医療ガバナンス学会 (2009年12月10日 06:00)
■ 医療費の多くは高齢世代が使い勤労世代が負担する。
医療費は、全国民の所得から引かれる保険料に、企業と自治体と国からの資金が補われ、窓口負担も加えて病気の人の診療に使われる。病気は50歳を超えると年とともに増加し、50歳以上85歳までの人が医療費の大半を使う構造になっている。つまり50歳以前の青壮年は、自分では医療費を使わないのに、高齢世代が使う医療費を負担することになる。毎年医療や介護の費用は増え続け、経済が苦しい現在、負担する側は無駄な費用が投入されていると考えやすい。
現在の医療費増大は、高齢人口の増加に由来する。高齢世代の人口の伸びが多ければ伸びるが、小さければ伸びが止まる。医療費は病人の悲しみに沿うものであり、無駄使いや、生活習慣を正すとかで調節できるとは考えないほうが良い。
■ 社会保障の理念は「悲しみの支えあい」
日本の医療制度は他のシステムと同様、上から下に向けて作られている。医療費を増やそうとすると、国も企業も国民も支払う側に立ち、負担が増えるのを好まない。高齢者が助けを求めても、また医療側が疲弊しても、病人の悲しみは健康な上層部には伝わりにくい。伝統的に低医療費政策が採用され、医師不足や入所待ち、保険制度の破綻につながっている。
北欧では社会保障の理念を、悲しみの分かち合いと考えている。上から下への制度設計では病人の位置は最下層で、あっさり切り捨てられそうな立場にあるが、高齢者の悲しみに焦点を当てるだけで救済されるべき対象がはっきり見えてくる。個人の安心や家族の納得ではなく、高齢者や病人の悲しみのために、全世代の国民が個々の力に合わせて負担し、いずれはだれもがその恩恵を受ける。それが国民の満足度につながっている。
■ 医療費の増大には限りがあるが、費用負担は国民の稼ぎに頼るしかない
高福祉は重税につながり、国がつぶれるという陰謀めいた説がある。高齢者の悲しみの大きさは最大でいくらになるのか、厚生労働省の将来推計による医療費は、一時110兆円といわれその後56兆円まで修正されたが、私は40兆円を大きく越えることはないと推論している。人は必ず死を迎え、死が間近に迫る年代より先の医療費は、必ずゼロに収束するからである。
大きさはともあれ費用は国民の蓄えや稼ぎから捻出する以外に財源は無い。集めた金は悲しみの大きさに合わせて必要な人に支給され、費用は働いた人の報酬として再び次世代に還元される。莫大な富は産まないが、市場の失敗のように巨大な損失を産むことはない。高福祉と高負担の国デンマークでは、公的サービスの質を落とさないために国民が増税を要求することもあるという。重要なことは、人を愛し支えあう心が、この負担により、民族の中に引き継がれてゆくことである。
■ 国民の悲しみに責任を持つ
日本の現況は若者に負担が集中し過ぎていると思う。高齢者の悲しみを支える健康保険は勤労世代と企業が負担しており、医療費の伸びは勤労世代を直撃する構造になっている。貧弱な介護サービスは家族の肩だけに悲しみを担わせ、その場しのぎの国の借金は若者への付けになる。おまけに企業は経済危機に勤勉な国民を切って生き残りをかける。次世代には貧困と格差と憎しみだけが残るようになっている。
危機にある国民の悲しみに国の金は使われるべきである。全国民の生活に直接掛かる介護などの負担を支援し、システムを整えることが国家の役割である。当てにならない経済成長に頼って、借金を重ね危機を招くくらいなら、全世代の国民に力に応じた負担をお願いするほうがよい。
必要なところに資金が回われば必要な産業が芽生える。それは遅れて高齢化する自国の若者だけでなく、他国の若者にも貢献する産業になるだろう。要は政府が、普通の国のように国民の悲しみに責任を持つと腹を決めることである。
(下野新聞12月6日付「針路」を改訂)