訴提起)後2箇月
3、4回目の保釈請求も却下され11月20日に初公判が予定。
第2章 協力依頼の理由
はじめに
私は、2002年の東京女子医大心臓外科手術事件で逮捕・勾留・起訴され、勾留90日にして保釈金2000万円を払わされ、冤罪を晴らすために7年以上を費やした経験があります(ちなみに、保釈金は3年後の一審無罪判決でその額のまま返還され、3年間の利子などありません)。この経験や、福島大野病院事件が医療崩壊を誘発したことなどから、異常に増加した医療刑事事件を抑制する活動をしてきました 。
当該柳原病院では逮捕直後から5人の医師を呼びかけ人として「外科医師を守る会」が立ち上がり、保釈を求めてきました。これに対し、今回の外科医師の身柄拘束は、麻酔薬等を用いる各医師個人の基本的人権にかかわる問題であることから、私個人だけでなく東京保険医協会において何回も開催された勤務医委員会や理事会、複数の医師弁護士のダブルライセンサーや医療に詳しい法律家や法律に詳しい医師らからなる複数の団体メンバーらと検討してきました。
また、被害を訴える患者さんを尊重しつつ、主任弁護人や柳原病院の事務局と複数回お会いし、客観的な事実や可能な限り正確な証拠収集を慎重におこない充分な討論を行ってまいりました。
さらに、外科医師が勾留されている東京拘置所に通い、被告人となった当事者本人との接見を数回にわたり繰り返し、ご家族らから何回も事情を聞いてまいりました。
無罪か有罪かの判断はもっぱら裁判所にゆだねられるものです。また、麻酔薬の薬理効果およびベッドサイドの診療現場の状況を日常臨床の場で知る私にとって、本件の勾留状の被疑事実も、これとは犯行態様が変遷した起訴状の公訴事実も真実でないと確信的に考えておりますが、この公訴事実が合理的な疑いを差し挟む余地のない事実であるかどうかについては、裁判所が厳正な手続きと慎重な審理によって必ずや正しい判断をされると信じています。
一方で、勾留更新・延長の必要も理由もなく、保釈の相当性と必要性が存在するについては絶対的に明らかであると私は判断しています。これまでの東京地方裁判所の保釈請求却下決定では、「罪証隠滅の虞(おそれ)がある」とされてきました。しかし、諸事情を勘案すれば、外科医師が実効性のある罪証隠滅行為に及ぶという、具体的な可能性を示唆する根拠は存在しません。
むしろ、公訴提起され2箇月が経過した現在においては、とうに捜査官において証拠が収集されておりますし、また起訴前の証人尋問によっても裁判所における証言が得られていることからして、「具体的な」証拠隠滅の可能性は想定できません。他方、このような状況の中で医師が逮捕勾留され、しかも、起訴後においても勾留が継続するのでは、外科医師の基本的人権が侵害され、また医療行為をなし得ないという医師としての極めて重大な不利益が認められるのみならず、類似の医療行為、類似の薬品を扱う保険医に極めて深刻な萎縮作用が生じかねません。
したがって、このまま身柄を拘束し続けることについてついては断固として反対し、10月14日には、私個人だけでなく東京保険医協会の総意として外科医師を直ちに保釈することを東京地方裁判所長、刑事部長、刑事第14部部長(勾留担当)、刑事第3部部長(公判担当)に嘆願書を提出し、司法記者クラブで記者会見をしました。
以下協力依頼の理由の詳細を述べます。
第1罪証を隠滅するおそれがないこと
1.起訴状の公訴事実と勾留状の被疑事実では犯行時刻・時間・態様が変遷していることから必要な捜査が終了していると判断されること
勾留状の被疑事実と起訴状の公訴事実は以下のように整理できます。
(1)犯行時刻・時間:
被疑事実 (I)午後2時45分から50分まで(II)午後3時7分から12分頃まで.
公訴事実 午後2時55分から3時12分頃まで.
(2)犯行態様:
被疑事実 (I)乳首を舐めた.(II)陰茎付近をさすり自慰行為をした.
公訴事実 乳首を舐めるなどした.
これらを検討すれば、21日間の逮捕・勾留期間中には、検察官による捜査と要求によって、外科医師本人や被害を訴える患者さんからの供述、当該柳原病院の医師や看護師ら病院関係者の異例ともいえる期日前証人尋問を経て、自慰行為の存在は麻酔後の譫妄による誤解だと判断されて落とされたものと推測されます。患者さんの供述の変遷をもとに検察官がこの判断がされたのであれば、その供述者の信用性が減殺されるのが当然であることはさておき、被疑事実を翻すほどの充分な取調は終了しているといえます。
2.証拠調べには相当な時間の経過からも必要な捜査が終了していること
警察官は犯行があったとされる本年5月10日当日から捜査を開始し、8月25日逮捕までの107日間で、国家権力をもつ警察組織として医師逮捕勾留に踏み切るために充分で捜査を行ったはずです。また、警察、検察ともに、起訴までの21日間にわたり集中的に捜査を追加し、結果として検察官は、公訴を提起(起訴)しました。
したがって、仮に物的証拠収集が存在したとしても診療録など病院側が保持する客観的な証拠や外科医師の自宅や常勤病院における捜査などはすでに捜査機関による調べが終了しているはずであり、改竄などによる物的証拠隠滅は不可能です。すなわち、今後も罪証隠滅が可能な新しい物的証拠が出現する可能性はないはずです。
かろうじて罪証隠滅として推定されることは、被害を訴える患者さん自身や病院関係者への働きかけによることのみであり、前記の収集された証拠からすれば、今後、外科医師が患者さんや病院関係者に働きかけることは具体的には想定されず、将来的にも想定できる「具体的な」証拠隠滅の可能性はありません。
しかし、公判開廷後も法廷での患者さんへの被害状況の尋問が予想されるうえ、当事者の供述については起訴までに警察、検察ともに調書の作成を終了しているはずです。また、病院側関係者についても同様で、検察官は証人尋問を要求してそれに応じた法廷において供述や事情聴取は終了しているはずです。
3.証拠隠滅の意志はなく阻止が可能であること
以上で述べてきたように、外科医師が実効性のある罪証隠滅行為に及ぶという、具体的な可能性を示唆する根拠は存在しません。万が一、患者さん自身などに働きかけて被告人に有利な供述をするという疑いを持っているのであれば、すでに外科医師が弁護人を通して誓約したように、裁判所が、患者さんに接触を禁ずる旨の保釈条件を提示すればよいはずです。
しかも、外科医師は保釈等に伴い、弁護人等から禁止事項の遵守に関する説明等をうけますから、患者さんや病院関係者に働きかけることが保釈取消しになること、ひいては無実を訴える外科医師の供述の信用性を損なうこと等について十分に承知するはずです。自ら、無罪の可能性から遠ざかる行動をするはずがありません。
また、柳原病院関係者については、すでに同院のウエッブサイトのホームページで患者さんの訴えていることに対して齟齬があることを明らかにしているので、外科医師の働きかけによる口裏合わせなどによる罪証隠滅をする必要性はすでになく具体的な実効性もありません。それでも疑うのであれば、患者さんと同様に病院関係者とも接触を禁ずる誓約をさせればよいはずです。
第2 基本的人権を侵す上、医療崩壊を誘発する社会的問題でもあること
1.基本的人権を侵すこと
そもそも勾留状では、住所不定や逃亡を勾留理由としていませんので、勾留当初から罪証隠滅の疑い以外には勾留の要件はありません。したがって、上にみたように現時点において罪証隠滅の「具体的な」可能性を示唆する根拠がないので、勾留理由が存在しないことになります。
東京地方裁判所が、充分な証拠をもって実効性がある「具体的な」罪証隠滅の可能性を示すか、別の勾留要件を示さないのであれば、国民の裁判所に対する信頼感にも疑問が生じることになります。勾留や保釈を定める刑事訴訟法には、「左の各号の一にあたるときは、これを勾留することができる。」(同法60条1項柱書き)、「勾留の理由又は必要がなくなったときは、裁判所は、(略)職権で、決定を以て勾留を取り消さなければならない。」(同法87条1項)、「保釈の請求があつたときは、次の場合を除いては、これを許さなければならない。」(同法89条柱書き)、「裁判所は、適当と認めるときは、職権で保釈を許すことができる。」(同法90条)等と定められており、起訴後における身体拘束は極めて例外的な場合にのみ許されることは法律上明らかなのではないでしょうか。さらには、「勾留の期間は、公訴の提起があった日から2箇月とする。特に継続の必要がある場合においては、具体的にその理由を附した決定で、1箇月ごとにこれを更新することができる。」(同法60条2項)との記載からすれば、現時点における保釈は当然なのではないかと考えます。
私は、法律の専門家ではありませんが、すべての国民の人権に関わる法律においては、文言どおりに法解釈、法適用をされることこそ、司法に対する信頼感が生まれるのではないでしょうか。
なによりも、推定無罪の原則からして、被告人が公訴事実を否認しているとしても、恣意的かつ漠然的で具体性のない勾留理由により、一個人に対する不必要な身柄拘束をすることは身体的・心理的・経済的不利益を生じさせることになります。人道的にも容認できることではなく、基本的人権を侵すことになります。
2.医療崩壊を誘発する社会問題であること
逮捕勾留前の外科医師は、常勤のクリニックの他にも、都立病院、別のクリニック、柳原病院で精力的に日々多くの患者の疾病を診療し、生命を救い、社会に貢献し続けてきました。勾留され、医療活動ができないこと自体が、本人だけでなく社会にとっての大きな損失です。
さらに、おそらくは麻酔による譫妄状態(錯視状態)であった患者さんの逮捕勾留前後で大きく異なっている証言のみを根拠として医師の犯罪を疑い、逮捕され、起訴後も勾留され続けていることが許されるのならば、医療現場に混乱と萎縮を招き、正当な医療行為や診療行為に大きく制約され、いわゆる医療崩壊を誘発し、ひいては国民に重大な不利益が生ずるといった、社会的にも大きな影響が及びかねません。福島大野病院事件における逮捕勾留が産婦人科領域の萎縮につながったことはご周知のとおりです。
第3 外科医が経済的に困窮していること
1.国家権力との闘争資金の必要性
村木厚子元厚生労働事務次官の逮捕起訴事件のように、刑事裁判の被告人が、無実や冤罪を主張しても、検察官は一回方向性を決定すると、証拠を改竄してでも起訴して有罪を作ろうとします。国家機関の中でも最も強権的である検察を相手に闘うためには、憲法に唯一書かれた民間の職業である弁護士が必ず付くことになっています。この弁護費用については、案件によって違いますが、8人の弁護団に対する費用は相当な額になると推測されます。
たとえば、私の知人医師2人が医療刑事事件の被疑者として嫌疑をかけられた時、被疑者の段階(起訴前)の弁護費用はそれぞれ500万円と600万円と聞きました。案件や法律事務所によって相違はあり、その実態は不明で、金額に一定のものではありませんが、それなりの相場があるのかもしれません。私の場合、起訴され一審無罪で、控訴審まで闘い足掛け7年刑事事件を闘いましたが、弁護団は二人であっても長く裁判していれば、支払いの回数も増えてきます。
現在、外科医師の弁護団は8人ですか、起訴されたからにはそれなりの金額が必要になりるはずです。
2.保釈金について
一般に、保釈金の金額の基準は、大きくわけて2つあります。
1つは、事件が重大であるかどうかや、見込まれる刑の重さなど、保釈を認めるリスクの高さが影響しています。2つ目の基準は、被告人の経済力です。これは医師の場合一般には高収入をされており、具体的な資産や給与などきめ細かい計算がなされる訳ではありません。
私の場合は、業務上過失致死傷罪の疑いでしたが、保釈時は無職で収入0。妻のアルバイト料では大きな赤字になるローンが15年以上残っている中古マンションと、60回払いのローンが数年残っている中古自動車程度の資産でしたが、一回目の保釈決定では1500万円。しかもこれは準抗告で取り消され、結局一か月以上後に保釈決定が遅れた上、保釈金は2000万円に跳ね上がりました。
外科医師が勤務できないことやご家庭の子育て事情から配偶者が職につくこともできず、経済的困窮は切迫している状況です。
おわりに
他の患者さんとはカーテン1枚で隔てられているだけの一般病棟の4人部屋において、公訴事実のように医療者が、 消毒液が塗布されたうえ、手術時の血液が付着している可能性の高い局所を舐めた、ということは実臨床の世界では全く想像できません。
しかも、その時には、患者さんの母親がカーテンの傍らにいて、薬剤師が向かい側のベッドの別の患者さんに薬剤説明を行っていたという病院側の調査結果事実を考慮すれば、公訴事実は疑わしくなります。
また、当該患者さんご自身がその行為事実を明確に記憶できる状態であったのに対し、隣の患者さんやその薬剤師、出入りする看護師に気が付かれない程度の拒否行動や、聞き取ることができないような発言すらできない状況を誘発する薬理効果がある薬剤は存在しません。よって、本件公訴事実については極めて疑わしいと推測されます。本件は、おそらく、麻酔影響下の譫妄(錯視)による性被害体験患者と、その体験供述による嫌疑を受けた医師と、いずれも気の毒な立場にある事件です。両者のこの心の痛みを最小限に留めることができるのは、良心を持ち合わせるべき東京地方裁判所に他なりません。
しかし、そのこと自体以前に、上記、第1および第2で述べてきたように、現時点以後の勾留継続は、正当な理由がなく、基本的人権を侵すものであり、医療崩壊にもつながることからも、外科医師個人だけでなく、保険医を含む医師・医療従事者はもちろんのこと、医療を受けるわが国の国民の司法に対する不信と医療萎縮による不利益をいたずらに助長することになります。
裁判所が、冷静で公正な視線によって、直ちに外科医師の保釈許可を決定するよう、強く協力をお願いいたします。
また、外科医師にとって、今後裁判を闘うためには数千万円が必要であることも考慮いただき、基金へのご協力も併せてお願いしたく存じます。 以上
http://expres.umin.jp/mric/mric_267-1.pdf
http://expres.umin.jp/mric/mric_267-2.pdf
http://expres.umin.jp/mric/mric_267-3.pdf
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i 刑事訴訟法 第60条 2項 勾留の期間は、公訴の提起があった日から2箇月とする。特に継続の必要がある場合においては、具体的にその理由を附した決定で、1箇月ごとにこれを更新することができる。但し、第89条第1号、第3号、第4号(罪証隠滅)又は第6号にあたる場合を除いては、更新は、1回に限るものとする。
ii 刑事訴訟法 第60条 1項「裁判所は、被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある場合で、左の各号の一にあたるときは、これを勾留することができる。1.被告人が定まった住居を有しないとき。2.被告人が罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき。3.被告人が逃亡し又は逃亡すると疑うに足りる相当な理由があるとき
iii 外科医師の早期釈放を求めます」― 外科医師不当起訴事件 ― http://yanagihara.kenwa.or.jp/syomei.pdf
iv MRIC Vol.306 「医師法21条」再論考―無用な警察届出回避のために― http://medg.jp/mt/?p=1509
MRIC Vol.317 「異状死」の定義はいらない~無用な警察届出回避のために その2http://medg.jp/mt/?p=1520
医療事故等の警察届出、2015年は前年から半減 警察庁調べで65件、1999年以来、16年ぶりの2ケタm3.com 医療維新 シリーズ: 始動する“医療事故調”レポート 2016年4月6日 (水)配信橋本佳子(m3.com編集長)https://www.m3.com/news/iryoishin/414371
v 「『手術直後にわいせつ行為』起訴の外科医の早期釈放求め、東京保険医協会が嘆願書」弁護士ドットコムニュース 2016年10月14日 15時15分 https://www.bengo4.com/iryou/n_5229/
vi 「『医療崩壊を誘発、不当な勾留』、準強制わいせつ罪・起訴医師 東京保険医協会、早期釈放を求め東京地裁に嘆願書 」m3.com 医療維新 レポート 2016年10月14日 (金)配信橋本佳子 https://www.m3.com/news/iryoishin/467658
vii 「術後の猥褻行為容疑―「不当逮捕」の署名2万筆」樫田秀樹 週刊金曜日 公式ブログ 週刊金曜日ニュース 2016年11月16日10:12AM http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=6343