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Vol.190 優しい看取りとは?

医療ガバナンス学会 (2017年9月12日 06:00)


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帝京大学大学院公衆衛生学研究科
高橋謙造

2017年9月12日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

私は帝京大学大学院公衆衛生学研究科という大学院で公衆衛生を教える立場にある。私の主な専門は、国際保健、地域保健、母子保健などだ。一方で、私は小児科の臨床医でもあり、今でも臨床の第一線に立っている。現場が分からなければ、教育をする事は出来ないからだ。途上国にも行き、地域医療の現場にも関わっている。最近、若手の臨床医や医学系学生と接する機会が増え、色々と考えさせられる事が多くなった。今、高齢化が進む日本において、地域保健医療を学生たちと一緒に考えていく上では、高齢者そして看取りを避けては通れない。
本稿では高齢者の看取りについて、「優しい看取り」とは何かについて自らの体験を踏まえて考えたい。

私が生まれ育ったのは、福島県いわき市である。そこで、明治の初年度より今も続く旧い旅館の長男として生まれた。当時は旅館の一部「帳場」がそのまま住居でもあった。帳場は天井が高く、煤けた柱に蜘蛛の巣が張っているような棟で、藁葺き屋根だった。藁葺きの棟は、冬は寒かったが、雨が降った時には、屋根に静かにさたさたと雨の染み込む音が響いた。子どもの頃は、その雨の音を聞きながら祖母と眠った。帳場には囲炉裏があり、囲炉裏の側にはいつも祖母が座っていた事を覚えている。間取りは広く、およそ20畳の空間で家族の生活は完結していた。壁際には私の勉強机があり、祖母はいつも私の勉強する背中を眺めながら眠りについていたようだ。

その祖母が亡くなったのは私が高校3年生の秋の事だった。
その日、夜の10時前に帰宅した私は、すぐに机に向かった。
父は、こたつで帳簿を確認しつつ眠っていた。
「腹減ってねーげ(お腹すいてないかい)?」と祖母は、布団に入ったまま話しかけて来た。
「いや。」自分は、そっけなく返した。「そうげ(そうなのね)。」と祖母。
そのまま、机周囲には祖母の寝息が聞こえ始めた。
やがて祖母は起き上がり、トイレに立ち、戻って来た。
「ヒー、ヒー。」という呼吸に気づき振り返ると、祖母は布団の上に立っていた。
そのまま、布団にぺたんと腰を落とすように座り込むと、「うーんうーん、苦しい。」と言い、本格的に肩呼吸をし始めた。その事態に、父は気づき、「どうした?母ちゃん?」と抱きかかえた。私は驚き、とっさに119番の電話をかけ、救急車を呼んだ。
そのまま1分ほど苦しい呼吸をした後に、肩から力が抜け、「ぐるる-。」と痰がらみの息をはいたのを最後に祖母は息を引き取った。おそらくは、喘息の重積発作だったのだろう。

父は、そっと祖母を布団に横たえると、「謙ちゃん、おばあちゃんの最後の顔、よーく見てやれや。」というと立ち上がり、電話機の方へ向かった。
父が電話していたのは、かかりつけのH先生の医院だった。「うちの母が、息を引き取ったみたいで。」と話しているのが聞こえた。

その後、救急車がやって来た。生まれて初めて向き合う身近な人の死に、自分は身動きが取れなかった。父が玄関まで迎えに行き、入り口で状況を説明しているようだった。救急隊員の方が入って来て、祖母の脈を取り、呼吸を確認した。父と私を見て、「はい、確かに。」と一言いった。
「心臓マッサージとかしますか?」
「いや、もう、いんねべよ(必要ないでしょう)。」と父が答えた。
「んだね(そうですね)、かわいそうだね。肋骨とか折れて、痛々しいがんね(痛々しいからね)。」

そんな会話のやり取りが終わると、一瞬静寂が訪れた。
救急隊員も、祖母の枕元に座っている。

そこに、祖母のかかりつけ医のH先生がやって来た。
救急隊員は、聞き取れないほどの早口で状況を報告した。
H先生は報告にうなずきつつ、祖母の枕元に片膝を付き、性急にドクター鞄を開けて聴診器を取り出しつつ、祖母に声をかけた。
「なんだっぺ、どうしたーばあちゃん!?苦しいのげ(苦しいのかい)?」
まるで生きている人に話しかけるようにしながら脈を取る。
私はこの時、先生の所作を見つつ、「大丈夫だ、まだ生きてる。きっと元気になってくれる。」と信じた。
「うむむ。」唸りつつ、H先生は聴診器を祖母の胸に当てた。
天井を見上げるようにしつつ、聴診器から音を聞き取ろうとするH先生。長い長い時間が経過した気がした。彼の表情を眺めながら、自分にも徐々に現実を受け入れる気持ちが生まれて来た。やはり祖母は亡くなったのだ。
聴診器を胸からゆっくりと外すと、H先生はペンライトを取り出し、祖母の瞳孔を見た。
H先生は顔をあげると、厳しい表情を見せつつ、おもむろに救急隊員さんに向かい話しかけた。
「今、診察しました。さっきまで息をしていましたね?今、息が止まったのがわかりましたね?」
救急隊員さんは、一瞬躊躇したような表情を見せた後、答えてくれた。「はい。」
「今、息が止まりました。亡くなったのは、午後11時〇〇分です。」

ぼーっとする頭で、祖母の死を認識した。と同時に涙が溢れ出した。
もう、会話することも、一緒に食事をすることも、お茶を飲むことも出来ない。
「謙造君、謙造君!」H先生の声が私を現実に引き戻した。
「ばあちゃんのお顔見てご覧。楽な顔してるよ。大往生したんだよ。」

H先生の矜持も、救急隊員さんの行動も、今では感謝している。
死因が明確に出来ない場合には、司法解剖の対象になるからだ。
正確な意味においては、警察に連絡し、死因不明と報告すべきであったかもしれない。
おそらくH先生は、かかりつけ患者の祖母が司法解剖されることを避けたかったのだ。いや、避けるべきと考えてくれたのだ。

自分は医師になり、やがて大学病院で高度な小児医療に従事する世界から、奄美の離島で子どもからお年寄りまで全てを診るような経験も積んだ。
家族の求めに応じて、心肺停止のお年寄りの蘇生も何度も経験した。高齢者の心臓マッサージをする時に、肋骨がポキリ、ポキリと折れてしまう嫌な感覚も十分に経験した。蘇生の後は、紫色の痣も残り痛々しい。しかも、蘇生に反応せずに痣のみが残った場合、それは、本人にとっても家族にとっても、決して優しい最期ではない。

日本においては、2017年現在、高度な医療が普及した結果、出来る医療をすべて提供できるのが医療施設、医師の評価につながってしまっている。しかし、私は自分の祖母の急死経験、そして臨床での蘇生経験を通して、出来る医療すべてを行うのが医療ではない、ということを学んだと思っている。今後も、若手の医療従事者とともに、この課題を考えていきたい。

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