医療ガバナンス学会 (2017年3月30日 06:00)
その後の反応もまた既視感のあるものであった。被害者の労働環境の劣悪さを指摘する報道やコメントが続く一方、被害者の個人的な能力や性格に原因を帰するような発言が多くの”まだ問題を抱えていない”人たちなどから発せられた。某大学の教授が”残業100時間超で過労死は情けない”という発言で結局謝罪に追い込まれていたが、この話題に関して話し合う機会があればむしろ後者の意見の方がよく耳にすると感じることはなかっただろうか。
筆者は直近の15年のうち約半分の期間をヨーロッパで外科医として働く機会を得、日本とヨーロッパの労働環境の違いを肌で感じることとなった。語学の能力はもちろんのこと、医療システムの違い、自分の立場に与えられた権限の違い、ヒエラルキーの位置付けの違いなど日本でのやり方が通用しない中でどのように患者に危害を加えず日々を切り抜けるかが大きなストレスの素であった。私が勤務したスペイン、フランス系スイス、ドイツ系スイスそれぞれの間でも言語の違いのみならず人間性もシステムも大きく異なり、常に大きな精神的ストレスを抱えながらの日々となった。加えて大学病院における激烈な権力闘争に巻き込まれたこともあり、徐々に組織の維持の仕方や労働環境におけるメンタルヘルスというものに興味を持つようになっていった。
同じく子供を持つ親として最愛の我が子を失った悲しみは想像を絶するものでありこのようなことが繰り返されないよう対策を打って欲しいと思う一方、日本の労働環境を知る身としてはまたいっとき盛り上がったのちは結局何も変わらないのだろうという諦めのような気分があるのも事実である。
しかし、この分野で日本よりは先を行っているであろうヨーロッパでの知識経験が多少なりともプラスになればと考え、この文章を投稿することにした。本稿では職場でのストレス関して
(1)企業における影響と対策と(2)労働者のメンタルヘルス、特に”バーンアウト”(職業的燃え尽き)、という二つの側面から概略を述べたい。できる限り幅広くヨーロッパのメディアや学問的な文献より情報を拾う努力はしたものの、もし事実誤認や訂正などがあればご指摘いただければ幸いである。
(1)企業における影響と対策
労働環境の変化とその影響
戦後日本では人口増加や右肩上がりの経済などを背景に健康保険や年金といった社会保障が整備され、年功序列、終身雇用制、土地神話といった”成功の方程式”ともいえるキャリア形成のモデルが存在した。多くの人々がそれを疑うことのない”正解”として目の前の仕事に集中し、それによってある程度安定した生活、老後が保証されていた。しかし近年の産業構造の変化や世界経済の悪化による終身雇用性の崩壊、正規雇用の減少などに伴い、人生設計の不確実性や将来への不安が大きな社会問題となっている。ヨーロッパにおいてはかつては絶対的存在として社会規範を形成していた教会や王室といった大組織が影響力を失ったことも影響が大きいとされ、人々は自分自身で自分の人生を”設計”することを余儀なくされるようになっていった。
このように内面の問題としては、現代の労働者は主体的な”個”であることを要求され人生の選択の自由と引き換えに未来に対する不安定を引き受けなければならなくなっている。地域社会や伝統的家族関係の解体に伴い自己のアイデンティティが共同体から個人へと移り、職業における成功や社会的地位と人間の幸せが同義となるような価値観がますます強くなってきている。
これに加え外的要因として労働環境にも過去に比べ大きな変化が訪れている。資本主義社会の宿命として市場は世界中に拡大し続け人々の往来が自由かつ煩雑となり、通信機器、特にITの進化により労働者は常時仕事と接続されていることを強制される時代になっている。産業構造も生産業からサービス業にシフトしそれに伴い顧客の要求はますます”impatient” なものとなり、そのサービスも高品質かつ標準化されたものを”Zero delay”で供給することが要求される。
このようにわずか数十年前に比べても労働環境は極めて要求度の高いものとなっており、単純に以前はこうだった、最近の若いものは、という比較自体が意味をなさなくなってきている。
このような社会的背景の変化もあり、ヨーロッパでも2000年代に入り労働環境のストレスに対して少しずつ法的な取り組みを整備する動きがあったが、社会の認知は十分ではなかった。このような状況の中、社会の関心を引く大きな転機となったのはフランスにおける一連の労働者の自殺問題であった。
2006年から2007年にルノーの開発センターにおいて立て続けに3名の労働者が職場での”圧力と脅し”を理由に自殺したのに続き、2008年から2009年には民営化したばかりの旧フランステレコム(現オレンジ)でわずか二年の間に35名もの自殺が発生するに至っては大きな社会問題となった。これを受けて2009年に労働組合が上層部を告発したことから検察による調査が開始され、2016年に当時のCEOを始め数名の元指導部がモラルハラスメントの疑いで起訴されることとなった。これは当時の上層部による、2万人以上のリストラなどを柱とする現場の事情を無視した急速な改革が労働者の自殺や体調不良を引き起こしたとするものである。
http://www.lefigaro.fr/societes/2013/04/24/20005-20130424ARTFIG00373-un-salarie-de-renault-sesuicide-sur-son-lieu-de-travail.php
http://www.lemonde.fr/societe/article/2016/07/07/suicides-le-parquet-demande-le-renvoi-de-la-directionde-france-telecom-pour-harcelement-moral_4965171_3224.html
筆者がヨーロッパにいた時に主任部長の引退に伴う新体制への引き継ぎの期間を経験したことがあるが、人事部や執行部の介入を必要とする政治紛争が頻回に発生し周囲では退職、休職、第三者機関の調査などが頻発するなど落ち着いて医療に集中できるような環境とは程遠く、自分が担当する患者やチームの機能を守るのに精一杯であった。このようなことは日本においても医局の教授交代などでよく起こることなのかもしれないが、環境の変化が職場におけるメンタルヘルスに大きな影響を与えるのは疑う余地のないことであると実感した。
企業への影響と対策
このような職場のストレスによる体調不良がもたらす影響は労働者個人の問題にとどまらない。
2002年の欧州委員会のレポートによると職業上のストレスに関連する損害は年間2兆円規模に及ぶとの試算もあり、労働者の健康という問題以外にも企業の経済活動という観点からみても大きな問題となっている。試算は自殺や休業と言った目に見える形での損害 ”abséntéisme” のみを扱っているが、さらに大きな問題として目に見えない損害 ”présentéisme” を考慮に入れる必要があり、潜在的な損失はこれをはるかに上回る可能性がある。”présentéisme”とはストレスにより精神的な負荷を受けている労働者が出勤はしているが生産性を落とすことによって平衡を保っている状態を表し、労働者の精神的な回復を遅らせるだけでなく、長期にわたる生産性の低下により企業の損害も非常に大きいものと捉えられている。
このように職場におけるストレスを適当なレベルに保つことは労働者個人のみならず、企業の収益の問題でもあるという認識のもとに労働者のメンタルヘルスと企業活動の生産性を両立させるための介入はすでに1960年代からアメリカにおいて提唱され始めており、ヨーロッパでも試行錯誤が繰り返されている。このような介入に置いて重要とされるのは従来のように企業と労働者の利害が対立する構図ではなく、企業の商業活動と個人の自己実現が両立するような環境に如何に近づけていくかという点である。つまり労働者が意欲を持ち生産性を上げた状態を作り出したほうが結果的に企業の生産性は上昇するという考え方である。逆に言えばいわゆるソフトサービスが主流になっている現代の産業社会に置いて労働者は企業の財産であり、それを育て能力(≠労働時間)を最大限に発揮させることができなければそれはその人材を活用できず潰しているとも考えることができる。
ここではその詳しい方法論には触れないが、その基本的な考えとしては職場におけるストレスに対して(i)規則や慣習と言った企業のレベル(ii)実際の労働環境を形作るマネージメントのレベル(iii)そして労働者の個人のレベル、という三つのレベルに対して包括的に介入を行うことを柱としている。詳細についてはまた別の機会があれば述べたいが、職場におけるストレスを増強する因子としては幾つか重要なものがあり、過重労働というのはそのうちの一つに過ぎない。従ってそれらの要因を中心に労働環境の調査を行いどのような介入を行うかという対策を個別に立案する必要があるとされている。そのため過重労働のみにことさら力点をおいた対策は実現が困難な上に片手落ちになるのではと考えている。
このように企業における抑うつや自殺の問題を個人の問題か企業の問題かという一元論に帰そうとする試みは無意味でもあり、ただ弱ったロバを鞭打ち続けるだけでは解決しない問題であるということである。このような介入の中で第一に必要なこととしてまず企業のトップあるいは指導部が積極的に関わることが挙げられている。こう考えると組織を統括する立場にある人間の”100時間超で”という意見はどのように感じられるであろうか。
(下)につづく
著者略歴:山本 一道 1995年京都大学医学部卒 医学博士 呼吸器外科専門医 気管食道科専門医