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Vol.191 精神保健からみた左翼思想―個人的経験から

医療ガバナンス学会 (2017年9月13日 06:00)


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杉野実

2017年9月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●個人的経験
たとえばこんな内容の電子メールを執拗に送信してくる人がいたら、どう思われるだろうか。筆者の高校同級生でもある友人から送られてきた文面のほんの一部を、まず再構成して以下に掲載することにしたい。
「中島(岳志)さんは安倍が真の保守ではないと言おうとしているのだが、安部は保守とか革新とかの範疇を超えて、専制的、独裁的、もっと言えばファシズム化しているとはっきり言ったほうがスッキリするでしょうに?」
「なに?あの菅の国民をバカにしてなめ腐った態度と顔。…確かに安倍にしても菅にしても顔に反知性主義がありありとあらわれているわな。」
「この佐川、森友学園問題では、『適正に売却した』などと言い放ち、売買交渉記録も『記録が残っていない』と木で鼻をくくったような答弁ですっとぼけて国民をだまくらかした張本人だろ?…国民はこいつが国税長官でいるかぎり納税を断固拒否する一大国民運動をまきおこそう!」
「江戸川区には以前…流れるプール…があって…数年前に取り壊されて今は区内に流れるプールがない!…また江戸川区にも流れるプール作れ!墨田区には立派な室内流れるプールがあるし、北区にもある。江戸川区にないのが悔しい!…昨日酔っぱらって帰りにdocomo葛西店によったら、まだ7時半だというのに、営業時間外だって、…慇懃無礼に言われた。腹が立ったから、少し声を荒らげたら警察呼ばれた。結局なんの咎めも当然ながらなかったが、docomoは20年来の顧客をちょっと声を荒らげたぐらいで警察に突き出すように指導してるのか?」
「Kさん国会でなんかかわるなんてあんまり期待してないよな~。…確かにKさん若いころには革命目指したり、労働組合活動したりして…いまはもう引退したよ。社会変革をするのは次の若い世代に譲るよ。」

●これは思想の問題か?そもそも思想とはなにか?
「Kさん」がなんらかの意味で左翼思想から強い影響を受けてきたのはまちがいないが、彼の周囲でおこっている事象の構図は、「典型的な」左翼の周辺にあるものとも随分ちがう。左翼思想それ自体については、ごく簡単なものにせよ、本稿でも後述しなければならないが、その前に、思想とは一体なにか、特定の個人が特定の思想をいだくことにどんな意味があるのか、という問題を考えねばならない。
そんなのはあまりに大きすぎてとらえどころのない問題だ、といわれるかもしれない。実際、いわゆるアカデミックな問題のなかで、この問題を考えるに際して参考になるものは、ほとんどなかった。ただ意外なことには、あるブログ(三沢2015)の、「政治家やマスコミ、活動家達が言ってることは本当に思想なんですか?」という、挑戦的な文章にはかなり有益な視点がみられたので、上記の事例につき筆者の考えるところをのべることにしたい。
たとえば自動車を自分で運転して移動するとして、目的地まで安全に、あるいは最速で到着するためには、こういう交通規則が必要だとか、交通量にみあった車線数の道路が必要だとか、考えるのが思想であると三沢はいう。それに対して、「自転車は歩道を走れ」とドライバーがきめつけたり、「自転車は車道を走れ」と歩行者がきめつけてりするのは、思想ではない。自転車という「仮想敵」の排除ばかりを考え、交通規則や道都の状態をどう変えるかを考えないのはむしろ「弊害がある、という認知ありきの対応」である。
それでは左翼とは(あるいはそれと対立する?右翼とは)なにか。三沢は印象的な図をのせてまとめているが、世界を「上と下」にわけて自分は「下」にいると思うのが左翼であり、世界を「ウチとソト」にわけて自分は「ウチ」にいると思うのは右翼である。そして左翼は「上」すなわち「政治家や資本家」が悪いと思い、右翼は「ソト」すなわち「中国やアメリカ」が諸悪の根源であるとする。
筆者の友人の場合、「上と下」という区分が明確でなく、よって左翼だと必ずしもはっきりとはいえないが、自分以外に仮想敵を求める、「認知ありきの対応」をしていることはまちがいなく、そのかぎりで「思想の問題ではない」とはいえそうである。

●「造反有理」-左翼の特徴的な世界観
そうはいっても、左翼の世界観にみられる、ある「傾向」が、友人の言動にも投影っされているのではないかと推測すべき理由もある。なんらかの世界観、とりわけ政治思想にかかわる世界観については、とかく「敵か味方か」という立場からの議論になりやすく、その世界観がどういう傾向をもっていて、それを信じる人々をどんな行動にかりたてやすいのか、ということを客観的に分析した議論は実は少ない。甘田のサイト(2014)は、その困難な課題に挑戦したものであるが、技術的な理由からすぐ閉鎖される可能性が高い。
マルクスが理論の当面の目標を、「資本主義社会の分析」においたことのちょうど裏返しとして、その「分析」のあやまり、たとえば労働価値説のあやまりを、まず指摘すべきだとするのが、従来のマルクス主義批判の定石であった。だが甘田の批判はそういうものではなく、マルクスの理論が資本主義社会の、どのs工面を強調しつつ度の側面を捨象し、結果として理論の信奉者に、どんな行動を要請するか、という点に焦点をあてる。
マルクスの経済学体系では、「身体労働のみを対象とし、資本家の頭脳労働は徹底的に否定され、それ以外の頭脳労働は捨象されてある」と甘田はいう。そこで終わるならよくある批判と同工異曲にすぎないが、甘田の独自性がきわだつのがここからである。すなわち、頭脳労働(とりわけ管理労働)に固有な困難などなく、頭脳労働と身体労働の「兼任」など簡単にできると信じるマルクス主義者が、革命を成就して実際に政権をにぎれば、現実の人間の能力(特に個人間の情報伝達能力)をこえる管理上の問題が、あらゆる生産拠点においてもちあがり、「生産力の破壊」という破局が生じるというのである。
このような傾向の背景には、「敵階級を絶滅すれば、敵の能力を吸収することもできるはずだ」という、「科学的因果性」によっては説明しにくい、「魔術的因果性」の認識があるのではないか、と甘田はいう。左翼に対してはよく、「批判ばかりで対案がない」、さらにきびしくは「破壊ばかりで建設がない」との批判がなされるが、そういう体質の背景に、社会的「事実」に対するある楽観論があることが、ここでみてとれる。

●「造反有理」への親和性?-躁的傾向とはなにか
冒頭の文例からわかるとおり、筆者の友人「Kさん」も、万事についけ大変楽観的である。現実には失敗も多いが、社会改善への意欲を完全に失うことはなく、またとりわけ自分の「正しさ」への自信を喪失することは絶対にない。そんな彼を見ていて、筆者は一時、「現実の状況がどうあれ、自分の正しさへの自信を失わないのであれば、少なくとも自分の心の健康だけは守れるだろう」と思ったものである。しかし、自身が鬱病で受診したことがあり、精神保健に一定の見識をもつ、別の友人と話して考えが変わった。「Kさん」にはあるいは躁的「傾向」があるのかもしれない。
筆者は社会科学研究者ながら、以前から精神保健には一定の関心をいだいてきたが、それでも主として興味をもったのは、統合失調症やパーソナリティ障害あるいは鬱病であって、躁病はほとんど視野に入っていなかった。そこでにわか勉強的に文献をさがし、春日(2008)に出会ったのだが、そこにえがかれた躁病像は衝撃的であった。

同書中の有名人の例でもっとも印象深いのは、かつてテレビで「バラエティ番組ジャック」事件をおこした(「演出だった」という説も有力であるが)作家有吉佐和子であろうか。「稀代のストーリーテラー」ともよばれた彼女が、晩年に書いたが出版できなかった作品は、そのストーリーが「他愛なさすぎる」ものであったばかりか、すでに映画化までされていた海外小説に酷似していたという。所持金もないのに9時間ボウリングをし続けた老人とか、あまりに子供っぽいセクハラ事件をおこした現職市長など、一般人の例もなかなかすごい。友人とも符合していると筆者が特に強く思ったのは、「下手な」(いつまでたっても絵の技量が上達しないという意味)風刺漫画を毎日かき、しかも投稿をこころみるでもなく、親戚に郵送し続けていた男性の例である。
春日によると躁病患者の行動的特徴は、幼児的万能感や刹那的・破滅的気分とともに、徹底的に俗っぽい価値観にも、つき動かされるところにあるらしい。筆者の友人や、あるいは左翼の場合には、最後の「俗っぽい価値観」というのは、あてはまらないかもしれない。だがあとさき考えず、「既成の秩序をこわしさえすればいい」と楽観的に考える姿勢に、躁病患者と類似した気質をみてとるのは、それほど困難ではないとも思われる。

●自分の世界観に誠実に向き合う
冒頭にあげた文面集とは別の、筆者が本論を書くにいたるひとつのきっかけにもなった、友人による発言の内容を、ここでまた紹介することにしたい。「Kさん経済評論」と題したその電子メール文面においては、消費税は税率据え置きではなく廃止されるべきであり、必要な財源は大企業や富裕層から徴収すべきだという、やや極端な主張がなされていた。「もうかっていない企業も多い」から、この種の議論は「マクロ経済バランスからみて」非現実であることを筆者は確認したが、「Kさん」のこの文面に注目したのには別の理由もある。T新聞の愛読者である彼は、「なぜT新聞が消費税廃止の論陣をはらないのか」と問うたのである。筆者は、「経済バランスが云々」という反論はせず、「それならT新聞の直接問いただしてみればいい」と、彼には答えてみた。
筆者はこれまで友人の言動について、「躁病的」などと、なかばきめつけつつ論じてきたが、「躁病だから治療を受けろ」と強要するつもりはないし、また医師でもない筆者にそんなことが許されるはずもない。企業との紛争をこじらせる個人の中には躁病者も少なくないと論じた記事が、よりによって『労働新聞』にもあった(労働新聞2015)が、「そんな記事が労働者の味方であるはずがない」と、彼ならいうかもしれない。

一方思想についていうなら、いかなる政治思想(あるいは宗教等)であろうと、それが「世界観」の域にとどまっているかぎり、ある人が「その思想をいだいているというだけの理由で」非難されるいわれはない。しかし思想が、「経験により検討されるべき事実」の領域にふみこんでしまった場合は別で、ふみこまれた方の分野は「科学の名において」反撃しなくてはならない。マルクス主義に関しては、「革命をおこせば、利害の『調整』なしに政治あるいは経済の運営ができる」との主張がそれに相当しよう。
ある人がある種のかたよったいわれはない。思考パターンをもつか、または「事実に関する」あやまりをふくんだ思想をいだいているとき、他人はそれに対してどう対応すべきであろうか。患者が自身の世界観との相克になやんでいるとき、医師は患者の生き方に関する相談にものるべきだとする、フランクルのロゴセラピー(1957)が参考になる。本例でいえば、「利害調整」のない社会を目標とする運動に友人が今後どう関与すべきか、という問題を考えなければならない。筆者が理想と思うのは、彼が今後も、具体的な問題をひとつずつ解決しようとする地道な社会運動に関与を続け、「利害調整のない社会」の実現が無理であることを、経験から学びとることである。その意味で、「革命は若者にゆずる」という彼の発言は、「実際には現実の前に革命が挫折したのに、そのことをみとめたくない」心情を反映したものともとれるのである。社会科医学関係者のみならず、精神保健関係の方々からも広くご意見が頂戴できることを筆者は切に願う。

参考文献
甘田幸弘(2014)「マルクス主義は現代の呪詛宗教である」http://www.h4.dion.ne.jp/^kosmos9/index.html
フランクルV.E.(霜田徳爾訳)(1957)『死と愛―実存分析入門』みすず書房(原著Frankl, V.E. Aerztliche Seelsorge, Wien, Verlag Franz Deuticke, 1952)
春日武彦(2008)『問題は、躁なんです―正常と異常のあいだ』光文社新書
三沢文也(2015)「政治家やマスコミ、活動家達が言ってることは本当に思想なんですか?」http://www.tm2501.com/entry/seiji_no_mikata
労働新聞(2015)「第15回うつ病・双極性障害」http://sh-union.or.jp/news/media/post-028.php

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