臨時 vol 46 「後出しじゃんけんを法律で認める国」
■ 関連タグ
医療制度研究会・済生会宇都宮病院 中澤 堅次
■ 事故調とは別な死因究明制度の検討がはじまった。
最近、自民、公明両党の国会議員が、相撲部屋の新弟子死亡事件に触発され、
死因究明制度の立法化に向けて、議員連盟を立ち上げたという記事を見た。全国
厚生局に担当部署を置き、法医学の裏づけを持つ大掛かりなもので、ばかばかし
い話だと思う。医療事故調査委員会も同じように全国組織なので、ダブルで出来
るのかと思ったら、医療事故調が出来たらこれは作らないといっている。彼らの
頭の中は、犯罪捜査も医療事故もみんな医者の責任で、法律で縛ることで何でも
可能になると思っているらしい。
■ 検死と事故調査とのちがい
この死因究明制度は、検死と医療事故死の原因調査を混同している。検死は死
体に犯罪性があるかどうかを調べるもので、犯罪の疑いがあれば警察に通報する
ことが役割である。
事故調の届け出義務も、疑いの段階での報告だから同じようだが検死とは違う
側面がある。検死の現場には犯人はいないが、医療事故では医療者は現場にいて
特定されている。はっきりした過失死は別にして、疑いの段階での報告には自然
死も含まれる。自然死まで警察に通報すれば、名誉毀損になるだろう。通報しな
ければ義務違反で懲役か罰金刑を受け、通報すれば同じ戦場で働く同志から名誉
毀損の訴えを受ける。こんなことが法律として許されるのかどうか疑問が残る。
■ 殺人と医療事故死のちがい
相撲部屋で行われるしごきは、集団暴行であれば、明確に人体を傷つける意図
がある。医療では同じように人体を傷つけるが、人命を破滅の危機から救い出す
ために道具とエネルギーを使い、手術などでは、事前におこり得る可能性を、リ
スクも含めて本人に説明し、目的が生命の危機回避であることも了解されている。
また事故が起きたとしても、犯人はその場にいて生じた結果に責任を持とうと救
命処置を施し、損傷の回復のために総力を投じている。普通に考えれば混同でき
るような共通点は無い。命が失われた結果だけで殺人事件の罪人になるのは納得
がいかない。
■ 医療者が行う故意の殺人は実際そんなにあるのか?
医療行為を介して故意の殺人を行うことは極めて異常なことで、医療者は資格
習得を含む今までの努力や生活の全てをなげうって、生きてきた理念を壊してま
で殺人に走ることはまずない。常識が通じなくなった現代では、何があってもお
かしくないが、異常なことは異常としてとらえるべきであり、ありもしないこと
を想定して懲罰的な社会の仕組みを整備すれば、残さなければならない必要なシ
ステムまで壊れてしまう。
湾岸戦争のときにクウェートに侵略したイラクの負傷兵に対して、看護師が塩
化カリウムの注射をして殺したというテレビインタヴューを見た事を思い出す。
これは戦時であるとはいえ立派な殺人であり、生命の危機にある人間を意図的に
損なうという医の立場から見ても人間としてみても許されない行為である。どん
な状況であっても、医療の場合、この一線を越えれば、塩化カリウムを含む点滴
行為全てに故意の犯罪監視の目を向けなければならず、また看護師の行う全ての
行為に監視を着けなければならなくなる。ありもしない現実をさも当たり前のこ
とのように曲解し、きれいごとの議論を展開することが重大な結果をもたらすこ
とを知ってほしい。
■ 死因調査アメリカの場合
アメリカの例では、異常死かどうかの判定は検視官がやっていて、医師でない
検視官が犯罪の疑いがあると認めれば、犯人捜しが警察により行われる。医師が
関わるのは人命救助の部分で、大学の救急部の教授にパトカーが与えられており、
現場に駆けつけて救助活動の指揮を取るなど、警察よりは救急隊との結びつきの
ほうが強い。
日本では検死は医師が行うが、病死かどうかの確認をしているだけで、犯罪捜
査に責任を持っているわけではない。医師免許は犯罪捜査のためではなく、全て
の医師が法医学を実践する教育を受けているわけではない。殺人かどうかの判断
は本来医療とはまったく異質のものである。
■ 医師法21条は医療本来の理念とかけ離れた運用を医師に求める
医師法21条の医師に科された異常死体の報告義務は医療本来の理念とは異なる。
市民の関心事に労力をけちる当時の警察国家が医師を利用した名残とうつる。今
でも救急現場には瀕死の重傷者が運ばれ、なかには死亡している場合もある。救
命に立ち会った医師が検死をしたり、警察が特別に契約した開業医が呼ばれて検
死が行われている。警察にも検死官がいるが、その権限は死亡診断書を書く医師
の判断を越えるものではなさそうである。警察も気を使って病院に感謝状を下さ
るが、警察も人員削減で人手を割けないというのが実情であろう。厚生労働省地
方局がこれをやることもおかしい。国民の厚生にかかわることは他にもあり、警
察気取りはやめるべきである。
■ 死後の調査で生前の医療の是非を問うことはできない
医療は生前に行われるもので、検査や手術など人体に侵襲を加えることは許さ
れても、生命を損なってはならないという絶対条件がある。また、医療行為は繰
り返しがきかず、取り返しも出来ないという制約もある。生前における医療の関
わりはすべてがその制約の中で行われる。解剖は死後の調査であるがゆえにこの
制約は無く、縦横無尽、試行錯誤も、繰り返しの調査も可能である。死後の調査
をもって生前の医療の是非を問うことは、後出しじゃんけんのようなもので公平
性を欠き、ルール違反としか言いようが無い。
■ 解剖を医学に使えば医療は進歩し、責任追及に使えば進歩を妨げる。
解剖は病理学の手段として重要視され、近代医学の発展に大きく貢献したが、
振り返って診療行為の妥当性を判断する目的や、事故の再発防止に用いられた歴
史はないだろう。犯罪捜査のための法医学を、殺人の意図が無い医療事故に応用
する話も聞いたことはない。解剖は本来医学の進歩のために行うものであり、生
前の医療の可否を検証し責任を追及するのであれば、いままでのような医学の進
化は無く、これからの安全対策もおぼつかない。
■ 医療の不確実性と死生観の議論はこれから
生前の診療における制約は、医療の不確実性の象徴であり、医療には確実と絶
対の安全はあり得ない。絶対の安全を期するなら一切手を出さないことである。
それは医療そのものの否定につながる。良い悪いを言うつもりは無いが、これが
現実であることを認識したうえで立法の権利は行使されなければならない。今回
提示された死因究明制度は、人間である以上すべての人が共通して遭遇する死に
関する認識、つまり死生観の相違が国民の間にあることを示しており、医療安全
に名前を借りた、事故調査委員会設置法案とダブったことで期せずしてこの問題
が明らかになった。今後も継続してまじめな議論が必要だと思う。