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Vol.176 私が南相馬で働く理由 第3回「発信することで拓けた未来」

医療ガバナンス学会 (2017年8月22日 06:00)


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山本佳奈

この原稿はjoy.net(6月26日配信)からの転載です。

https://www.joystyle.net/articles/447

2017年8月22日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

連載『私が南相馬で働く理由』の最終回は、山本佳奈医師が挑戦し続けてきた「思いを発信すること」について。
初期研修医時代に上梓した貧血の新書にはじまり、新聞、SNS、WEBメディアに、医療情報や自身の思いを積極的に綴ってきた。反響があることに手ごたえを感じるいっぽうで、批判の声に大きな打撃を受けたのも事実。
しかし彼女はひるむことなく、ひたむきに伝え続けてきた。その先に見えたものとは――

●現場から伝えることの大切さ

南相馬に初期研修医として赴任して半年ばかりが過ぎた頃、関西からやって来た自分ができることは何だろうと考えるようになった。もちろん、臨床研修をすることは最優先課題だった。だが、大学生の時に自分の思いや考えを文章にして発信することで、世界が変わっていくことを感じていた私は、研修で学んだことや南相馬での経験、出会いや学びを文字にして故郷である関西へ、そして日本中へ発信したいと思った。

フェイスブックで書くこともあれば、新聞の寄稿欄に投稿することもあった。投稿するたびに、九州や北海道、海を越えて海外からも手紙やハガキやメッセージをいただいた。南相馬のことが日本中に、そして海外にも伝わっていることはとても嬉しかった。現場から発信することの大切さと、発信し続けることの意味の大きさを感じた。

意外かもしれないが、文章を書くことは、私にとって大の苦手であった。小学校の夏休みの宿題で一番嫌いな課題は、読書感想文だった。ほかの課題は難なく終わらせることができていたが、作文だけはどうしても書くことができなかった。そんな私をみるにつけ、呆れはてた母親は、夏休みの最終日に母親の感想文を手渡してくれた。

母のおかげで作文課題をすり抜けてきた私は、大学5年生になるまで文章を書くことを全くしてこなかった。上昌広先生(当時、東京大学医科学研究所特任教授)の研究室に通うようになってから出された課題は、自分の考えを文章にするということだった。

冬休み期間を利用して上京していたある日。興味のある分野のトピックについて文章を書くという課題に対して、私はHPVワクチンについて調べてみることにした。ちょうどHPVワクチンの副作用について報道が過熱し始めたときだった。接種年齢を遅らせることを提案しようと考えた私は、苦手なりにも一生懸命文章を書いた。

だが、帰ってきた私の文章は、赤ペンで真っ赤に染まっていた。書き方も文章の組み立て方も、接続詞の使い方も全く分かっていなかった私の文章は、お粗末なものだった。500字ほどの文章が完成するまでの訂正は、軽く50回を超えていたと思う。文章がうまくかけないことを悔しいと、人生で初めて思った。

自分の考えや思いを文章として表現できるようになりたいと思った私は、大学生になってやめてしまっていた読書を再開した。本屋に行き、読みたいと一目惚れしたあらゆるジャンルの本を読むように心がけた。

2つ目の文章に取り組んだのは、春期休暇を利用して東大の研究室に通っていた大学6年生の4月だった。ある日の午後、献血車が研究室の近くにやってきた。献血に行く度に貧血を指摘されていた私は、どうせ献血できないからと思い献血に行かなかった。だが、ふと自分自身が指摘されつつも放置していた貧血について、知りたいという気持ちに駆られた。

それからというものの、血液内科の教科書を読み返した。貧血におけるトピックは何か、文献をあさって探してみた。と言っても、英語の苦手な私は論文を検索することも見つけることもできなかった。できることといえば、ネット上に掲載された日本語の論文や文章を手当たり次第に読む程度だった。

検索ワードを何度も変更しては検索を繰り返し行っていたある時、一つの論文が目に止まった。妊婦が貧血だと、低出生体重児や早産のリスクが高まるというのだ。この論文の報告を読んだ私は、衝撃を覚えた。それと同時に、これから妊娠を考えていく同世代の女性に伝えたいと思った。

論文のデータをもとに完成させた妊婦の貧血に関する文書をハフィントンポストに掲載していただくや否や、想像以上の反響をいただいた。多くの方々が貧血に悩んでいることを実感した。だが、それだけでは終わらなかった。

後日、この文章が朝日新聞の広告欄に顔写真入りで紹介されたのだが、なんとそれを見た光文社の編集者である小松現さんから手紙が届いたのだった。「新書を書きませんか」と。

作文すらまともに書けなかった私に、そんな仕事が舞い込んでくるとは夢にも思っていなかった。メディアの持つ強大な発信力だけでなく、自分の考えを文字として表して発信することで、未知の世界が目の前に現れ、人生をも変えることになることを、身をもって知った経験の一つとなった。

当事者として発信することの意味を思い知ったのは、新専門医制度に対する自分の意見をまとめた時だった。前回も書いたが産婦人科専門医制度に関する問題点をまとめた文章(『「基幹施設は大学が基本」が招く産科医療の危機 地方から考える産婦人科専門医制度』)は、m3.comというネット媒体で取り上げていただいた。

「そんなことになっていたとは」と多くの方から連絡をいただいた。そして、多くの方々に応援していただいた。私の状況を見るに耐えかね、福島県いわき市出身の参議院議員である森まさこ先生は、塩崎厚生労働大臣に陳情書を提出する機会を設けてくださった。

だが、産婦人科医として南相馬に残りたくても残れない事実を伝え続けることは、想像以上に辛かった。状況が変わることはなく、ただ刻一刻と時だけが過ぎて行った。なんとかなるとたかを括っていた私だったが、4月まであと1週間になっても、進む科も勤め先も決まっていない状況を目の当たりにして、さすがにまいってしまった。

つい先日のことなのだが、そのあたりの記憶が曖昧だ。不安で押しつぶされそうだったことは覚えていない。結果として今は神経内科医として勤務することができている(詳細は第2回へ)。

2ヶ月があっという間に過ぎた。研修医の時とは違い、一人で当直をし、責任を持って患者さんと関わるようになり、自分自身の心構えが変わった気がする。医療と医学は違う。一人前になるには、主治医として現場で経験するしかない。患者さんや家族の思いは、実際にやり取りしないとわからない。そのことを、今、私は南相馬という地で学んでいる。

もちろん発信することをよく思わない人もいる。だが、発信することで多くの方々に応援いただいている。

例えば、女性を総合的に診たいと思っている私に、福島県立医大の竹之下誠一理事長はマンモグラフィの勉強をする機会を与えてくださった。東大阪市の岡本内科医院の院長である岡本雅之先生は、産婦人科の研修をできるようにと、焼津の前田産科婦人科医院の院長である前田津紀夫先生を紹介してくださった。

お2人は兵庫県の灘高校の同級生だ。前田先生の病院を岡本先生とともに訪問したら、快く迎えてくださった。スタッフは親切で、年間に600件以上の分娩を扱っているという。大学や市立病院ではわからない現場を垣間見ることができた。みなさん、私が発信しなければ知り合えなかった人たちだ。発信することで私の人生は豊かになったと思う。

「専門医取得の決まり切ったレールに乗らない」ということは、自分で道を切り拓いていくしかない。だが、このように多くの先生に助けていただき、少しずつではあるが光が見えてきた。

これからも医師として切磋琢磨しながら、一人の女性として、発信し続けたいと思う。

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