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Vol.099 ふるさとを追われて【連載レポート】強制不妊(13)

医療ガバナンス学会 (2018年5月14日 06:00)


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この原稿はワセダクロニクル(2018年4月18日配信からの転載です。)

http://www.wasedachronicle.org/articles/importance-of-life/d17/

2018年5月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

http://expres.umin.jp/mric/funin13-1.pdf

ある日、14歳の飯塚淳子は父に呼ばれた。1960年のころだが、時期は明確には覚えていない(*1)。

「施設に行くよ」

淳子はびっくりした。なぜ自分がいまの中学をやめて、離れた仙台市にある小松島学園に行かなければならないのか、さっぱりわからなかった。しかし「決まっちゃったんだからしょうがないね」と思った。普段から親に逆らったことはなかった。

しかしそのとき、淳子が小松島学園に入所する理由ははっきりと出来上がっていた。

近所の民生委員が石巻福祉事務所に相談を上げたのは、1959年9月15日。宮城県中央児童相談所長の小川芳雄が、小松島学園への淳子の入所内定を、宮城県精神薄弱児福祉協会に報告したのは1960年2月3日だ。小松島学園を運営するのがこの福祉協会だ。

この5ヶ月の間に、民生委員が次々に上の機関に情報を上げた。淳子にしてみれば、悪意があったとしか思えない。身に覚えのない内容ばかりだったからだ。後年に情報公開請求で開示された文書を読んで驚いた。

そこには「民生委員→石巻福祉事務所→宮城県中央児童相談所→宮城県精神薄弱児福祉協会」という流れがあった。

石巻福祉事務所には福祉協会の出先機関が置かれ、中央児童相談所長の小川は福祉協会の参与と幹事を務めていた。官民が一体となって、淳子を小松島学園に収容することを決めていったのだ。

淳子のことを福祉事務所に相談した民生委員は、淳子が小松島学園に入所する直前、福祉事務所の児童福祉司にお礼状を書いた。

「特別のご配慮に賜り感謝に堪えません」

この礼状は、淳子が後年、県に情報開示請求をして明らかになった。

行政機関に上がった情報の中には、淳子が中学校で「誰1人相手になるものがない」というものがあった。

しかし、それもうそだ。

淳子は授業が終わるとよく、仲良しの女子4人で下校した。

互いの家が近かった。その中には大人になっても連絡を取り合っていた友だちもいる。

父親に小松島学園に入所するといわれたのは突然だった。仲良しの友だちに中学をやめて小松島学園に移ることをきちんと伝えられなかった。お別れ会もなかった。悲しかった(*2)。

淳子は父親に連れられバスに乗り、仙台行きの電車に乗った(*3)。車中、父親と言葉を交わすことはなかった。母親はついてこなかった。病気がちで働けない父に代わり、相変わらず身を粉にして仕事をしていた。

淳子の小松島学園での生活が始まった。

(敬称略)

[おことわり] 文中には「精神薄弱」など差別的な言葉が含まれていますが、当時の状況を示すために原文資料で使用されている言葉をそのまま使用しました。

=つづく

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[脚注]

*1 飯塚淳子への取材、2018年4月4日午後2時から、仙台市内で。

*2 飯塚淳子への取材、2018年4月4日午後2時から、仙台市内で。

*3 飯塚淳子への取材、2018年4月4日午後2時から、仙台市内で。

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