医療ガバナンス学会 (2017年2月20日 15:00)
福島県精神科病院入院患者地域移行マッチング事業
佐々木 瞳
2017年2月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
原発から半径30キロ圏内には精神科病床を持つ病院が高野病院を含め5病院あります。原発の北に位置していた雲雀ヶ丘病院 (南相馬市、当時254床),小高赤坂病院 (南相馬市、104床)、双葉病院 (大熊町、350床) 、双葉厚生病院(双葉町、140床)は、震災翌日の平成23年3月12日から17日にかけて、入院患者の移送を命じられ、休業を余儀なくされました。原発の南にある高野病院も精神科の患者さんたちを他の病院に転院せざるを得なくなり、合計840床もの精神科病床が無くなってしまう未曽有の事態となってしまいました。
平成25年度から福島県にて帰還事業の一環として始まった「福島県精神科病院入院患者地域移行マッチング事業(以下、マッチング事業)」では、事業の対象患者789名(相双地域にて入院中に被災した精神科患者)のうち 震災以降、高野病院に在院していた患者さんが44名いたことがわかりました。
44名のうち 震災時に高野病院から送り出しが36名で そのうち 他県で自宅退院できたのが2名、 他県で現在も入院継続中が1名、 高齢者施設に入所中が福島県内で1名・県外2名、 死亡4名となっています。
そして マッチング事業側が調整に関与したのが8名ですが、 これは、震災時送り出し病院が双葉病院7名、雲雀ケ丘病院1名の 県外避難者であり、H28年1月末までに高野病院が空床調整を積極的にご尽力いただいて 福島帰還を果たしたものです。
特筆すべきは、残りの26名です。 震災時に高野病院から送り出し後 平成24年4月から翌25年4月にかけて 県事業が始まる前に高野病院の自助努力で 帰院を果たしているのです。高野病院は平成24年に精神科の診療を再開し、現在に至っています。
高野病院の理事長 高野己保(みお)さんは当時のことをふりかえり「精神科を一年で無理をして再開したのは、精神科スタッフを流出させないこともありましたが、毎月埼玉に転院された患者さんたちから、電話やお手紙で、『まだ帰れませんか?早く帰りたい。』と定期的に連絡がありました。そんなこともあり、頑張っての再開でした。」と語っています。
平成29年2月現在、相双地域5病院の精神科病床で、稼働しているのは高野病院含む2病院113床のみ、帰還困難区域やその近隣の精神科病院3病院は、事故後に入院患者を県外病院に強制避難させてから、今も再開のめどが立たない休止状態が続いています。
精神科を稼働する2病院のもう一方が雲雀ヶ丘病院ですが、震災後は医療人材の不足で、254床から60床へと大幅に規模を縮小しています。震災前に福島県の太平洋沿岸に面する地域では、かつての閉鎖隔離収容が主体の精神科医療によって長期の社会的入院となった患者さんが増えていく一方で、全く退院するすべもないまま何十年も精神科病院に入院せざるを得なかった方たちが800人以上近くいたのです。ですから、震災当時に原発の爆発の危機にさらされながらも「逃げない」と決断し、早期に精神科病床を再開させていた高野病院の相双地域における貢献は多大であり、いま現在その1割ほどの病床しか稼働していない実態のなか高野病院は相双地域の精神科医療を牽引していると申しても過言ではありません。そのうえ、これからも地域に根ざして生き続ける使命があるのです。
私は今年2月初旬に高野病院を訪れました。病院の屋台骨だった高野先生が亡くなり、存続していくのに決して安心できない状況でした。しかし、平常心とユーモアを忘れない己保理事長と、意識の高い看護と確かな医療と介護の技術で患者さんの穏やかな時間を保ち続ける職員のみなさんを目の当たりにしてきました。精神科病棟の一角にある病室からは全焼をまぬがれた高野院長の住居が目と鼻の先にあります。その眼下には春からの作業療法にむけてみかん畑の苗木が植えられていました。職員の方たちは、日々粛々と自分たちにできることを着実に積み重ね、勤しんでいらっしゃいます。こんなに真っ当に頑張っている人たちがいるのに、この地域の医療を盤石にするための公的な支援がおろそかになっているのが、残念でなりません。国ならびに行政の早期の対応を今後も切に願うばかりです。