医療ガバナンス学会 (2018年3月12日 06:00)
妹尾優希
アナップ・アプレッティ
(このエッセイは2018年3月1日に発行されたMRIC Globalより転載。http://prt.nu/0/MRICGLOBAL_Nepal)
2018年3月12日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
米科学誌「Science」は欧州各国の水文観測所の過去50年のデータから、洪水の発生時期の変化を研究した論文を8月に掲載しました(2)。この調査は、気候変動によって河川の増水や洪水時期が、これまでの時期からずれてきており、農業や市民の生活に影響を及ぼしている事を警告しています。問題はこれにとどまらず、増加する洪水被害に伴い、水をめぐる国際紛争も危惧されています。解決には、多国間の協調が必要ですが、国力や国家規模の差から当事者同士の対等な交渉は難しいのが現状です。
今回は、世界の水紛争と問題解決について、私、妹尾優希が、国際河川の研究を専門とする研究者の方に伺ったお話や、ネパールに住む友人のアナップ・アプレッティ氏と洪水について話しあった内容について紹介したいと思います。
■ネパール・インド間の水害紛争
2017年8月27日のGuardian紙では、8月11日より始まったモンスーン期の豪雨により、南アジア3カ国、ネパール、インド、バングラデシュにおいて、死者1,200人を超える被害が出たと報道されました(3)。アプレッティ氏によると、ネパール南部の31地区が洪水の被害に遭ったということです。
また、2017年12月1日のネパール政府の発表によりますと、ネパールでは全77地区のうち35地区に及ぶ洪水によって160人が死亡、29人が行方不明、約192,000棟の住宅が崩壊し、3,700以上の学校・病院・役所を含めた建物に被害が及びました。現地では22,000人以上の人々が避難を余儀なくされ、被災地は怪我、ウイルス性の感染症や細菌性による下痢を訴える患者が溢れていたとのことです。また、洪水による被害総額は、4億8千万米ドルと報告されています。
ネパールが上記のような大きな被害を受ける背景の一つに、地理的な要因が考えられています。ヒマラヤ山脈を水源とするガンジス川とブラマプトラ川沿いは、毎年モンスーン期になると氾濫し、テライ平野地帯に大きな被害をもたらします。そして、インドとネパールにおける土地開発は、これまで度々河川の氾濫に晒されてきたテライ平野地帯を、さらに地滑りが起こりやすく変化させていると指摘されています(4)。 その一つの例として、ネパールの山々における樹木の伐採が挙げられます。
1990年代以降、新憲法制定や民主化の政治的混乱に陥ったネパールは、治水政策を実施する余裕がありませんでした。そのため、住民はエネルギー確保のため木の伐採を余儀なくされ、結果として地すべりが起こりやすい地形へと変化していまいました。日本でも戦時中に、保安林の杉の増伐が行われ、同様に地すべりが起こりやすくなった歴史があります。自然災害における脆弱性と経済的な損失額について分析したGermanwatchの調査においては、2014年の天災被害額は約1億4000万ドルと推計されています(5)。この額は、世界で第7番目に大きい被害でした(5)。
洪水と国境沿いのダム
今回調べたネパールの洪水被害と地理的な原因についてアプレッティ氏に尋ねると、この他にも、洪水被害には隣接する国同士の力関係が大きく関係している可能性がわかりました。
図1は、ネパール・インド国境のインド側に位置する、1,751kmに及ぶ道路兼堤防と、18箇所のダムを表しています。これらの構造物の一部は、ネパール政府に事前相談されることなく建設されたそうです(6)。2014年8月に発効した国際水路条約においては、「水路国は、他国に重大な悪影響を及ぼしうる計画措置を実行する前に、関係国に事前通報しなければならない」(第12条)と規定されています。そのため、今回のインド政府の行いは国際的な協定に背くものと言えそうです(7)。
さらに、ダムの上流に位置する水門のコントロールにおいても、インドが一方的に権利を握っています。その影響は、モンスーンのような災害時に如実に表れています。例えば、その時期には、インドは、ダムの上流に位置する放水ゲートをネパールに通告することなく閉鎖してきました。その結果、ネパール側の洪水被害拡大につながっています。図2の地図でわかるように、ネパールにおいて大きな被害が報告された地域が、インドとの国境沿いに位置していることからも、ダムの水門が閉鎖された影響は大きかったと言えるでしょう。さらに、2008年6月のネパールの報道では、インド政府がネパール西部マハカリに設置したサラダダムのゲートの開放を拒否した為に、洪水被害が引き起こされたとされています。その他にも、ネパール側は、インド政府による違法なチュリア山岳の炭鉱開発が河川の自然な流れを変え、被害を大きくしていると主張しています(8)(9)。
http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_052-1.pdf
http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_052-2.pdf
一方で、ネパールの主張だけではなく、一度インドの側の主張から南アジアの洪水問題を紐解いていこうと思います。2017年のモンスーン期間の豪雨は、インドにも大きな被害をもたらしました。同年8月19日時点において、ネパールとの国境沿いに位置する北東部のビハール州では、約500人が死亡(10)。その他にも、北東部のアッサム州とアルナチャルプラデシュ州では77人が死亡し、西部のグジャラート州では213人が死亡したと報道されています。北中部のウッタープラデシュ州では、250万人の住民の安全が脅かされ、109人が感染性下痢によって命を落としました(10)
ネパール側からの、ダム、堤防や炭鉱開発に関する指摘に対して、インド政府はウッタープラデシュ州を始めとするインド北部の洪水被害は、ネパールのヒマラヤ山岳地帯の土地開発の影響によるものだと非難しています(7)。 さらに、ネパール政府から丘陵の豪雨に関する情報提供がなかった事が、市民への非難警告を遅らせて、大きな被害へつながったと批判しています。これに対して、ネパール政府はヒマラヤ山脈付近の天候変動の情報は、中国が情報提供をするべき立場にあったと主張しています(11)。一度視点を変えてインド側の主張や立場を調べることで、土地開発による地質の変化や、自国の洪水被害を防ぐ治水対策が、他の流域国に大きな影響を及ぼしてしまう、といった南アジアの水をめぐる紛争の全く違った側面が見えてきました。
■国際流域をめぐる世界の紛争
このような争いは決して、ネパールとインドのそれに限ったものではありません。世界全体に目を向けてみますと、2つ以上の国が流域を共通している国際河川や湖沼は270ほど存在しており、河川の利権をめぐって国家間で多くの紛争が繰り広げられてきました。現在私が住んでいるスロバキアにおいても、隣国であるハンガリーと河川やダムの共同開発を巡って、1970年代から20年以上係争が続いていました。スロバキアとハンガリーは、1950年代から60年にかけてシゲットコズ地区とシトニ地区のドナウ川の大氾濫を経験しました。その治水政策に、石油資源を持たない両国の水力発電と舟運航路の開発を結びつけて、ガブチコボ・ナジュマロシュダム共同開発協定を1977年に結びました(12)。
しかし、協定の締結後に、ドナウ川下流国であるハンガリーが建設の中止を申し出たために、両国間の係争に発展しました。このハンガリー政府の申し出は、1980年代の東欧の民主化の流れを受けて、1988年にハンガリーの環境保護団体ドナウ・サークルがハンガリー側に建設中であったナジュマロシュダムの建設反対運動を起こし、その後共産党一党支配が崩壊した事を機に、市民運動に拍車がかかった事が要因となっています。
こうした背景から、ハンガリー政府は1992年に公式にナジュマロシュダムの建設を中止しました。翌年1993年にハンガリー・スロバキアの両政府はハーグ国際司法裁判への提訴をし、1997年に協調の勧告を受けます(14)。1994年にスロバキア政府はECによる調停案を拒否していますが、その後ハーグ司法裁判所の裁定に同意しています。国際司法裁判へ提訴を承諾した背景には、双方がヨーロッパ共同体(現EU)への加盟を希望していた事と、加盟にあたり隣国との良好な関係を保つ事が条件であった事が大きく影響しています(12)。
同様の事例は他にも存在しています。例えば、ナイル川のダム建設を巡ってスーダン・エジプトと他のナイル川の流域国8カ国間で対立が起こっていますし、インドとパキスタンの間ではインダス川の水利システムをめぐって争いが起こりました(13)。いずれのケースにおいても、当事者同士での解決が困難であったため、世界銀行が仲介に入り問題解決を目指しています(13)。その背景に、先進国からの開発援助を受ける条件として、紛争の解決が必要不可欠であったことが挙げられます。
ハンガリー・スロバキアの事例のように、当事者同士の解決が困難となるケースにおいてしばしば共通して認められる特徴は、当事者間に大きな国力の差が存在することです。インドとネパールの事例はその最たる例です。現在、インドの経済成長率は、2年連続で7%を上回り、南アジア経済を牽引しています。対してネパールは2015年に発生した大地震による被害から回復できておらず、また、次々と自然災害に襲われており、その負債は膨らむばかりです。経済成長率は2014年の6%から下がり続け、2016年は0.56%まで低下しました。
さらに、インドの一人当たりのGDPが1,709.39米ドル(2016年)であるのに対し、ネパールは729.53USD(2016年)と、半分以下に留まっています。スロバキア・ハンガリーの事例においても、二国間には大きな国力の差が存在しました。ガブチコボ・ナジュマロシュダム計画事件が勃発した1993年当時、スロバキアの一人当たりのGDPが2,561米ドルであったのに対し、ハンガリーのそれは3,862米ドルでした。
さらに、1959年のエジプト・スーダンの間の協定においては、他のナイル川の流域国であるエチオピア、ウガンダ、ケニア、タンザニア、コンゴ民主共和国と比べて国力があった両国によって、ほぼ独占的に協定が結ばれています。エジプトは1952年のエジプト革命による経済・社会改革やスエズ運河国有化を勝ち取るなど、アラブ界の盟主として大きな国力を誇っていました。スーダンは、国土が広く、原油、鉄、銅、金などの鉱物資源が豊富である為、1950年代末から米国による石油開発が本格的に始まりました(15)。
59年のスーダン・エジプト間の協定は、ナイル川の年会水量840億立方メートルのうち、約555億立方メートルをエジプトが、185億立方メートルをスーダンが取水権を持つとしています(16)。また、他の流域国における取水権は「要求に応じて交渉する」と定められているものの、エジプトは自国の取水に影響が出る上流国の事業に拒否権を保持することが可能であり、エジプトに非常に有利な協定が結ばれています(16)。2010年に新たに、他国に影響を値えない範囲で水を利用できる「ナイル流域協力枠組み協定」が提案されていますが、エジプト・スーダンの両国は反対の姿勢をとり続けています。現に、ナイル川上流に2010年から建設が開始された「大エチオピア・ルネサンス・ダム」をめぐり、エチオピアとエジプト間では水紛争が起こり、緊張状態にあります(17)。このような、当事者間の経済格差は、紛争解決を難しくしている一つの原因となっています。
■紛争解決と今後の課題
上記のようなケースにおいては、公平な第三者の介入が紛争解決に不可欠です。しかし、現状においては、まだまだ課題が多いと言わざるを得ません。実際、国際司法裁判所の裁定は、敗訴した国に対しての強制権を持たないため、その効力には限界があると言われています。一方で、専門家の意見も、問題の解決には十分には利用されていない状況であり、いかにしてこのような紛争の仲裁を行なっていくか、今後議論を深める必要があります。
世界的な気候変動に伴い、洪水や干ばつなどの自然災害は益々増加していくでしょう。そのような災害においては、紛争解決の遅れが、人々の健康や生命、さらには財産を脅かす可能性があり、これまで以上にタイムリーな紛争解決が求められています。実際、ネパール・インド間の問題は、被害を受けた南アジアの3カ国で400万人を超える住民の生活に影響しています。アプレッティ氏は、「流域国の間で無意味な水掛け論だけが繰り広げられており、十分な対策が取られていない。ネパールの洪水問題は、ネパールだけの問題ではない。」と語っていました。自国の住民の安全のみならず、被害に遭った方々の健康や生命にも配慮するような問題解決への取り組みが一刻も早く行われることを願ってやみません。
参考文献
(1)Floods in Slovakia Have Taken Three Victims. Spectator.sme.sk. https://spectator.sme.sk/c/20522230/floods-in-slovakia-have-taken-three-victims.html. Accessed February 17, 2018.
(2)Blöschl G, Hall1 J, Parajka J, et al. Climate change shifts timing of European floods. Science. 2014;357(6351): 588-590.
(3)Haroon S. South Asia floods kill 1,200 and shut 1.8 million children out of school. The Guardian. https://www.theguardian.com/world/2017/aug/30/mumbai-paralysed-by-floods-as-india-and-region-hit-by-worst-monsoon-rains-in-years. Accessed February 17, 2018.
(4)中山幹康. 水を巡る国家間の確執と協調. http://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/inter_03/4/notes/ja/04nakayama.pdf. Accessed February 17, 2018.
(5)Kreft S, Eckstein D. Global Climate Risk Index 2014. Germanwatch e.V. https://germanwatch.org/en/download/8551.pdf. Accessed February 17, 2018.
(6)Kalendra S. Indian dams causing floods in Nepal: Locals. My Republica. http://www.myrepublica.com/news/25778/. Accessed February 17, 2018.
(7)天野健作.「国際水路の非航行的利用に関する条約」の発効と衡平利用原則. 水文・水資源学会誌.2015; 28 (1) :34-38.
(8)Adhikari J. Adjunct Faculty, Curtin University. Devastating Himalayan floods are made worse by an international blame game. The Conversation. http://theconversation.com/devastating-himalayan-floods-are-made-worse-by-an-international-blame-game-83103. Accessed February 17, 2018.
(9)Kalendra S. Indian embankment causing inundation in Banke. My Republica. http://www.myrepublica.com/news/25519. Accessed February 17, 2018.
(10)United Nations Office of the Resident Coordinator. Nepal: Flood 2017
Office of the Resident Coordinator Situation Report No. 3. https://reliefweb.int/report/nepal/nepal-flood-2017-office-resident-coordinator-situation-report-no-3-18-august-2017. Accessed February 17, 2018.
(11)Hofer T. What are the impacts of deforestation in the Himalayas on flooding in the lowlands? Rethinking an old paradigm. http://www.fao.org/docrep/ARTICLE/WFC/XII/0982-B2.HTM. Accessed February 17, 2018.
(12)村上雅博. ドナウ川の水政治学:ガブシコバ・ダムと国際水環境裁判の争点. 水文・水資源学会誌. 1996:9 (3); 285-294.
(13)中山幹康. 利用の総蔵王が国際河川の協力関係をつくる. 上下流紛争の裏にある排水と利用の構造. http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no18/04.html. Accessed February 17, 2018.
(14)Belovická B. Prečítajte si výberovú chronológiu povodní a záplav na európskom toku rieky Dunaj. Teraz.sk. http://www.teraz.sk/slovensko/toto-boli-najvacsie-povodne-dunaj/161551-clanok.html. Accessed February 17, 2018.
(15)独立行政法人国際協力機構. ナイル川流域国間の水資源問題. https://www.jica.go.jp/project/egypt/0702252/news/column/20101221.html. Accessed February 17, 2018.
(16)外務省アフリカ大一課. スーダン概況. http://www.jccme.or.jp/japanese/08/pdf/08-07-14-37.pdf. Accessed February 17, 2018.
(17)SankeiBiz. 水と共にエジプトとエチオピア“水戦争”再燃. https://www.sankeibiz.jp/compliance/news/171120/cpc1711200500001-n3.htm. Accessed February 17, 2018.