医療ガバナンス学会 (2010年2月2日 13:30)
【組織拡大】
第一の問題点は資料1の論点2-3 (http://www.mhlw.go.jp/shingi/2010/01/s0127-8.html)。ワクチンの製造販売業者や卸売販売業者に協力を求める仕組みを導入するとしている。従来も護送船団方式で十分すぎるほど協力体制があり、逆に進歩の阻害要因として問題視されてきた。論点2-3を法律に盛り込むと、さらに国家事業色が強まる。製造方法やアジュバントなど新規技術導入で立ち遅れたワクチン業者に予算が投入される。天下りの促進要因になる。
世界では次々と新しいワクチンが登場している。研究開発には莫大な費用と高度な技術が必要なため、国際的な巨大企業が開発の中心になっている。護送船団方式を守るための障壁で、日本人は世界で流通している有用なワクチンの恩恵にあずかれていない。
【権限強化】
第2の問題点は論点2-4。臨時接種を国の指示通りに行っているかどうか、医療機関に対し報告を義務付け、状況によっては調査を行い、国が定めた優先順位に従わずに接種している医療機関を処罰するという。
【新型インフルエンザ騒動】
日本の新型インフルエンザへの対応は、規範優先で実情に基づいていなかった。危機を煽って、世界の専門家の間で無意味だとされていた”水際作戦”を強行した。意味のない停留措置で人権侵害を引き起こし、日本の国際評価を下げ、国益を損ねた。
医療現場のガウンテクニックの常識を無視して、防護服を着たまま複数の飛行機の機内を一日中歩きまわった。これによって、インフルエンザを伝播させた可能性さえある。知人の看護師は、ガウンや手袋の使い方を見て、唖然としたという。検疫の指揮を執った担当官に、非常時だから、医療現場の常識と異なっても黙っているように言われた。インフルエンザの防御と無縁のアリバイ作りだった。言い換えれば、現実より規範が官僚を動かしたように見える。
関西の勇気ある開業医が、厚労省の非科学的規範に敢えて従わなかったことで、新型インフルエンザの国内感染が発見された。国内発生で「舞い上がった」担当者たちは、実質的に強制力を持った現実無視の事務連絡を連発し、医療現場を疲弊させた。新型インフルエンザの診療に関わったすべての医師が、厚労省の無茶な方針に怒りを覚えたはずである。
厚労官僚の思考と行動は、大戦時の日本軍に酷似している。レイテ、インパールなどでは、現実と乖離した目標を規範化したために、膨大な兵士を徒に死に追いやった。
【余ったワクチンの活用は罪か】
立法・司法・行政は法による統治システムを構成する。法は、違背にあって自ら学習せず、規範に合うよう相手に変われと命ずる。医療は認知を基本とする。何が起こっているのかを正確に把握し、学習・研究を通じて、事態に対応する。
無理な規範は、ワクチンの10mlバイアルに具現化している。従来の1mlバイアルに加えて10mlバイアルの導入が決定される前、ワクチンの確保が問題になっていた。メーカーの免責をめぐって、輸入手続の遅れが一部で危惧されていた。長妻大臣は、国会で、10mlバイアルだと生産効率が高くなると答弁した。検査が少なくなるので、市場に出せるまでの期間を短縮できると一部で伝えられた。
厚労省はワクチンの最大投与可能人数を増やすために、端的に言えば、自らの責任の最小化のために、10mlバイアルを導入した。結果として、供給可能量が1800万人分から2700万人分に変更された。10mlは成人20人分の量である。10mlバイアルは集団接種に適している。何度も針をバイアルに刺すことになる。汚染、感染が生じやすい。ちなみに、世界では、バイアルではなく、あらかじめ1人分のワクチンを封入した注射器の使用が望ましいとされている。
10mlバイアルの採用に対し、自治医科大学の森澤雄司医師は、「国家の危機的な状況に対応するための計画としては軽率この上なく、杜撰極まると申し上げざる外ない」「先進国で唯一というレッテルは聞き飽きた。単純に本当は先進国でないだけではないか」と苦言を呈したhttp://medg.jp/mt/2009/10/mric-vol-276.html。
本邦では、10mlバイアルを、集団接種ではなく、一般医療機関で使用した。接種予定日に都合のよい人数の接種希望者がそろうわけではない。バイアルは開封後24時間以内に使用しなければならない。相当量のワクチンが廃棄されることになる。1バイアル当たりのワクチン量を増やすと、廃棄量も増える。2700万人は見方によれば、まやかしの数字である。ワクチンが余れば、優先外の希望者に投与するのは医師として合理的な行動であろう。ところが厚労省はこれを悪として断罪した。官僚の責任最小化のための10mlバイアルによって生じた問題が、現場の悪として扱われた。
論点2-4は、現場への責任の付け替えを法律で正当化するものである。そもそも優先順位がどの程度の医学的・公衆衛生学的根拠に基づいており、どのような状況下でどれだけ合理的なのか、説明されているわけではない。科学的根拠のない医療を、法律で脅して、強制すれば、医療が現実離れした儀式になる。
【飯沼発言】
1月27日のロハス・メディカル ウェッブ「対象者以外への接種 厚労省と日医が取り締まる」http://lohasmedical.jp/news/2010/01/27184714.php によれば、第3回予防接種部会で日本医師会の飯沼雅朗常任理事は、「若干ある不届き者は、我々の自浄作用できっちりやっていくのが正しい」と述べたという。
【厚労省の攻勢:強制調査権と処分権による医師の抑圧的管理】
最近数年間、厚労省は法システムによる医療の徹底管理のために、周到な努力を重ねている。厚労省案による医療安全調査委員会をあきらめたようにみえない。周辺のルール作りを着々と進めてきた。院内事故調査委員会のあり方の研究班は、法と医療の意見の対立のため、合意に達しなかった。処分を受けた医師の再教育プログラム研究班は突然中断された。議論内容が厚労省の意向に沿わなかったためと推測されている。届出判断の標準化研究班では、医療機関から医療安全調査委員会への届出、医療安全調査委員会から捜査機関への届出の基準が決められている。
医療の質・安全戦略会議では、あろうことか厚労省からの研究費で、医師の自律について議論されている。厚労行政は議論の対象になっていない。この議論を、現場の医師ではなく、研究者が主導している。実情と離れた理念的な制度が提案されている。
最近、東京女子医大事件の冤罪被害者である佐藤一樹医師に対し、厚労省が行政処分を前提とした「弁明の聴取」を強行しようとしたhttp://www.m3.com/iryoIshin/article/114589/。強制調査の実施者が基準なしに医師を処分しようというのである。中世の罪刑専断主義への逆戻りである。多くの現場の医師の抗議で「弁明の聴取」は一旦中止されたが、強制調査が終了したわけではなさそうである。
佐藤医師と同じことがいつ何どき普通の医師に降りかかるか分からない。しかも、行政訴訟に経験の深い弁護士によると、裁判所は行政の裁量を尊重することが多く、行政の判断を覆すのは難しいという。
日本医師会飯沼常任理事の発言は、強制調査と処分権を振りかざす厚労省の意向にすり寄って、日本医師会が医師を取り締まろうとするものである。医療安全(事故)調査委員会の厚労省案に、現場の医師の意見を聴くことなく賛成したのも、同根であろう。医師の自律、自浄の対極であり、例えが悪いが、「岡っ引」を連想させる。江戸時代、追放者や博徒など犯罪社会の一員を「岡っ引」に仕立てて、犯罪者を取り締まった。テキヤ、博徒の親分が「岡っ引」になることも多く、「二足のわらじ」をはくと言われた。二足のわらじには相応のメリットがあったらしい。
【医師の自律】
厚労省は「正しい医療」を決めるための行動原理を持っていない。医学的に常識外れであっても法令には従わなければならない。政治、メディアの影響を受ける。公務員は原理的に国家的不詳事に対抗できない。対抗できないどころか、最近は、厚労省が国家的不祥事の発生源になっている。
ヘルシンキ宣言の序言に「人類の健康を向上させ、守ることは、医師の責務である。医師の知識と良心は、この責務達成のために捧げられる」と記載されている。医師は知識と良心によって行動するのであり、命令によって行動するのではない。法や行政が間違っていれば、異議を申し立てるのが当然である。
かつて、731部隊では、国策に従って医師として許されざる行動をとった者がいた。一方で、学会や社会からの糾弾に屈することなく、ハンセン病の強制隔離、断種に反対した小笠原登のような医師もいた。
医師の自律とは、医療における正しさを自らの知識と良心に基づいて医師が自ら判断し、自らを律して行動することである。厚労省の作成した実情無視の規範をそのまま受け入れることでは断じてない。
【現代の革命】
医療に関する、広い範囲の問題が、規範を優先する立場と、実情の認知を優先する立場の争いに収斂しつつある。異なる問題に対し、私が同じような論理と文章を使っているのはこのためである。
厚労省は、規範を武器にして、常に、組織と権限を拡大しようとする。予防接種法改正問題はその典型である。厚労省は困った性質を持っており、チェック・アンド・バランスがないとかならず有害になる。チェック・アンド・バランスの考え方は、市民革命を通じて一般化したが、日本では力を持っていない。最近(2010年1月22日)、私は日本医師会によばれて、「日本医師会よ、ともに戦おう」http://www.m3.com/iryoIshin/article/115154/というタイトルの講演を行い、医師が対峙すべきは厚労省であると説いた。
私は、革命とは考え方の転換が大規模に起きることだと思っている。現在の日本では、大きな社会的危機が生じない限り、暴力を伴う古典的革命が起きることは考えられない。しかし、社会の可変性は昔よりはるかに高まっている。個人的には、『医療崩壊 立ち去り型サボタージュ』の出版後3年8カ月、社会のマジョリティの医療をめぐる考え方が大きく変わったという実感がある。「日本医師会の大罪」http://medg.jp/mt/2007/11/-vol-54-2.html を書いてから2年2カ月、当時、日本医師会が、近い将来危機的状況になるだろうと予想していたのは、私を含めて数名に過ぎなかった。いまや、日本医師会は大義名分を失って追い詰められ、私に講演を依頼するほどの混迷状態にある。
重要なのは、厚労省に理がなければへこますことは難しくないという考えを、現場の医師が持つことである。医師の60%が、厚労省に対するチェック・アンド・バランスが必要であり、可能だと思えば、政治を通じて、厚労省は容易に改革できる。気分良く、楽しくやれる範囲で、なんでもやればよい。大戦略に加えて、お気楽感とユーモアが重要である。悲壮感は弱気な医師に対して説得力がないので採用すべきではない。
新型インフルエンザ騒動で、厚労省の無茶な方針に困惑しつつ、現場で独自に対応した経験を持つ医師は大勢いる。郡市医師会が厚労省への対抗の拠点になっていた。予防接種法改正の問題点について、新型インフルエンザで活躍した現場の診療所から、現場の体験に基づいた意見を、国民と政治家にぶつけていく必要がある。
4月1日には、日本医師会長選挙が予定されている。次の会長は、公益法人制度改革に伴う定款改定に道をつけなければならない。定款改定によって、将来の日本医師会の方向が決まる。方向を誤れば、日本医師会は瓦解する。郡市医師会から、立候補が予定されている唐澤、原中、森の各氏に、飯沼発言を是とするのか非とするのか、質問してみてはどうだろう。
【結論】
日本の医療の維持発展のためには、医師が自律することと、「岡っ引」日本医師会を対厚労省大目付日本医師会に改編改編して、厚労省のチェック機関にしていくことが肝要である。