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Vol.071 計画主義が医療を滅ぼす2 ハンセン病絶対隔離政策と漱石の個人主義

医療ガバナンス学会 (2017年4月3日 06:00)


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元亀田総合病院副院長
小松秀樹

2017年4月3日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●漱石の個人主義
個人の領域を尊重するためには、権力が個人の領域に踏み入ることを制限する必要がある。ヨーロッパでは、マグナカルタ以来、長い年月をかけて、尊重すべき個人が貴族から富裕商人に拡大され、近代憲法成立で民衆にまで拡がった。日本でも大正期には個人主義は一般に認知される考え方になっていた。
1915年(大正4年)、夏目漱石は、学習院で「私の個人主義」と題する講演を行った(私の個人主義. 『漱石文明論集』岩波文庫)。漱石は、ロンドン留学中、文学の何たるかについて思い悩んだ。最終的に、自己本位という考えに到達した。他人の考えを真似するのではなく、自分で新たに考えだせばよいと覚悟して、悩みから解放された。「自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道が如何に下らないにせよ、それは貴方がたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります」と心情を説明した。

講演の後半で、権力と金力に話題を移す。「権力とは先刻(さっき)御話した自分の個性を他人の頭の上に無理やり圧し付ける道具なのです。道具だと断然いい切ってわるければ、そんな道具に使いうる利器なのです」。例として、兄の権力がその個性を弟に押しつける話をした。弟は読書好きで家にこもりがちである。釣り好きの兄は、これを忌わしく思っている。釣りをしないから厭世的になるのだと決めつけて、弟に釣りに一緒に行くことを強要する。「気味の悪い鮒などを釣っていやいや帰ってくるのです」。「益(ますます)この釣りというものに対して反抗心を起こしてくるようになります」。
漱石は、自分の個性と自由を尊重するのならば、他人に対してもその個性と自由を尊重しなければならないと繰り返す。「他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する」のが個人主義だとする。

「或(ある)人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないようにいいふらしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が亡びるような事を唱道するものも少なくはありません」。国家的道徳について、「元来国と国とは辞令はいくら八釜(やかま)しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります」と突き放す。「国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません」として国家主義に違和感を示す。

●「民族浄化」としてのハンセン病絶対隔離政策
(以下、事実関係については、大部分は「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」に基づく。)
漱石の「私の個人主義」の講演に先立つこと8年、1907年「癩予防に関する件」が成立し、ハンセン病隔離政策が始まった。以後、1931年の癩予防法、1953年のらい予防法と続き、1996年まで絶対隔離政策が継続された。

推進者たちは、漱石が述べた通り「個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が亡びる」と考えていた。国家は、他国のみならず、自国民に対しても「徳義心」を持たなかった。ハンセン病では、数十年にわたり、国家が個人固有の領域を奪い取った。ハンセン病の歴史をたどると、医師の計画主義の危険性が理解できる。
絶対隔離政策とは、国家主義の観点から、全患者を生涯にわたって強制的に収容する政策である。個人の就業など社会生活を制限したため、ハンセン病患者は社会で生きるすべを奪われた。療養所内の生活環境は劣悪で、労働が強制された。患者は収容後、平均10年で死亡すると考えられていた。療養所内で患者全員が死亡すれば、ハンセン病が根絶されるというのが基本戦略だった。この戦略からは、療養所内での患者子孫の出生はあってはならないことだった。
「癩予防に関する件」では隔離の対象を、「癩患者で療養の途を有せず、また、救護者なき者」とした。当時、放浪患者、貧困患者の救済の意味があったが、次第に強制的隔離の色彩が強くなった。

1915年、漱石が学習院で講演をした年、絶対隔離政策の中心人物、光田健輔により、全生病院(多磨全生園の前身)で、精管結紮術による断種が法律的根拠なしに開始され、後にこれが、療養所内で結婚する全患者に強制されるようになった。光田は、出生防止を男女隔離によって実現しようとしたが失敗し、断種を条件に結婚を容認した。「断種の導入によって性欲と出産との結びつきを切断した光田は、それまで患者管理の障害であった性欲を、患者管理を促進するための手段に用いることとした」のである。1919年、保健衛生調査会による公私立療養所長への意見聴取で、公立側の光田らが、 療養所内での結婚を認めるべきだと主張したのに対し、公立療養所に比べて、より患者に慈愛的だったとされるキリスト教系の私立療養所は、結婚禁止、男女隔離を主張した。光田の管理的意図とは別に、患者にとって、残酷な環境に共に耐える伴侶の存在は、大きな福音だったことは間違いない。

1926年、内務省衛生局予防課長高野六郎は、ハンセン病予防の目的を「民族の血を浄化する」ことだとした(「民族浄化のために―癩予防策の将来―」、『社会事業』10巻 3 号、1926年 6月)。光田は、隔離政策によって民族浄化を達成するとの主張を繰り返した。光田にとって、隔離に応ずることは国家・民族に対する患者の責務だった。1940年、戦時下、国民優生法が可決成立した。優生政策を担当する厚生省予防局優生課長床次徳二は、第 9回日本民族衛生協会学術大会で「国民優生法」について解説し、「癩は伝染病でありますから勿論国民優生法の対象ではありません。此の癩に対して行つて居りますことは、単純に医療の目的とも言へませぬし、勿論優生の目的の為に行ふとは言へないものであります」とあいまいな発言をした。断種は民族浄化論の延長上にあるが、感染症であり、しかも感染力がきわめて弱いことから、隔離や断種には医学的根拠はなかった。実際、療養所に勤務する医師や看護師が感染した例は皆無だったという。

1931年の癩予防法成立以後、15年戦争に突入する中で、無癩県運動が広まった。無癩県運動とは、すべての患者を摘発して療養所に送りこもうとする官民一体の運動である。住民、役所、警察が一体となって「癩容疑者」を摘発した。運動が、ハンセン病の恐怖を煽り、偏見を強めた。
1916年の法改正で懲戒検束権が所長に与えられた。罰則として、最高で30日(2ヶ月まで延長可能)までの監禁、7日以内の2分の1の減食が定められた。
1936年、長島愛生園で、強制労働を入所者が拒否し、自治会を園当局に認めさせた。患者運動の盛り上がりに対し、1937年、療養所側は群馬県草津の国立療養所栗生楽泉園に重監房を設置した。
国立ハンセン病資料館の常設展示図録によれば、重監房では、食事は朝・昼の2回のみで、朝は薄い木製の弁当箱に握り飯1つ分ほどの麦飯と梅干1個と具のない味噌汁。昼に配られる2食目も朝より5割方大きい弁当箱に麦飯と梅干1個と白湯のみだった。室内は、湿気がひどく、9月でも黒かびが生えている状態だった。真っ暗に近い暗闇で、冬、雪が降ると夜か昼かわからない。冬は零下16、7度に低下した。ござもない板の間にうすい敷布団と掛け布団が一枚ずつだった。1938年から1947年に廃止されるまで、92人が監禁され、劣悪な環境のために、22人が凍死、衰弱死、自死した。61日以上監禁された患者が47人もいた。刑事司法の厳密な手続を伴わない安易な懲罰権が悲劇を招いた。権力があってチェックがなければ、人間は必ず暴走する。残酷にもなれる。

1941年、全生病院で洗濯場作業主任の山井道太が長靴の支給を要求した。長靴を要求したのは、穴が開いていたからである。穴が開いていると足が水浸しになり、病巣が悪化して発熱したり、神経痛がおきて作業に支障をきたす。仕事ができないとして、山井を含めた部員が仕事を休んだ。療養所では、崩れた病変部を覆うため、大量のガーゼや包帯が使われた。これらは洗濯して再利用された。洗濯は重要な作業であり、患者の録音証言にも登場する。梅雨期だったこともあり、包帯やガーゼが腐った。院長の林芳信(後述する「三園長証言」当事者の一人)は、山井を、理由を説明することなく検束し、草津に送った。抗議した山井の妻も草津に送られ、重監房に収監された。「山井は検束指揮官の予定通り草津の重監房にたたきこまれた。山井はそれから数十日、うるしのような暗黒の中で強烈な湿気と闘い、減食と空腹にさいなまれ、傷の多いからだに治療も受けられず、へとへとになった。死期近しとみるや出獄を許されたが歩けず、四つんばいになってはいだした。それから旬日をへずして山井は死んだ」(大竹章:『らいからの解放』, 草土文化, 東京, 1970. 成田稔著『らい予防法44年の道のり』(皓星社)からの孫引き)。
最終報告書の聞き取り調査によれば、本名は山井道太ではなく山田道太郎だった。この事件を公にするのに、自治会が本名では問題があるのではないかとして、氏名を変更したとの証言が記録されている。

戦後、プロミンの登場以後、ハンセン病は治癒可能な病気になった。1947年11月衆議院厚生委員会で、厚生省東竜太郎医務局長は、患者の収容を治癒目的とし、軽快者を退所させると述べた。これに国立療養所の園長たちは猛反発した。1951年11月の参議院厚生委員会における「三園長証言」で、患者の完全収容、そのための強制権付与、懲戒検束権の維持・強化、逃亡罪の創設を主張した。証言は当時の医学的知見を無視したものであり、最終報告書はこれを「偽証にも値する」と表現している。結果として1953年のらい予防法は、絶対隔離を継続する内容になった。

戦後になっても、無癩県運動は継続され、偏見や差別により、山梨県の一家9人心中事件や、藤本事件などの悲惨な事件が続いた。
国際らい会議は、1923年以来、非人道的強制隔離に繰り返し反対してきた。1958年、東京で開かれた第7回国際らい会議のコントロール委員会報告書は、「法による患者の強制隔離は、ハンセン病予防において意味がない。(略)無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されなければならない」と明記した。日本らい学会は国際らい会議の意見を無視し続けた。国の担当部署である厚生省結核予防課は、国際らい会議の議論の推移を組織として追跡していなかった。第7回国際らい会議で、ハンセン病元患者のインド代表団長に日本側医師が握手を求めた。「途端、相手の手指が萎縮していたので、あわてて会場医務室に駆け込み、消毒薬を求める騒動」を起こした。この医師の行動は、戦後13年経過しても、日本で偏見が強かったこと、医師が医学的知見より偏見に支配されていたことを示すものである。

政策について発言力があったのは、担当部署である厚生省の結核予防課、国立療養所課と絶対隔離政策に権益を有する国立療養所の園長たちだった。
療養所の園長たちは、学会を支配し、療養所に絶対的支配者として君臨した。1957年光田の退職以後、厚生省の対応は患者寄りに変化し、ソフトになっていく。それでも、らい予防法は1996年まで残った。1976年、光田たちの次の世代の医師からなる全国療養所所長連盟は、らい予防法の改正を提案したが実現しなかった。最終報告書は、療養所長たちが、本気だったかどうか疑わしいと述べている。法廃止が、「療養所所長たちの既得権と背反していた」からである。

厚生省の結核予防課、国立療養所課の歴代課長は、らい予防法の欠陥を知りつつ、廃止に取り組もうとしなった。らい予防法による強制隔離が、生活費支給の根拠だったからである。長期間社会から隔離された患者が、療養所を出て社会に復帰するのは困難だった。基本的人権を守ろうとすると、療養所が閉鎖あるいは再編され、患者が行き場を失うことが懸念された。強制隔離と処遇改善の「表裏一体論」が、らい予防法の廃止に向けて積極的に動かないための口実になった。現在から振り返れば、歴代の担当者たちは、人権についての認識が浅かったため、制度変更の意欲が乏しかったという説明も不可能ではない。こうした面も否定できないが、官僚個人が、世論や省内の意見に逆らって、英雄的に振る舞うことは期待できないし、期待すべきではない。統治の安定性が損なわれ、別の問題が生じる。筆者は、行政官個人の問題というより、行政への異議申し立てを異端として排除する日本人のメンタリティにこそ問題があると思う。

らい予防法の改廃が遅れた理由として、最終報告書には、「主体の客体化」という言葉がキーワードとして出てくる。日本国憲法施行後も、患者は憲法における権利の主体ではなく、保護の客体だった。患者側が法改正の会議に直接参加できなかったのに対し、絶対隔離政策に権益を有する国立療養所の所長たちが政策決定に大きな影響力を持ち続けた。1996年の最終的な法廃止に、公衆衛生局長、医務局長を歴任した大谷藤郎が決定的役割をはたした。筆者は、大谷を高く評価するものの、患者団体も粘り強く活動していたし、象徴になりうる人物がいなかったわけではない。筆者は、患者側ではなく、大谷が法廃止のキーマンになったことに、日本の民主主義の限界が表れていると思う。変革を要求する主体は、行政側ではなく、患者側でなければならない。行政の意見は、いかに患者寄りになったとしても、あくまで、行政の意見であり、患者の意見ではない。行政が患者の立場を忖度して意見を述べると、司法で禁止されている双方代理のようなことになり、十分な議論ができない。

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