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臨時 vol 399 「川崎協同病院事件判決 その3」

医療ガバナンス学会 (2009年12月15日 08:00)


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~医療における法の限界・ガイドラインの限界~
患者とともに納得の医療を目指す臨床医の会(臨床医ネット)
代表  小林一彦
副代表 濱木珠恵
本稿は2007年8月8日に配信した原稿の再送です。
2009年12月15日 MRIC by 医療ガバナンス学会 http://medg.jp


これまで2回にわたって、東京高等裁判所の判決文から川崎協同病院の症例を紹介した。「その1」では、平成10年11月2日、当時58歳の男性が気管支喘息の重責発作を起こし、心肺停止状態で川崎協同病院に運び込まれ、救命措置により心肺は蘇生したが、意識は戻らず、人工呼吸器が装着されたまま、ICU(集中治療室)入院となったが、家族の希望により医師が気管内チューブを抜管したことが、患者さんが亡くなってから約3年後に事件化された経過を述べた。
「その2」では、東京高裁の裁判官が、どのような理論構築で、殺人罪という結論に導いたかを追った。裁判官は、治療中止を適法とする根拠として『患者の自己決定権』と『医師の治療義務の限界』という二つのアプローチを仮定し、本件がいずれかの観点から適法とすることができるか否か、できないなら殺人罪の成立を認めざるを得ないことになる、という理論を組み立てた。第1のアプローチ(患者の自己決定権)は、家族による自己決定の代行も、家族の意見等による患者の意思推定も否定し、第2のアプローチ(医師の治療義務の限界)は、あまり納得のいかない理屈ではあるが、余命の鑑定に基づいて、抜管時点で約1週間後に死に至るのは不可避であったとはいえず死期が切迫していたとは認められないとして、いずれのアプローチによっても治療中止を適法とはできないため、殺人罪が成立する、とした。
しかし、東京高等裁判所自らが殺人罪成否の判断基準として疑問を提起した2つのアプローチから要件を仮定して、適法性を根拠づけられないと言いつつも、殺人罪の成立を積極的に肯定したり、尊厳死の要件を仮に定立したとしても、「傍論として示すのは却って不適切とさえいえよう」と結論しているのだ。これは要件定立の困難さを自ら是認しているものの、司法機関としての裁判所が法的判断を回避できない苦しさを吐露していると言えよう。
今回は、判決文でも触れられているガイドラインの策定について考えてみたい。判決文には、確かに「尊厳死の問題を抜本的に解決するには、尊厳死法の制定ないしこれに代わり得るガイドラインの策定が必要であろう」と書かれているが、ガイドラインの策定によって直ちに解決すると述べているわけではない。
判決文は、次のように述べている。「尊厳死の問題は、より広い視野の下で、国民的な合意の形成を図るべき事柄であり、その成果を法律ないしこれに代わり得るガイドラインに結実させるべきなのである。そのためには、幅広い国民の意識や意見の聴取はもとより、終末期医療に関わる医師、看護師等の医療関係者の意見等の聴取もすこぶる重要である。世論形成に責任のあるマスコミの役割も大きい。これに対して、裁判所は、当該刑事事件の限られた記録の中のみで検討を行わざるを得ない。・・・この問題は、国を挙げて議論・検討すべきものであって、司法が抜本的な解決を図るような問題ではないのである。」
さらに踏み込んで、ガイドラインは手続的要件を定めるべきだということを、次のように述べている。「尊厳死を適法とする場合でも、単なる実体的な要件のみが必要なのではなく、必然的にその手続的な要件も欠かせない。例えば、家族の同意が一要件になるとしても、同意書の要否やその様式等も当然に視野に入れなければならない。医師側の判断手続やその主体をどうするかも重要であろう。このように手続全般を構築しなければ、適切な尊厳死の実現は困難である。」これについては、さらに議論が必要だが、後で述べる。
判決文は、ガイドラインが必要だと述べた後で、それでも解決しない事例が多いことを示唆している。「前記の二つのアプローチ、すなわち患者の自己決定権と治療義務の限界の双方の観点から、当該治療中止をいずれにおいても適法とすることができなければ、殺人罪の成立を認めざるを得ないことになる。ここで重要なのは、いずれのアプローチが適切・妥当かということを前提とするのではなく、単に仮定しているということである。いずれかのアプローチによれば、もちろん、双方によってでもよいが、適法とするにふさわしい事案に直面したときにはじめて、裁判所としてその要件の是非を判断すべきである。ことに本件については、・・・いずれのアプローチによっても適法とはなし得ないと判断されるのである。そうすると、尊厳死の要件を仮に定立したとしても、それは、結局は、本件において結論を導き出すための不可欠な要件ではない傍論にすぎないのであって、傍論として示すのは却って不適切とさえいえよう。」つまり、この二つのアプローチを仮定するだけでは不十分であり、第3のアプローチが必要だということになる。まさに、医療現場で判断が難しい症例は、判決文に述べられているような、患者の自己決定もできず、救命の可能性が10%なのか0%なのかといった、医師の治療義務の限界もはっきりしない場合ではなかろうか。つまり、第1のアプローチも第2のアプローチも成り立たないからこそ、医療者としては判断に困ってしまう。
判決文の中で、患者の自己決定権という第1のアプローチの記載の部分に、家族による自己決定という考え方を示唆する記載がある。「家族の意思を重視することは必要であるけれども、そこには終末期医療に伴う家族の経済的・精神的な負担等の回避という患者本人の気持ちには必ずしも沿わない思惑が入り込む危険性がつきまとう。なお、このような思惑の介入は、終末期医療の段階で一概に不当なものとして拒否すべきであるというのではない。一定の要件の下で法律にこれを取り入れることは立法政策として十分あり得るところである。」
さて、ガイドラインに話を戻そう。厚生労働省が平成19年5月21日に「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/05/s0521-11.html)を公表した。しかし、これで解決するとも思えない。このガイドラインは、患者の自己決定と、この判決では「意識を失う前の日常生活上の発言等は、そのような状況に至っていない段階での気楽なものととる余地が十分ある」と否定された家族による推定意思について書かれているが、判決文で重要だと述べられている手続的な要件も判断の主体も明記されていない。いや、それ以前に、ガイドラインはもっと根源的な問題を内包している。
法やガイドラインで全国一律に人の死に方を決めたところで、現場の医療者達は、理想のガイドラインに当てはまらない患者・家族を受け止めて、究極の個別対応を迫られることに変わりはない。全国一律のルールに当てはまらないケースに寄り添い、否応なく訪れる死を患者・家族と共に迎えることが、即ち、逮捕・起訴され、一生犯罪者として扱われることを意味するのであれば、ガイドライン策定によって、医療崩壊は更に促進するのではないか。法の限界である。
平成19年6月22日、日本緩和医療学会総会で、「終末期におけるがん緩和医療 ~標準化と多様化の挾間で~」というパネルディスカッションが開催され、厚生労働省が策定した「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/05/s0521-11.html)が話題となった。終末期における患者・家族のニーズは多様で、個別性を尊重すべきものであり、延命治療の中止のあり方も標準化できない実態が指摘され、さらに、使わなければならないものではないけれど、あると便利、という存在であるはずのガイドラインが、司法の場で使われ判例が出てしまい、守らなければ罰せられるルールブックとなってしまった例として、医師法21条に関する日本法医学会の「異状死ガイドライン」の例が取り上げられた(参照http://expres.umin.jp/genba/kaisetsu01.html)。
法やガイドラインは、規範として、一定の要件を定め、問題の標準化やエビデンスを要求し、責任の有無を画一的あるいは類型的に判定しようとする。
しかし、変化し続ける状況と、医療者と患者・家族の対話のプロセスにおいて、治療方針は決められていくものである。法やガイドラインで手続的要件を定めたとしても、ある一時点における合意書面をつくることの意義は、自ずと限界がある。
終末期医療においては、個人の価値観、家族をめぐる状況が重要である。病状の進行の程度・変化、心の準備など、すべてが個別的・状況依存的で、お互いの関係のあり方も時々に変化していく特性を持つ。そういう場面では、法やガイドラインで「画一的なルール」「法的責任を問われない指針」を定め、これを基準として一律に決めるという発想では、基準に当てはまらない事例が多く、医療者も家族も対応しきれなくなってしまう。そうではなく、治療方針や治療停止などをめぐる多様なニーズについて、患者・家族・医療者が対話をしながら共有し、その過程の中で、関係調整を試みるプロセスそのものに価値を見出す思考に転換していく必要がある。そして、その内容や結果を、法の限界の問題として、法的対応のあり方にも取り込んでいく仕組みが必要であろう。
それは一人の患者の生と死を見つめ、そこから生じる様々な想いに、他者がどう関わるか、そのプロセスを共有し、痛みや悲嘆を分かち合うことで、今をどう乗り越えていくかを問い直していく試みでもある。終末期医療の現場は、死に直面する本人と周囲の家族、医療者がお互いの理解と納得のいく場を作っていこうとする努力で維持されているのだ。法やガイドラインで一義的に決められるもの
ではない。
このことは、医療現場を、医療者の法的責任を問う場に変え、終末期医療の場を広く刑事責任の対象としている日本の刑事司法の問題性を明らかにしていくことにもつながる課題でもある。
以上、3回に渡り、川崎協同病院での事例と判決文から、所感を述べさせていただいた。臨床医としての自分の内省を促された思いがした。医療の現場に求められていたものは、紛争対応ではないはずだ。今後は、臨床経過における対話構築という質的に異なる作業が必要とされてくるのだと思う。そして、そのためには、医療者が、それぞれ関係調整者(メディエーター)としての役割を果たさなければならない。すなわち、患者ひとりひとりの固有性と状況依存性を重視し、問題を分析し、個人の価値観を尊重しつつ、関係調整するプロセスを重視するメディエーション(Mediation)や対話型ADR(Alternative DisputeResolution: 裁判外紛争処理)の考え方を医療現場で活用していく努力が求められているのだと、強く感じている
(参照http://expres.umin.jp/genba/g_news.html、http://expres.umin.jp/genba/kaisetsu03.html)。

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