医療ガバナンス学会 (2017年6月14日 06:00)
この原稿はjoy.net(5月1日配信)からの転載です。
https://www.joystyle.net/articles/394
神経内科
山本佳奈
2017年6月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
●「君に南相馬は難しい」の言葉に奮起
「白衣を着たい」そう思った日から、はや11年。関西生まれ、関西育ちの私にとって、まさか福島で働くことになるとは、夢にも思っていなかった。
高校1年生の夏。無性に白衣を着たくなった私は、医学部に進学したいと強く思うようになり、猛勉強を始めた。ちょうどその頃、ぽっちゃり体型も気になり始めた私は、「このままでは着られる制服がなくなってしまう‥」と思い、食事制限によるダイエットも始めた。勉強と食事制限の二重攻撃にあった私の体は、みるみるうちに痩せていった。
日に日に細くなることが嬉しくて、食事制限はエスカレート。勉強もすればするほど結果に結びつくことが嬉しくて、それも相まって私のダイエットはブレーキがきかなくなっていた。
高校2年生の冬。体重計の針が指す値は30kgを下回り、餓死寸前だった私は強制入院。退院後、授業に全くついていくことができなかった私の現役時代の受験成績は散々たるものだった。
自分が犯した過ちを心から後悔したが、遅すぎた。だが、皮肉にも医学部不合格という現実を突きつけられて、自分が摂食障害であることを理解することが出来たように思う。
一年間の浪人時代を経て、なんとか医学部に進学。模擬試験を受けるたびにD判定だった私が、どうやって合格したのかは今でも分からない。
だが、自分を信じ、目の前の問題を時間の限り解き続けたことだけは覚えている。
あこがれの医学部に進学した私の、最初の挫折は大学2年生の10月にやってきた。骨学の試験「不合格」。医学の勉強がやっと始まった矢先の出来事だった。「骨学を落ちるやつは、残りの解剖学のテストも受からない」。そう聞かされていた私は、かなり落ち込んだ。
頭が真っ白になり、泣きながら実家に帰ったことを覚えている。「そんなに辛かったらやめてもいいんだよ」なんて母親にあっさり言われたことが、それまた悔しかったから、なんとか乗り切れた気がする。
2回目の挫折は、忘れもしない大学6年生の10月。そう、初期研修を行う病院を決める「マッチング」だ。
話は5年生の春に遡る。当時、東京大学医科学研究所に研究室を構えていた上昌広先生に、友人の紹介で私は出会った。その研究室で、震災直後から今も勤務している坪倉正治先生や、南相馬でお世話になっている先生方にもお会いした。
そのときは、まさか私が南相馬に行くことになるとは、だれも思っていなかったと思う。上先生との出会いは、私の人生における大きな転機となった。上先生は、今の私の恩師でもある。
初めてお会いしたその日に「生まれ育った関西とは違う土地に行ったほうがいい」と上先生は私に言った。その助言が私の世界を広げてくれた。「それならば、東京に行ってみたい」そう強く思うようになった。
なぜ東京だったのか。もちろん関西を、そして実家のある大阪を愛していた。だが、一言で言えば、東京という大都会への憧れ。それに尽きた。
もともと、救急医療に力を入れている病院で研修したいと思っていた私は、東京の下町にある某病院に一目惚れ。ここで初期研修をしたいと心から思っていたし、ここで研修できないわけがないとなぜか自信満々だった。
だが、私の恋は片思いで終わってしまった。「不採用」とパソコンの画面にされるだけの、あっさりとしたふられ方だったが、私は奈落の底に突き落とされたような、そんな気持ちだった。
2時間くらいだろうか。泣いていても仕方がない気がついた私は、手当たり次第に病院へ電話をかけた。断られ続けること十数回。そんな矢先、福島県の南相馬市立総合病院で研修医を一名追加募集していることを知った。
「南相馬へ行ってみたい、実際に自分の目で見たい」。その思いを上先生に伝えたが、帰ってきたのは「やめておけ」の一言だった。「君が、南相馬でやっていくのは難しいだろう」と。
悔しかった。私が女だからなのか、それとも私だからやっていけないと言うのだろうか。考えれば考えるほど悔しかった。「やっぱり行きたい」と先生を説得し、当時副院長であった及川先生に一言いれてもらった。それからは、あれよあれよという間に話がすすみ、翌日の朝には採用が決まった。
●医者ひとりでは何もできない
後日知ったのだが、翌日の午前中に3名の医学生から問い合わせがあったという。ほんの少しでも私の決断が遅かったら、私は南相馬に来ることはなかったかもしれない。採用が決まったとき、私の心は安堵と嬉しさで満ちていた。
だが、その一方で、「両親を不安にさせることになるかもしれない」と思うと憂鬱で、福島で働くことになったことをすぐに両親に伝えることはできなかった。
関西人の私にとって、東北は遥か彼方の地だ。まして東日本大震災で未曾有の経験をした地域にある病院に行くなんて、私自身も予想だにしていなかった。だが、両親にとっては寝耳に水の話。いつも事後承諾で両親に伝えてきた私でも、今回の話を切り出すことはなかなか出来なかった。
案の定、母親は「なんでまたそんなところに‥」と涙ぐんだ。父親からは、電話口で「なんで福島‥」と言われ、電話を切られてしまった。国家試験の合格を伝えるまで、父親は口をきいてくれなかった。
だが、引越し業者を手配できなかった私を見るに見かねて、両親は関西から福島まで洗濯機や冷蔵庫を運ぶのを手伝ってくれた。「思ったより住みやすそうな町やな」と、南相馬についたとき、自分たちを納得させようとしながらつぶやいたであろう両親を、私は今でも忘れられない。
実は、私の人生の転機は、大学6年生の6月にも訪れた。出版社である光文社から「貧血についての新書を書きませんか」という手紙が届いたのだった。詳しくは次回お話しするが、完成までに14ヶ月の歳月を要した。
研修後に文章を書くということは、想像以上に大変だったが、論文を探したり読み込んだりすることは、自分自身の勉強になった。そして、想像していなかった世界が私を目の前に広がることとなった。
南相馬に来て、はや3年目。福島弁にもなれ、関西弁を聞くたびに「関西弁やなあ」と思ってしまうほどになった。だが、研修医になってからの半年間は、病院での仕事に慣れること、そして南相馬という土地に慣れることに必死だった。と同時に、得なければならない知識の多さに改めて気付かされた。医師は一人では何もできないことも痛感した。
空気も言葉も景色も食べ物も水も、やっぱり違うと実感した。同じ日本なのにこんなにも違うものなのかと、初めて肌で感じた。もちろん、ホームシックにもなった。大阪に帰りたいなと思うたびに、仕事が終わって帰宅しては、せっせとお好み焼きを作った記憶がある。
がむしゃらに過ごしていたある日、一人の入院患者さんが、私の関西弁を聞いて声をかけてくれた。「関西から来てくれたんだね、遠くからありがとう」と。
国家試験に合格したての私は、その患者さんになにもすることは出来なかった。
ただ、その患者さんに毎日会いに行って、話を聴くことしかできなかった。医師になりたての私は無力だった。だが、退院すると決まったとき、「いつも部屋に来てくれたから、元気になれた気がするよ」と言ってくれた。嬉しかった。
病気で苦しむ人の力に少しでもなりたい、と改めて感じた瞬間だった。今振り返ると、その患者さんとの出会いは私の医師としての自覚を芽生えさせてくれた気がする。
私の研修医ライフは、一言で言うとたくさんのチャンスをいただいた2年間だった。多くの人に出会い、多くの方に応援していただき、たくさんの貴重な経験をさせていただいた。
研修を終える最後の最後で、どん底に落ちる経験をしたが、今となってはいい思い出だ。次回は、そのお話しをさせていただきたい。