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Vol.220 赤ちゃんの写真を贈る医師【連載レポート】強制不妊(24)

医療ガバナンス学会 (2018年11月1日 15:00)


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この原稿はワセダクロニクル(10月1日配信)からの転載です。

http://www.wasedachronicle.org/articles/importance-of-life/d30/

2018年11月1日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

http://expres.umin.jp/mric/funin24-1.pdf

宮城県は、強制不妊手術を推進する「装置」をつくった。宮城県中央優生保護相談所附属診療所という。
所長は、長瀬秀雄。医師は長瀬1人で、不妊手術だけを行い続けた(*1)。長瀬とはどんな人物だったのだろう。
長瀬はすでに亡くなっている。私たちは昨年の2017年12月、妻(96)が息子と暮らす仙台市内の一軒家を訪ねた(*2)。妻に企画の趣旨を詳しく説明し、取材に応じてもらった。高齢だが受け答えはしっかりしており、記憶も詳細だった。


妻は長瀬と年齢が10歳離れていたという。長瀬は長野県松本市に生まれた。父親はセメント会社のサラリーマンで、転勤が多かった。父親の転勤のため、青森県弘前市の旧制弘前高校に入学した。作家の太宰治や、戦後保守政界のフィクサーと呼ばれた田中清玄らを輩出した名門校だ。
長瀬はその後、東北帝国大学医学部に進学した。陸上部の短距離選手で、体格がよかったという。
長瀬は厳格な夫だった。仙台市内の自宅では常に和服姿だ。

ある日、妻は寂しくなって日中に実家に帰った。妻の実家はすぐ近くだった。夜、自宅に戻った。長瀬が先に帰宅していた。長瀬は明かりをつけず、真っ暗な部屋で座っていた。妻は謝ったが、長瀬はこういった。
「一つくらいは電話をよこすのが普通じゃないか。謝るのはいいけども、その前に電話一つくらいはよこすものだ」
妻は長瀬の性格についていう。
「真面目一方ですね。一度いったらそれを曲げない人でね。頑固です。もうね、今時の男の方とはまるっきり違うんです」


長瀬は、同僚や後輩からの評判が良かった。妻はよく周囲から夫のことを褒められた。
実際、長瀬と働いたことのある人たちは今でも長瀬を褒める。
皮膚科医だった男性(89)は「温厚な先生で、部下を叱るようなこともなかった」という(*3)。1948年から約3年間、長瀬を上司に愛宕病院(後の診療所)で働いた。当時の病院は、米兵相手に売春をしている女性の性病の診療をしていた。
長瀬は診療所が1972年に閉鎖された後、宮城県内の保健所に勤務し、遺伝や結婚についての相談にのる仕事をした。同じ保健所にいた女性は、長瀬が職員たちと旅行や餃子パーティーに参加していたことを思い出す(*4)。
「人格者で温厚な先生でした」
長瀬は何より、産婦人科医としての評判が良かった。妻は「本当に、本当に親切なんですよ」といい、回想する。
「なかなか妊娠しなくて困っている方の面倒をよくみていました」


診療所は強制不妊手術のみを行った。それまでは、主に性病を検診する医療機関だった。宮城県が運営し、お産も受け持っていた。強制不妊手術に特化した診療所になる前年の1961年、診療所では95人が子どもを産んでいる(*5)。
長瀬は写真が趣味だった。お産を終えた母親が退院する際、赤ちゃんを抱いた母親を撮影し、写真をプレゼントする習慣だった。


しかし、その長瀬が、1962年からは不妊手術を強制する側に回ることになった。1964年に厚生省などが主催し静岡市で開かれた「第9回家族計画普及全国大会」(*6)では、こう発言した。宮城県は当時、強制不妊手術の件数が全国最多だった。
「人口資質の劣悪化を防ぐため、精薄者を主な対象とした優生手術を強力に進めております」(*7)

晩年の1992年。長瀬は宮城県公衆衛生協会から、公衆衛生功労者として表彰された。会場になった仙台市内のホテルメトロポリタン仙台には160人が集まった(*8)。
飯塚淳子(72)は優生保護法がなくなった1996年ごろ、長瀬の自宅に電話したことがある(*9)。淳子が診療所で手術されたのは16歳のとき。長瀬が強制不妊手術を診療所で始めた翌年だ。
長瀬が自分の手術をしたことを知り合いから教えられ、電話番号を探し出した。淳子は自分の氏名、当時の年齢、住み込み先に連れてこられた経緯を伝え、長瀬にいった。
「できるなら、私の人生を返してほしい」
長瀬は淳子のことを覚えていなかった。電話口で「思い出したら電話するから」といった。
淳子に電話はかかってこなかった。

http://expres.umin.jp/mric/funin24-2.pdf

長瀬秀雄医師
(敬称略)
(年齢は取材時)
=つづく
[脚注]
*1 宮城県中央優生保護相談所附属診療所の届出文書。作成年は不明。
*2 2017年12月7日取材、仙台市内で。
*3 2017年12月15日取材、仙台市内で。
*4 2017年12月17日取材、仙台市内で
*5 宮城県の伊吹皎三衛生部長1962年10月4日答弁。出典:宮城県議会議事録、1962年8月定例会(第103回)、宮城県議会ウェブページ(2018年9月11日取得、http://www.kaigiroku.net/kensaku/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?USR=mygmygk&PWD=&A=frameNittei&XM=000100000000000&L=1&S=7&Y=%8f%ba%98%6137%94%4e&B=255&T=0&T0=70&O=1&P1=&P2=&P3=&P=1&K=103&N=627&W1=%88%c9%90%81&W2=%93%af%95%61%89%40%82%cc%8b%40%94%5c%82%e0&W3=&W4=)。
*6 開催日は1964年11月5日と同6日。
*7 厚生省・静岡県ほか「『第9回家族計画普及全国大会』大会資料」1964年。
*8 河北新報1992年3月31日付朝刊。
*9 2018年9月26日午後1時からの取材、仙台市内で。

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