医療ガバナンス学会 (2018年2月16日 06:00)
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浜通りの街から(2)常磐・内郷
福島県浜通り(竹林貞吉記念クリニック)
永井雅巳
2018年2月16日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
以前は1日で50人近くの外来患者さんを診ていたが(実は、きっと診ていなかったのだろうな)、今や一日8人程度診るのが精一杯で、生産性・効率性が悪いことはこの上ない。何せ、1日の時間の8割は車を運転している。ただし、この患者さんがどういう所で生きて、どういう中で暮らしてきたのか気づくこともある。疾病がその人の生き様の中で創られてきたモノで在るとすれば、その疾病を産み出した様々なモノを知るために、少々効率性が悪い事は致し方ない。
2017年4月から私は先輩の所長と一緒に約70名の在宅患者さんと50名の施設入所中の高齢者の方々、150名ほどの特別養護老人ホーム(特養)に入所中の方々の診療を行っている。在宅患者さんの大半は、平(タイラ)の西、旧常磐市と旧内郷市の境にある「湯本傾城 (ゆもとけいせい)」と呼ばれる小さい山裾に居住する。湯本傾城はいわきの臍のようなものだ。ただし、臍でも出臍である。その出臍を、常磐線がトンネルで貫き、陸前浜街道と呼ばれる国道6号は、その谷間を縫うように走る。面倒なのは、ここは頼りのナビがあまりアテにならないほど、今、道路工事が其処彼処で行われていることだ。たよりのナビの言うままにハンドルを切ると、ただ臍の周りをグルグル回っていることもある(それもまた楽しいが・・)。
傾城は、“本来、美人の意。漢書に美人を「一顧傾人城,再顧傾人国」と表現したのに基づき,古来君主の寵愛を受けて国 (城) を滅ぼすほどの美女をさし,のちに遊女の同義語となった(ブリタニカ百科大事典)”とあるが、なぜ、ここが湯本傾城と呼ばれるようになったのか、私は知らない。
旧内郷市は、いわきの中でも古くから栄えた街で、大日本帝国憲法が発布された年に、内町村、小島村、白水村、高坂村、綴村、御台境(みだいさかい)村、御厩(みまや)村、宮村が合併し、磐前郡内郷村として発足した事に由来する。旧村名がそれぞれ大字名として残り続けたことが、現在の忌まわしき住所の長さの一因である。
内郷村誕生の5年後に日本の近代国家成立に多大な貢献をなした磐城炭礦株式会社が当村に進出し、以後、この街は日本中から多くの炭鉱労働者を集め活況を極めた。しかし、やがて第二次大戦が終わり、エネルギーの主軸は石炭から石油へ移ることとなる。常磐炭礦も1976年に閉山となり、炭鉱としての街は約100年の歴史を閉じた。内郷の山裾にある “炭鉱発祥の地、みろく沢炭鉱資料館”では、その歴史の一端を知ることができるが、残念ながら、ほとんど今、そこに観光客を見ることはない。エネルギー革命により、炭鉱からの撤退を強いられた街は、1962年新産業都市建設促進法により、「郡山・常磐新産業都市」の指定を受け、炭鉱の街から商工業者のためのベッドタウンとしての役割へと転換し、生き残りを図ることになる。当時、多くの公営住宅が建設され、これらは、今もセピア色に包まれ、街の其処彼処に見ることが出来る。
国宝・白水阿弥陀堂は、このような内郷の片隅に、歴史から忘れられたかのように、ひっそりと在る。国力の発展とともに翻弄された街の在り様は、石炭・石油を経て、原発まで、たった100年の時空間を経るのみだが、白水阿弥陀堂には、その建立から、すでに約850年の時が流れる。パンフレットによると堂は平安時代末期に、藤原清衡の娘・徳姫によって建てられ、徳姫は夫、則道の菩提を弔うために、その境内に寺を建て、「願成寺」と名付けたという。
阿弥陀堂の屋根は柿葺が張られ、壁板には、その残る壁画の一部に平安の面影を偲ぶことが出来る。中には阿弥陀如来像を中心に、両脇に観世音菩薩像と勢至菩薩像、加えて二天像(持国天像、多聞天像)の5体の仏像が安置され、拝観料の400円也を払えば、僧侶が生で(テープではない)、その由来を説明してくれるが、果たして、この仏像達がどのような想いで、この850年の時の流れを見つめてきたかについては語られない。阿弥陀堂は東・西・南の三方を池に囲まれ、7月の朝には、池の杭に佇むアオサギやその水面を揺らすカモのツガイを見ることが出来るかも知れない。静謐とした空間を天空に伸びる蓮の蕾が、ポンと花を開く音を聞く事ができるかも知れない。
Kさんは88歳、この白水阿弥陀堂の直ぐ脇にある青いトタン屋根の細長い家に奥さんと住む。トイレと風呂などの水回りは、座敷を出た外にある。彼の一日に往来する動線は、ほぼ寝室兼居間に1年中置いてある炬燵とこれら水回りに限られる。この20年間、ほとんど変わらない。夜になると、外には漆黒の森とその上に輝く白い三日月。遠くポッポ、ポッポと鳴くのはアオバズク、夜を裂くように、時折、甲高くキーンと鳴くのはトラツグミか・・。Kさんの最近の悩みは尿が近くなり、その上、膝が痛いものだから、居間とトイレへ行ったり来たりが大変で、しばしば転ぶことである。診療に伺う度に、額や腕に絆創膏が貼られているのが、その証拠だ。
在宅医療はそう複雑ではない。多くの高齢者の悩みは、Kさんと同じように、慢性の痛み、排尿障害、便秘、睡眠障害、体中のかゆみ。これらが彼らの症状の90%以上と言って良い。珍しい病気はほとんどない。厚労省から発表される有訴率(難しい言葉だけど、まあ日頃、悩んでいるモノの意だろう)でも、腰痛・膝、肩関節の痛みなどが圧倒的に多い。大切なのは、慢性の痛みと言うこと。排尿障害にしても、単純膀胱炎に伴う頻尿とは異なり、慢性の排尿障害、過活動膀胱だ。
識者に因れば、慢性の痛みは、急性の痛み(侵害受容性疼痛)に、神経障害性疼痛が加わったモノだそうだ。ヒトは、痛みは痛い所ではなく、脳にある視床(タラムス)という場所で感じるらしい。その後、その痛みを伝えるシグナルは、視床から大脳辺縁系、さらにはその痛みの感覚を減じる抑制性ニューロンを介して、アドレナリンやセロトニンなどの伝達物質を動員し、再び、末梢へ伝えられるという。慢性の疼痛は、どうも、この抑制系シグナルの閾値が下がり、常に痛いと感じていることが要因にあるようだ。痛い筈の膝にはVirchow の言う炎症所見の腫れや熱感がないのに、本人は痛い(私のようなヤブには、本当に痛いのかと疑ってしまうが・・きっとそれは私が急性期医療しか知らないからだ)。
因みに、この抑制系シグナルはとても大切で、このシグナルがあるから、ヒトは、次から“痛い”ことを避ける逃避行動を取るらしい。遺伝性に汗腺のない疾患を受け継いでしまった子は、同時にこの抑制系シグナルも障害しているために、痛みからの逃避行動を取れずに、舌を噛んだり、指を噛みちぎる事を繰り返し、幼少期に命を落とすこともあるそうだ。
私が大半を過ごしてきた大学病院や急性期病院では、急性の痛み・頻尿や便秘などの対応法については定型的に教えてくれたが、慢性の障害については、余り教えてくれなかった。高齢者も入院してくると、若い人と同じく、判で押したように(実際、判で押したこともある)、疼痛時には、消炎鎮痛剤を処方して対応する。あげくの果てには、不穏時のために、身体抑制の許可までとってしまう。身体抑制を2週間も続ければ、結果、高齢者は歩けなくなるし、実は高齢者の方の悩みの多くは、延々、いつ終わるとも知れなく続く慢性障害なのに。
私の世代の医者(すでに、ありふれた症状への対応はアップデートされることなく、実は偏狭な領域しか診ることができなくなってしまった医師のこと)には、この在宅医療における専門外の領域のインプットは非常に刺激的だ(インプットが多いと楽しい)。自分のこれまでの医師としてのキャリアを振り返っても、インプットの多い研修医時代から卒後10年くらいまでは、たとえ肉体的に忙しくても、楽しかった。人は学んでいるときは楽しいのだが、齢、年齢を重ね、このコモンな部分から離れると、狭い領域しか診ることができない(アカデミズムが言うところの)専門医になってしまう。
そこからは、アウトプットがインプットを上回るようになり、ほぼ40歳を過ぎ、専門医(と称する)資格を得てしまうと、専門領域以外のコモンな症状に遭遇しても、患者の訴えに辟易とし、乱暴な医療(判で押した医療)になりがちとなる。是非、これからのヒトには、本当に優れた専門医をめざすために、コモンな領域の裾野を広げて欲しい。なぜ、富士山はアベノハルカスより高いかだ(裾野が広いから、より高くなれる)。スプリント重視の専門医志向に騙されることなく、好奇心満載のインプット重視の研修をして欲しい。医療は決して短距離競走ではない。早くして、専門医となり、コモンな領域に興味を失い、アウトプットだけになった医師は、仕事がつらくなり、本当の医師としての使命や達成感を見失い、虚構の権力や名声だけを追うだけのつまらない医師になってしまう。
さて内郷に隣接する常磐も内郷と同様、一時、炭鉱により黄金時代を築いたが、エネルギー革命により、高度経済成長期にほとんどの炭鉱が閉山となった。ただ、今でも街の其処彼処には、その時代の古い長屋のような住宅が残り、塵肺などを病む旧炭鉱労働者が、彼の地に住む。一方、1966年には巨大な常磐ハワイアンセンター(現スパリゾート・ハワイアンズ)が、小高い丘の頂に、突如、バベルの塔のように建つことになる。そのハワイアン建設までには、炭鉱を守りたいという鉱夫達と、常磐の街を存続させるためにはそれもやむなしというハワイアン建設組が対立したと聞くが、そのコンフリクトについては、映画「フラガール」に詳しい(今から、たった50年ほど前の話だが・・)。ところで、映画と言えば、“超高速参勤交代”の舞台もここ常磐湯長谷町にあった湯長谷藩の話である。江戸(東京)まで、8日かかったところを5日で歩くことなど、とても想像できないが、その道中は今や“ヤブカラシ”の覆うところとなっている。
気になるのは、かつてこの地に、ばらまかれたセシウム134、137だけではない。其処此処に蔓延るヤブカラシの旺盛な生育ぶりである。Cayratia japonicaの名の通り、ヤブカラシは、日本でよく見かけるツル科植物で、和名は藪を覆って枯らしてしまうほどの生育の旺盛さを示している。ヤブカラシは、別名ビンボウカズラ(貧乏葛)とも呼ばれ、その名の由来は、庭の手入れなどできない貧しい人の住処に生い茂るなどの意味に解されている。たしかに、震災後、廃屋となった民家や街を縦横に走る道路周辺、あるいはスギ、ブナなどの群生に、ヤブカラシが巻き付く姿は、恰もその樹木の首を絞めているような不気味さが漂う。
常磐線に乗り、いわきから水戸へ向かうと、その周辺には一面、ヤブカラシに覆い尽くされた丘陵に遭遇し、愕然とする・・恐るべし、ヤブカラシだ。このヤブカラシの駆除法には世の愛園家も随分手を焼いているようだが、「大地の再生講座」を主催する矢野智徳さんによると、除草剤などを使わなくても、樹木に絡みついているヤブカラシを木から解き、くるくると丸く束ねて、地面に置くだけで、やがて枯れてしまうと言う(樹木から解き放つのも大変だが・・)。則ち、ヤブカラシは寄りかかるものがあれば旺盛に萌える一方、寄り添うモノを失えば生きていけなくなる性のようだ。やがて、この国が、竹林とヤブカラシに支配されるのではないか、車窓に真昼の妄想を抱くこととなる。