医療ガバナンス学会 (2018年2月13日 06:00)
グラフィックデザイナ
日本ロービジョン学会
日本人間工学会会員
山本百合子
2018年2月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
その意味で、井上清成弁護士の
「Vol.265 医療ニュース記事の書き方に関する考察」(12/26,2017 http://medg.jp/mt/?p=8055)は大変興味深く拝見いたしました。
私もメディアの報道に関しては、不自然なものを感じて参りました。ある時、友人の新聞記者に問うたことがあります。すると、「じゃあ、どの記事のどの部分が間違っているか、指摘して欲しい。もし、それが本当に間違っているなら、新聞社はちゃんと調査するし、謝罪もする。」と言われました。なるほど、そう言われてみると、「間違った」記事は思い当たりません。時折、記事が間違いを指摘されていることはありますが、ほんの一部です。膨大な量の情報発信のうち、何千分の1。これをもって、新聞は嘘つきとは言えません。むしろ、それで「新聞報道は嘘ばかり」と喧伝したら、そちらの方が「嘘」です。ネットの世界にはびこる陰謀論や疑心暗鬼、非建設的なバッシングをのさばらせることにつながるでしょう。
再度、冒頭の相撲暴行事件について考えてみます。実は、朝日、読売、毎日の新聞紙面で、一面トップ、もしくはそれに準じる場所にこの暴行事件を扱っている日はそれほど多くありません。一面に並ぶ記事は、その日の日本社会にとって重要なニュースのみになっており、そのプライオリティも検討された上で配置されているのが見てとれます。しかし、ワイドショーやニュース番組、雑誌の見出しを見ると、ずらりとこの関連の報道が並び、トップや大見出しも目に付きます。大手新聞の常識的な対応とのコントラストは明らかです。しかし、インターネットではこれらの報道が同じレベルで列挙されます。SNSや携帯のアプリケーションなどではその日のトップニュースを読むことができますが、そこでは大手新聞の記事も、女性週刊誌のゴシップも同列なのです。そしてそれらの記事はリンクを渡ることによって、掘り下げ、膨大な量の情報ソースの集積ができてしまいます。私が、「毎日相撲暴行事件ばかり」「力士は皆、乱暴者」のような印象を持ってしまうのも、無理の無いことでしょう。
逆に言えば、もし、何らかの隠したい事件があった場合、何かをフレアさせれば、その影に隠すことができるかもしれません。
井上氏は上記の論考中、読売新聞の医療記事について分析をされていました。私も何年か前、報道のあり方に対して、データ化を試みたことがあります。*1
2004年、福島県立大野病院事件と呼ばれる産科事故が起こり、大きな議論を呼びました。この時の朝日、毎日、読売の新聞報道は357件、ピークの2008年7月から9月の3ヶ月間に79件の報道があり、裁判に関しての報道、大野病院事件を引用した産科関連報道なども多く流れました*2。これらの報道の方向性を一つ一つ分析してゆくと、記事群がマスとなって流れを作っていくのが見て取れます。医師が逮捕された2006年1〜3月は、事件のレポートに加えて医師の有罪を示唆する内容のものが多く見られました。しかしその後、3月に公的団体が異議をとなえると、その論調は変化してゆきます。事件直後は「医師がミスをした」という論調であったのが、一人医長の問題、医師の労働環境に言及し、産科医療の疲弊の問題に関する記事となってゆくのです。更にこれらは社会運動に変換されてゆき、2009年の産科医療補償制度の発足につながることになります。
もともと、医療事故報道の過熱はこれより数年前から、顕著になっていました。2000年の医療事故関連報道数は1530件、これはこの10年前、1990年は66件*3であったことを考えると膨大な量であると言えます。そのきっかけとなったのが、1991年の都立広尾病院事件と横浜市立病院事件ですが、この時の報道数も大きなものでした。主要新聞の1999年1月1日から2000年12月31日までのこの事件の関連報道数は、278件 *4 にのぼります。 ここで蓄積されたエネルギーが大野病院事件の原動力となったようにも見えます。
実は患者の取り違え事件そのものは、それまでも何件も存在していました。1987年のいわき市立総合磐城共立病院の事故では、健康な妊婦に中絶手術を行い、患者は初めての子供を失うことになりました。しかし、この時の報道数は、朝日、毎日、読売ともに3件です。2000年以降の医療事故報道は様々な形で社会的インパクトを与えましたが、1987年の事故の周辺には特筆すべき変化はありません。
これらから見えてくるのは、報道の「量」によって社会的インパクトに大きな差が有るということです。
報道数が多くなれば、画像や動画他、人の心に訴えるメディアでの発信も含まれるようになります。大野病院事件では当時、「白昼」「逮捕される医師」の映像が何度も流れました。これらの映像が本当は何を意味しているのか、視聴者は考えることなく、「悪い人」という印象を持ったり、「警察は酷い」と感じたりしたでしょう。事件の詳細はテキストでしっかり分析されたものも多くありましたが、このようなものを読んでさえ、映像が脳裏に刻み込む印象や、繰り返し流されることによる刷り込みは拭いきれないものだったはずです。
大野病院事件を受けて、産科医療補償制度が創設されたと言われていますが、報道というペンの力が、(良いか悪いかは別として)社会制度を変える機動力になった一つの例でしょう。これもまた、情報がマスとなった時に生み出されるものだと言えます。おそらく、同じ現象は、他のいろいろな分野でも起こってきたのではと推測します。
報道や情報は、一本一本の確かさだけを検証しても意味が無いと言えるでしょう。フレアは一本の記事からではなく、複数の記事が発信され、影響力が肥大化してゆくことによって生まれます。その意味でも、井上氏の指摘は、興味深いものでした。氏の指摘のそれぞれは「嘘」に対してではありません。概ね「不明確さ」であり、限られた文字数の中そこまで書くべきかどうかは見解の相違なのかもしれません。が、いずれにしろそこには「物議」が生まれてしまいます。そして反論が煽られ、連鎖してゆく可能性があるという指摘であろうと考えます。氏が指摘する一本の記事の「不適切」さは、部外者にとっては些細なものに見えますが、氏の示唆する方向性に沿って、ワイドショーやその他メディアで記事が作られてしまうと、相撲暴行事件のような様相を来してしまうことにもなりかねないということでしょう。
本来、報道機関が流す情報は、ルールに則って制作され、間違いがあれば正すルートも確立されており、正しいはずです。しかし、時としてそれが集まり、思わぬ方向に動的な流れを作ってしまう可能性があります。このダイナミズムの正当性は、それぞれの記事の正確さとは別物です。
経済にも、一つ一つの局面を分析してゆく方法と、マクロエコノミクスという切り口があります。後者からは、市場を読み、国家が介入するなど、様々なコントロールも可能であるとされています。ジャーナリズムも、マクロという視点を持つことによって、肥大化を予知し、コントロールできる可能性もあるかもしれません。もちろん、ここには大きな危険、世論の恣意的な操作の可能性も存在します。それを見極めるためにも、マクロをどう、読むことができるか、そこには誰かが介入できる余地があるのか、その視点を持つのは重要でしょう。そして建設的に言えば、ここから、よりバランスの取れた情報社会への道が生まれてくるのではと考えます。
*1 主要3新聞の関連ワードのヒット数の調査(朝夕刊地方版他すべて 見出しと全文より) 使用データベース/朝日新聞: 聞蔵II ビジュアル 読売新聞: ヨミダス歴史館 毎日新聞: 毎索
*2 検索ワード 大野病院 ○ 期間 2004年12月1日~2011年12月31日 結果: 朝日新聞:147件(239件) 読売新聞:100件(162件) 毎日新聞:110件(178件)/ヒットした記事のうち関係の無いものを除外した記事数 ( )内はヒット総数
*3 検索ワード:医療訴訟 OR 医療過誤 OR 医療事故 OR 医療ミス
*4 検索ワード:横浜市立大 AND 事故 AND 患者 期間:1999年 1/1~2000年12/31 結果:朝日新聞:78件 読売新聞:118件 毎日新聞:122件
多摩美術大学 美術学部グラフィックデザイン 卒
東京大学 大学院総合文化研究科 国際社会科学 修士