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Vol.132 この国の未来の希望の姿 (3)何を守るべきか。

医療ガバナンス学会 (2018年6月29日 06:00)


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福島県浜通り
永井 雅巳

2018年6月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

5月になると、山を彩った白やピンクの山桜もその艶やかな姿を消し、黄緑色の欅やナラの新芽が伸び盛ることになる。アカ・白のコブシも面白いが、里では長く花を咲かせた大ぶりの椿はようやくその務めを終え、深紅のツツジや、純白で愛くるしい小手毬・大手毬がアクセントを創る。山裾を上がり下りしながら、そろそろと小川の回廊に車を走らせると、大きなアカシアの樹から白い花びらが舞い落ちてくるのに驚く。昭和を経験してきた人なら思わず、アカシアの雨に打たれて・・、と口ずさまずにはおれないだろう。また、四国に居た頃は、棚を這う藤しか知らなかったが、小川周辺にはまっすぐ伸びた樹木の間から幾重にもその房を垂らす紫の藤に心を奪われる。心は奪われても、わき見運転は事故の元だ。春の運転は気をつけなくてはならない。

さて、もう一度、この国の未来について考えよう。戦後の高度成長期が絢爛の成熟をみせた1980年まで、日本の国民の多くは、その暮らしは豊かで、世界一格差の少ない国だと思っていた。「一億総中流」という言葉が当時の多くの国民の認識だ。因みに1980年は私が大学を卒業した年で、今からたった38年前の話だ。この年を境に、日本の格差が広がっていった事は、ジニ係数を始めとする各指標でも明らかで在り、山田昌弘氏や橋本健二氏の指摘するところである。因みに、橋本氏の著書(新・日本の階級社会:講談社現代新書)によると、この国で格差社会という言葉が初めて公となったのは、1988年11月の朝日新聞の社説であり、格差社会という言葉を国民の多くが認知した山田昌弘氏による「希望格差社会」が出版されたのは2004年である。2006年には通常国会でも格差拡大について論じられたが、以後、10年以上が経過し、経済格差、地域格差、教育格差は益々広がっているような気がするが、いかがだろうか。そして、問題なのは今でも未来に向けて修正される気配がない事だ。

前述した二人の著書でも、かなりのスペースを割いて述べられているのが、そもそも格差は是認すべきモノなのか、是正すべきモノなのかという根本的な命題である。アッパーミドル、あるいはアッパーミドルと想っている人の中には是認論者が多いようだ。一方、格差はない方がよいと想っている人は、当然、アンダーミドルの人が多いと思われるが、この方々には発言する機会がないか、謙虚な人達が多いようだ。勿論、マジョリティは圧倒的にアンダーミドル層が多い。大切なのは著書でも引用されているように、ミリバンドの言う「経済生活における市場の必要性」と「市場がもたらす結果の受容」について“区別すべきこと”、すなわち格差を生み出す自由な経済市場を肯定する事と、市場の自由の結果生じる格差を肯定することは別次元の話で、その流れの収束地を国民全体の利益に供するよう“調整するシステム”が行政府の行うべき事のように思う。そして、そこで示すべきビジョン、全ての国民に批評を受けるべきモノが「希望の姿」であるべきだ。

話が少し横道にそれるが、それでは、この国の政策決定はどのようになされているか。例えば、橋本内閣の際に設置され、日本の重要施策について影響力を有する経済財政諮問会議のメンバーは(富裕層に多くの支持者を持つ現内閣の構成員を除いても)、多くが財界の中枢や学界のエリートの皆さんである。対極の立場にある人が少数含まれていたとしても残念ながら、官僚による形作りに過ぎない。すなわち、富裕層・エリート層に足場を置く人達によりこの国の在り方が決定され、マジョリティである労働層・中産階級以下貧困層の想いは届かないシステムのまま、40年近く格差社会は放置され、この国に蔓延してきた(この国の財政の舵取り役が富裕層に属する限りは、その視点は富裕層優先政策にならざるを得ない。)責めているのではなく、彼らにはわからないだろうと言っているのだ。

このような中で、前述した二人の社会学者は、危惧すべきは格差が固定化され、富裕層の子しか富裕層にはなれないといった事が、この国にすでに現実となっていることを指摘する。橋本健二氏は、もはや格差ではなく、日本は新たな階級社会を形成していると説き、世代間に繋がる負の連鎖は日本社会における未曾有の危機であると警鐘する。

一方、未来社会の在り様を、世界の識者はどのように考えているのだろうか。資本主義への醸成から世界が開けた産業革命以後、世界の未来像について言及した社会・経済学者は多い。最近では、ジョン・ロールズ、それに続くマイケル・サンデルらの社会正義とは何か、それから演繹し、社会保障とは何かの議論(この背景は、岩井克人氏による「資本主義から市民主義へ」(ちくま学芸文庫の補章に詳説されている。興味のある方は一読を)また直近では、トッドやピケティが描く未来論など(その論点の主軸は閉塞した市場によりもたらされる資本主義の終焉とそれ以降の話である)に詳しい。
それらを、独断かつ簡潔にまとめれば、産業革命後の、いかに富を得るかという、金=価値への妄信が、必然、結果としてもたらした貧富の格差を、未来でどのように修正するかと言って良い。彼らが見つめているのは、富める層をさらに富ますかの議論ではなく、今や圧倒的マジョリティとなった中産階層以下のグループをいかに幸福にするかの話が主軸だ。繰り返すが、いかに経済成長を促すかではなく、いかに国民全体が幸福になるかのシステム論である。因みに、ジョン・ロールズは、すでに1971年にその著書「正義論」において、“正義は最も不利な立場におかれた人の利益の最大化”であると論じた。
平等な自由,機会均等原理,格差原理の順にその重要性を指摘しているが、注目すべきは、単なる自然的自由や機会均等をこえた民主主義的平等への志向である。富裕層の子しか富裕層になれない(格差の固定化)ではなく、全ての国民が平等な機会を有するシステムこそ正義と主張した。理論的には彼の主張が困難であることは、この国でも盛山和夫氏により指摘されている(「リベラリズムとは何か(勁草書房」)が、改めて政治は何をなすべきかということについて発信したことは意義深い。

さて、この国の話に戻るが、2014年の9月にNHKで放送された「老人漂流社会~“老後破産の現実”~」をベースにまとめられたルポタージュが「老後破産;長寿という悪夢」(新潮文庫)として出版されている。この書では主に東京の中に埋もれかけている独居老人を、時間をかけて丹念に訪問し、あぶり出された現状についてルポしており、“現場からの生の報告”として優れたモノである。一方、東京(都会)において、社会から忘れかけられた老人の問題は深刻であるが、地方においては、その老人がすでに地域社会の主体となっているので一層深刻となる。

本書の解説を担当された藤森克彦氏によると、一人暮らし高齢者数は激増しつつあり、2015年現在、80歳以上の女性では4人に1人が一人暮らしで、その数は167万人、2030年になると、その数は256万人になるという(因みに私の出身地である四国4県併せた2030年の総人口が333万人と推定されている。たった20年後の話である。)さらに、驚くべき事に2010年におけるわが国高齢者の相対的貧困率(年収約122万円以下で生活する人の割合)は19.4%(5人に1人)。OECDの調査によると、フランスの5.4%、カナダの7.2%、英国の8.6%に比べ、著しく高く、ほぼ米国(19.9%)と同じとなる。米国に追従する経済主導の国策を指向した結果、欧州諸国とは異なり、高齢者に優しくない、高齢者をリスペクトしない国となった。その理由について、藤森氏は、①国民年金(基礎年金)の給付額が低いこと、②医療・介護の自己負担や家賃負担が重いこと、③生活保護制度が利用しにくいこと、④相談窓口が乏しいこと、を主な理由にあげ詳述しているが、いずれもいわきのような地方の街で、車で走り、歩いて訪れると実感ずることだ。

一方、この国では、さらなる(超)高齢化社会の到来に備え、医療・介護・年金などの社会保障費用の抑制に向けて、大きく舵を切る施策が進められている。このシナリオの根拠は、2012年に厚労省より公表された「社会保障に係わる費用の将来推計」に拠り、2012年度109.5兆円だった社会保障費は2015年度には148.9兆円(うち医療費に関しては35兆円から54兆円)になると試算され、国の財政を脅威的に圧迫するとしている。具体的には国(政府)の借金である債務残高は2015年末で約1144兆円、国民一人当たりで割れば、約820万円の借金となり、「何とかして、社会保障費の増大を抑えなければ国が滅ぶ」というシナリオが政府あるいは財務・厚生官僚が描いているモノだ。高齢者ばかりではない。今、若い人でも増加している非正規・短時間労働者の多くは(厚生年金の適用拡大が条件付きで施行されたが)、将来、国民年金(現在、満額で月6.5万円。勿論、将来においてはこれより少ないであろうが・・)のみしか受給できない。果たして、この舵の切り方は本当に正しいのか。それが未来の希望の姿なのか、今一度、国民を巻き込んだ議論が必要な気がする。

日本の貧困は、格差だけではない、貧困層が多いこと、そして、将来、さらに多くなることが問題だ。このシナリオに関して、盛山和夫氏の近著(社会保障が経済を強くする。少子高齢化社会の成長戦略:光文社新書)によれば、問題となる日本国債の貸し手の多く(95%)は日本国民か日本の企業であり、この点がギリシャとは決定的に異なる。すなわち、国(政府)の借金の圧倒的な貸し手は、日本国民で在り、これを相殺すると、一人当たりの借金は40万強程度であること。また、詳しくは原著に譲るが、この国の政策を決定するリーダー達の間には「福祉への支出は経済的に何も生まない。経済的な生産に寄与しないところにお金(生産に寄与した人達から強制的に供出された税)を投入する事、つまり働いている人の所得が減らされ、働いていない人に分配されるのは、経済的に甚だ非効率的だ」という考え(それは一般国民の間にも浸透しつつあり、世代間対立を生みつつある)が、目に見えにくい形で存在することを指摘する。

確かに、高齢化社会の進展により、医療費の増大が顕著になっていることは懸念されるが、何が医療費を高騰させているか(誰が利益を得ているか)が問題だ。筆者は薬品、高額医療機器、情報産業機器のメーカーが主であると考えており(詳しくは別稿;MRIC No086
間違ったシナリオ参照)、厚労省のシナリオにあるような医師数・病床数の増加ではないと思っている。一方、残念ながら医療界の権威者も経済(メーカー)主導を後押しし、そのために様々なエビデンスを集積し、それによりガイドラインを創り、クスリの市場・経済拡大、医療費高騰に貢献する。現場の医師は、権威に対する呪縛から逃れることは難しく、歩くことが叶わなくなった高齢者にも高額なクスリを投与し続ける。その理由はなぜか。多くの一般外来では、その高齢者の見直すべき生活環境を見ることができないから、クスリを足し算で出し続け、骨粗鬆症薬のマーケットを拡大し、終末期においても、勇気を必要とする撤退(撤退するのは心ではない、クスリの話だ)の決断に躊躇する。ガイドラインのアルゴリズムとして、まずクスリしか考えられないのは愚かなことだ。

話を元に戻そう。盛山氏は、前述したように福祉(医療・介護・年金)は経済成長を阻害するモノという考えに対し、年金部分を除いた医療・介護はGDPの構成要素であることから、決して経済のマイナスの要因ではなく、むしろポジティブに働くモノだと言っている(但し、この利益がメーカーだけに集中しているのは問題だが)。また、年金や生活保護、雇用保険などは直接的な経済効果は生まないが、セーフティーネットとして、労働インセンティブを高め、経済活性化にプラスに働くと論じている。

現在では、国の経済の成長が、決して、国民全体にこぼれ落ちてこない(トリクルしない)事は、歴史の検証から明らかとなった(1970年代まではこの国でも確かにトリクルしてきたが、歴史は動いている)。したがって、これを盲従していけば、マジョリティとしての国民・中産階級以下の多くが不幸になることを、謙虚に今の為政者は考えなくてはならない。この国の政策決定の多くが富裕層・エリート層で決定されている為、方向修正はきわめて難しいように思えるが、この国の未来の希望の姿を考える上では、正念場だ。

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