最新記事一覧

Vol.012 浜通りの街から・・(1)いわきの中心地から東(四倉、久ノ浜)まで

医療ガバナンス学会 (2018年1月19日 06:00)


■ 関連タグ

福島県浜通り(竹林貞吉記念クリニック)
永井雅巳

2018年1月19日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

いわきはおもしろい街だ。東側は太平洋に面した60kmに渡る海岸線に、多くの海水浴場と小名浜港を初めとする11箇所の美しい港を持ち、一方、西側は山とも丘とも言える山容の中に古い街並みが、いつ終わることなく続いて点在する。
いわきのある福島県は内陸側から順に、越後山脈・奥羽山脈に囲まれる会津地区、奥羽山脈と阿武隈高地に囲まれる中通り、そして阿武隈高地と太平洋に挟まれた浜通りに3分される。福島県は北海道、岩手に次いで、全国でも3番目に広い面積を有するので、同じ県内でも、いわきから中通りにある福島や郡山に行くにも結構大変だし、会津に行くには凄く大変だ。

中通りと浜通りを分ける阿武隈高地は、阿武隈川・久慈川・太平洋に囲まれ、船団を逆さにしたような形のなだらかな山地である。山には、様々な針葉樹と広葉樹が混在する日本でも希有な混交林をなす。春には、これらの深緑・新緑に加え、まずアカヤシオ(岩ツツジ)の花が咲き、ヤマザクラに移り、そこにヤマナシの花が混じる。地元の人々は、この儚いサクラの桃色と、堂々とした常緑針葉樹の深い緑、広葉樹の爽やかな緑が混じて交じる春の風景を“山が笑う”と言う。
阿武隈高地は、光も届かぬ海の底で眠っていた古い地層が隆起して、はじめ大山脈となったものが、長年の浸食作用で老年期のなだらかな地形となり、さらに盛り上がり、現在の形となったという。中部から西部は、穏やか山容が続くが、東の方に至ると、深い渓谷を刻む川も多くあり、この高地を東から西に抜ける常磐自動車道は、断崖壁を落ちては、また昇る所となる。

太平洋に面する浜通りは、さらにその中程にある富岡町と大熊町の境にある森林地帯・夜ノ森(よのもり)により2分される。北側は相馬市を中心とし、仙台など宮城県南部とのつながりが深く、いわき市のある南側は、茨城県北部・日立や水戸などとのつながりが深い。夜ノ森には、樹齢100年を超えたソメイヨシノを含め、1000本を超えて繋がる桜のトンネルがある。春夜に漆黒の森にライトアップされる桜は妖しくも美しい。いわきには夜ノ森だけでなく、桜の銘木が数多くある。各地で古楼に残るしだれ桜が有名だが、これら桜の葉が秋になると橙紅くなり、楓の深紅、銀杏の純黄、そして常緑針葉樹の深緑と混じり、欧州中世期の風景画のように浮かぶ。そこに、見事に熟した柿の実や赤い南天の実がアクセントとなる。

この夜ノ森の近くに経済成長期の1970年東京電力により2カ所の原子力発電所が建設された。その経緯には恐らく当時の権力者・為政者の様々な思惑や策謀があったのだろうが、今となっては語られない。北・相馬側の大熊・双葉町に福島第一原子力発電所、南・いわき側の富岡に福島第二原子力発電所が創られた。第一原発は、1971年3月に1号機の営業運転を開始し、2011年3月11日の東日本大震災により、1 – 4号機で炉心溶融や建屋爆発事故などが連続した。結果、放射能活性を有するセシウムが、其処から周辺に噴出し、再び、この地に漂い落ちることになった。目には見えないが・・。

様々な混乱の中、震災直後に国より出された避難指示は半径2kmの範囲だったものが、翌日には10kmとなり、すぐに30kmとなった。国により、富岡町、大熊町、双葉町のそれぞれ全域、田村市、南相馬市、楢葉町、川内村、浪江町、葛尾村のそれぞれ一部は警戒区域として、浪江町、葛尾村の警戒区域を除いた区域、飯舘村全域、南相馬市の警戒区域を除いた一部、川俣町の一部は計画的避難区域として、住民は域外避難を命じられた。住民は生まれ馴染んだ地を追われることになった。その数は最盛期の2012年5月には16万人を超えた(現在も8万人が避難、なお1万2千人は仮設住宅に住む。ただし、この8万人には、避難指示が続いている浪江町、富岡町、大熊町、双葉町、飯舘村から県内に避難し、仮設宿舎を出て、災害公営住宅や避難先で住宅を建築した人、乃ちもう故郷を諦めた人は含まれていない。)

東日本大震災は2つのフェイズからなる。一つは地震、それによる津波により、多くの命が一瞬のうちに失われこと。そして、二つ目は、そこに原発があったために、以後、6年余りを経てもなお、その周辺に住んでいた人々を漂わせていることだ。6年の間に家族が離散し、9回以上の転地を余儀なくされたヒトが多くいる。
いわき市は、昭和41年新産業都市建設促進法に則って、旧・磐城市・内郷市・常磐市・平市・勿来市・小川町・遠野町・久之浜町・四倉町・大久村・川前村・田人村・三和村・好間村が新設合併することにより創設され、当時としては面積が日本一広い市となった。また、この合併により、おそらく、住所がやたら長くなったのも特徴であり、訪問診療医にとって頼りのナビ表示欄や公式書類の住所記載欄に住所が入りきらないことも度々である。

また、読み方が難しい地名・住所も多々ある。神谷(かべや)、勿来(なこそ)、矢大臣山、屹兎屋山、猫鳴山、二ッ箭山、閼伽井嶽・・・。読み方がわからないと、ナビが入れられないので不自由する。不自由だが、その由来を想像するに面白い。現在の私の住所は、福島県いわき市平(タイラ)谷川瀬(ヤガワセ)字三十九町(サンゾクチョウ)22 ○○○XXX-●●●号であるが、未だに、住所を尋ねられて、即答できたことがない。ただ、此地の5階の自居の窓からは、平市街地の高層マンションと近代的な競輪場、点在する公園、西には遠く阿武隈の山々を眺め見ることができ、おもしろい。

平地区はいわき市の中央に在り、市の行政機関の多くも此処にある。街の其処此処に緑が在り、美しい街だ。因みに、診療所の患者の住所の一例を挙げると、いわき市小名浜下神白館ノ腰〇-1県営住宅下神白団地〇ー●、いわき市常磐上湯長谷町釜之前〇-●、いわき市常磐上湯長谷町山の神前〇-●、いわき市平下神谷字南一里塚〇-●等々、その由来を想像するにおもしろい。

さて、診療所(といっても、ここで患者を診るわけではないが)も、この平地区の高層マンションの2階にある。周辺には美術館、文化センター、そして幾多の高層マンション、震災後にできた事業所の出張所のビルが建ち並ぶ一方、中によく残ったなあと思える古い民家も混じる。街を走る車に外車が多いのも特徴だ。朝には、ほぼ夜明けとともに、揃いのカーキ色のユニフォームを着た作業員の方々が文化センター前で大型バスに吸い込まれていく。
バスの行く先は、東に在る被災地、南相馬市、双葉町や楢葉町。平は、いわき市の中心地で在りながら、朝には街から外(被災地区)へ、夕には街の外から内へ帰ってくる車で国道6号線(バイパス)は渋滞する。復興道路工事がそれに拍車をかける。私も国道6号線をいわきの北東へ向けて走る。橋梁や坂道では道がうねり、捻れているので油断が出来ない。途中、神谷(カベヤ)を抜けて、四倉(ヨツクラ)にある道の駅手前には、ここから津波浸水区間の表示がある。沿岸には新しく創られた防潮堤が続く。さらには、ここから30km先、二輪車など通行禁止の標識がある。

この標識を車窓に見ながら、日の出が美しい波立海岸を過ぎる辺り秋道の両サイドにはススキがそよぐ。波立海岸は北の樹木の南限、南の樹木の北限として、様々に彩られた樹木が混交林をなす。海には、かつて、役に立たなかったテトラポットに白い波頭が砕け、やがて、大久町を過ぎる。ここ大久町ではアンモナイトなどの化石が発見され、昔、この地が海の中にあったことを教えてくれる。

この地で生まれ育った鈴木直さんは、中学2年生の時にいわき市北方に分布する双葉層群という地層の歴史が記された『阿武隈山地東縁のおい立ち』(柳澤一郎著)という本を読み、伯母さんが住んでいたいわき市大久町入間沢の大久川付近で発掘を始めた。1968年には大久川河岸に露出していた双葉層群玉山層で首長竜の脊椎骨の化石を発見する。発掘されたのはほぼ完全な個体1頭分と子供を含む6頭分の部分化石。特に、前者の全長は約6.5mに及んだという。発見から38年たった2006年(平成18年)、長い検証期間を経て、この首長竜は発見された地層と発見者の名前から、彼はフタバサウルス・スズキイFutabasaurus suzukii、と命名され、新属新種として正式に登録された。今から、約8500万年前、ここにいた生物の話である。

四倉の道の駅からしばらくは、新しく創られた防潮堤が長く続く。やがて、空と海の境がよくわからない圧倒的な太平洋が唐突に現れる。海以外何もない。目をこらすと、空と海の境界がやがて、両端で丸くなる。その向こうに何があるのか・・。そこには、今は、かつて此の地で何が起こったのかよくわからない時空間が存在する。3・11の一瞬の波にのまれた人達も解らなかったのではないか。そんな気もする。

さらに、ヤブカラシが道路壁を舐める6号バイパスを海岸線に沿って北上すると、久ノ浜につく。この太平洋に飛び出した高台に私の診療所が嘱託する特別養護老人ホーム(特養)の1つがある。津波に襲われ、多くの動けぬ老人と周辺住民を守ったスタッフの動きは、相川祐里奈氏の書かれた「避難弱者」(東洋経済新報社)に詳しいので、ここでは繰り返さない。一方、このホームの食堂からは、高く聳えた火力発電所の3本の煙突を見ることが出来る。海岸淵に堂々と、白く、誇らしげに、とがった煙突は美しく、その向こうにある原発だけでなく、この地が日本の経済成長に必要であった電力の供給源となっていることを示す。石炭、その後ろにある原発、たった150年ほどの歴史だ。

この特養では、双葉町、楢葉町の被災者も含めた約100人の高齢者が生活している。彼らは、被災直後は県内外の施設を転々とし、ようやくこの故郷の近い地にたどり着いた。6年余の間、県内外の施設を流々転々としながら、住み慣れた故郷を失い、生活能力(ADL)を失い、認知能力を失い、家族も失ってきた。今は、その海馬も開き、自分が今、どこに居るのかさえ解らなくなった中で、遠く故郷を探しに、日がな一日、歩ける人は徘徊を続け、想い出の歌を口ずさむ。歩けない人は車いすの上で、車椅子からずり落ちないように仰臥位で想い出の景色を追う。テケテケテケテケ・・。海馬に残っているのは、遠い日の想い出だけだ。

いわきの東は、新しいモノ、古いモノが混じる混沌とした街だ。そこに今、住む人は2つに分けられる。元々居た人。後から来た人。あるいは、M7.4 を経験した人、経験していない人。震災を経験した人の多くは、震災について語らない。語るのは後から来た人達だ。経験した人には、語れないほど、大きく、重い理由があるのだ、きっと・・。

MRIC Global

お知らせ

 配信をご希望の方はこちらのフォームに必要事項を記入して登録してください。

 MRICでは配信するメールマガジンへの医療に関わる記事の投稿を歓迎しております。
 投稿をご検討の方は「お問い合わせ」よりご連絡をお願いします。

関連タグ

月別アーカイブ

▲ページトップへ