医療ガバナンス学会 (2018年11月1日 06:00)
この原稿はワセダクロニクル(8月28日配信)からの転載です。
http://www.wasedachronicle.org/articles/importance-of-life/d28/
2018年11月1日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
宮城県中央優生保護相談所附属診療所は強制不妊手術専門の診療所だった。宮城県が1962年6月5日に仙台市に開設した。広瀬川にかかる愛宕橋のたもとにある診療所で、ここで16歳だった飯塚淳子(72)が不妊手術を強いられた。
◆
強制不妊手術の「推進装置」として、診療所への期待は宮城県で大きかった。
開設から約4ヶ月後、9月定例会の一般質問で、県議たちは執行部側にこう質問している。
「優生保護診療所の仕事を、宮城県には優生保護を受ける人は二万人もあるといいますが、そういう大へんな仕事があるのでありますが、現在のようなわずかな人で、本当にこの優生保護施設の仕事ができるかどうか」(斎藤荘次郎、1962年10月3日)(*1)
「社会を明るくするためにも、民族素質の劣悪化防止の立場からも、優生保護法の立法の趣旨から考えましても、愛宕診療所を形だけ整えるというだけではなしに、これを強化していただきたいのでございます。一体宮城県内における遺伝性の精神病患者、白痴、そういつた優生保険の対象となるものは最低で県内人口の一・五%から二%であると専門家は申しておりますから、二万四千人から三万六千人くらいいるのでございます。ところが診療所で今手術をする者は年間に七十名でございます。ですから、十年間かかつて七百人、五十年間かかつて三千五百名しかできないのでございます」(高橋富士男、1962年10月4日)(*2)
県議からの一般質問に対して、宮城県衛生部長の伊吹皎三は「使命」という言葉を使い、答えた。
「一方優生手術が、先ほどのお話しのように非常に重大化して参りました。県内で年間大体百名近くの優生手術が行なわれますが、このうちの八割くらいが愛宕診療所で行なわれております。私らは今後ともこの優生問題に重点を置きまして、同病院の機能も発揮させ、またそれに対するいろいろな措置も講じまして、十分使命を果たしたいと、このように考えておりますので、何分よろしく御了承願いたいと思います」(1962年10月4日)(*3)
診療所が開設した翌1963年から、廃止される1972年までの10年間、宮城県は強制不妊手術の件数「全国トップ」の座を維持する。10年間での手術件数は887件。大半がこの診療所で行われた。
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こうした宮城県の期待に応えたのが、診療所長で医師の長瀬秀雄だった(*4)。
長瀬は、宮城県中央優生保護相談所附属診療所の前身である愛宕病院の時代から院長を務めていた。愛宕病院は、米兵相手に売春をしていた女性を対象に性病の検査や治療をする病院だった。
米軍の引き揚げ(*5)とともに病院は当初の役割を終えたが、宮城県は強制不妊手術を行う診療所として残した。長瀬もそのまま所長として残った。医師は長瀬一人。長瀬が直接、手術を担当した。そして、診療所を開設した翌年の1963年から宮城県を強制不妊手術の実施件数最多に押し上げる。
長瀬は強制不妊手術を行うことに没頭していった。なぜ宮城県の期待に応えていったのか。その素顔はどのようなものだったのだろうかーー。
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その18年前の1945年8月15日正午。長瀬は東北帝国大学の大学病院産婦人科の分娩室前の廊下にいた(*6)。医局の教授に集められた(*7)。三十路を過ぎ、これから医師として脂が乗る時だった。そこで、同僚たちと日本放送協会(NHK)のラジオを聞いた(*8)。
放送員の和田信賢が、「只今より重大なる放送があります」と国民に起立を求めた(*9)。君が代が流れた後、昭和天皇の肉声が流れた。戦争終結が告げられた。37分30秒(*10)の「玉音放送」(*11)は終わった。
(敬称略)
=つづく
[脚注]
*1 宮城県議会議事録、1962年9月定例会(第103回) 10月3日、37頁。出典:「会議録の検索・閲覧」、宮城県議会ウェブページ(2018年8月26日取得、http://www.kaigiroku.net/kensaku/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?USR=mygmygk&PWD=&A=frameNittei&XM=000100000000000&L=1&S=7&Y=%8f%ba%98%6137%94%4e&B=255&T=0&T0=70&O=1&P1=&P2=&P3=&P=1&K=103&N=626&W1=%97%44%90%b6%95%db%8c%ec%90%66%97%c3%8f%8a%82%cc%8e%64%8e%96%82%f0%81%41%8b%7b%8f%e9%8c%a7%82%c9%82%cd%97%44%90%b6%95%db%8c%ec%82%f0%8e%f3%82%af%82%e9%90%6c%82%cd%93%f1%96%9c%90%6c%82%e0%82%a0%82%e9%82%c6%82%a2%82%a2%82%dc%82%b7%82%aa%81%41%82%bb%82%a4%82%a2%82%a4%91%e5%82%d6%82%f1%82%c8%8e%64%8e%96%82%aa%82%a0%82%e9%82%cc%82%c5%82%a0%82%e8%82%dc%82%b7%82%aa%81%41%8c%bb%8d%dd%82%cc&W2=&W3=&W4=)。無所属で当選。県議会での会派名は「明生」。出典:宮城県選挙管理員会への取材、2018年8月27日、電話で。
*2 宮城県議会議議事録、1962年9月定例会(第103回)10月4日、85頁。出典:「会議録の検索・閲覧」、宮城県議会ウェブページ(2018年8月26日取得、http://www.kaigiroku.net/kensaku/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?USR=mygmygk&PWD=&A=frameNittei&XM=000100000000000&L=1&S=7&Y=%8f%ba%98%6137%94%4e&B=255&T=0&T0=70&O=1&P1=&P2=&P3=&P=1&K=103&N=627&W1=%8e%d0%89%ef%82%f0%96%be%82%e9%82%ad%82%b7%82%e9%82%bd%82%df%82%c9%82%e0%81%41%96%af%91%b0%91%66%8e%bf%82%cc%97%f2%88%ab%89%bb%96%68%8e%7e%82%cc%97%a7%8f%ea%82%a9%82%e7%82%e0%81%41%97%44%90%b6%95%db%8c%ec%96%40%82%cc%97%a7%96%40%82%cc%8e%ef%8e%7c%82%a9%82%e7%8d%6c%82%a6%82%dc%82%b5%82%c4%82%e0%81%41%88%a4%93%86%90%66%97%c3%8f%8a%82%f0%8c%60%82%be%82%af%90%ae%82%a6%82%e9%82%c6%82%a2&W2=&W3=&W4=)。社会党公認候補として当選、県議会での会派名は「社会」。出典:宮城県宮城県選挙管理委員会への取材、2018年8月27日、電話で。
*3 宮城県議会議事録、1962年9月定例会(第103回)10月4日、93頁。出典:「会議録の検索・閲覧」、宮城県議会ウェブページ(2018年8月26日取得、http://www.kaigiroku.net/kensaku/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?USR=mygmygk&PWD=&A=frameNittei&XM=000100000000000&L=1&S=7&Y=%8f%ba%98%6137%94%4e&B=255&T=0&T0=70&O=1&P1=&P2=&P3=&P=1&K=103&N=627&W1=%8f%5c%95%aa%8e%67%96%bd%82%f0%89%ca%82%bd%82%b5%82%bd%82%a2&W2=&W3=&W4=)。
*4 1964年に静岡市で当時の厚生省などが主催した「家族計画普及全国大会」で、長瀬秀夫は「人口資質の劣悪化を防ぐため精薄者を主な対象とした優生手術を強力に進めております」と誇示する。「精神薄弱者」については、次のような見解を述べた。「精薄は、現在の医学では不治の病とみなした方がよく、発生頻度も高く、かつ、この人々の多くは自活、育児能力が十分でないばかりか、社会から庇護を受けなければならないのであります」。「宮城県が作った強制不妊手術の「推進装置」【連載レポート】強制不妊(22)」も参照のこと。出典:厚生省・静岡県ほか「『第9回家族計画普及全国大会』大会資料」1964年。
*5 米軍が仙台から完全に引き揚げたのは1957年11月。「『近づいてはいけない病院』 【連載レポート】強制不妊(21)」も参照のこと。出典:仙台市史編さん委員会編『仙台市史 特別編4 市民生活』1997年、329頁。
*6 長池博子『女性よ賢くあれ〜母娘二代 女医の道』河北新報社、1999年、162頁。
*7 長池博子『女性よ賢くあれ〜母娘二代 女医の道』河北新報社、1999年、162頁。
*8 長池博子『女性よ賢くあれ〜母娘二代 女医の道』河北新報社、1999年、162頁。
*9 朝日新聞1995年5月16日付朝刊「産声 戦後50年(証言・戦争とラジオ 統制から自立へ:3)」。
竹山昭子『玉音放送』晩聲社、1998年。
*10 毎日新聞1996年8月15日付夕刊「[この日この時]1945・8・15 玉音放送」。
*11 宮内庁「当庁が管理する先の大戦関係の資料について」2015年、宮内庁ウェブページ(2018年8月25日取得、http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/index.html)。