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vol 67 臨床研究の歴史(1)

医療ガバナンス学会 (2010年2月24日 08:00)


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北里柴三郎と東大医科学研究所

 

慶応義塾大学医学部3年

松本紘太郎

2010年2月24日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

【東京大学医科学研究所の歴史】
我が国における臨床研究の歴史を遡ると、それは東京大学と慶應大学の歴史である。白金台に佇む東京大学医科学研究所は現在、がんなどの難治性疾患を対象とする臨床研究を行う我が国随一の研究所である。しかし、医科学研究所の歴史を遡ると、1892年に設立された大日本私立衛生会附属伝染病研究所がその前身であることが分かる。医科学研究所内部には現在もその名残がある。また、設立当時から病院を有する特徴を生かし、ベンチからベッドへの精神の下、臨床現場で活かせる研究を続けている。

【伝染病研究所から東京大学医科学研究所へ】
1892年 大日本私立衛生会附属伝染病研究所設立。
1899年 内務省所管の国立伝染病研究所となる。
1914年 文部省に移管。北里は同所を去り、北里研究所を設立して研究を続けた。
1916年 東京帝国大学の附属研究所となる。
1967年 伝染病研究所を改組して医科学研究所を設置。
2001年 近代医科学記念館を開設。

【伝染病研究所】
伝染病研究所が現在の白金台に出来たのは1899年のことであるが、伝染病研究所の誕生は現在の芝公園、松下電器産業東京支社の入るナショナル1号館のあるあたりである。伝染病研究所の設立は慶應義塾大学医学部初代学部長である北里柴三郎先生の成果であり、1892(明治25)年11月の出来事である。この1892年は北里がドイツ留学から帰国した年であり、6月の帰国からたった5ヶ月で設立に至ったことが窺い知れる。
留学先のドイツで偉大な業績を残した北里は、イギリスやアメリカから高額の報酬を持ち掛けられ研究所への招聘を受けていたが、科学後進国である日本の科学推進、国民の健康増進のためにすべての誘いを断り、日本に帰国した。伝染病研究所設立は北里の日本初の伝染病研究所設立にかける強い思いと、福澤諭吉先生の懐の深い支援によって成立した。北里は帰国直後より伝染病研究所設立を訴え始めたが、設置を国家事業にするならば帝国議会の承認が不可欠であり順調にいっても2年以上後にならなければ研究は始められなかった。しかし福澤は「すぐれた学者を擁しながらこれを無為に置くのは、国家の恥ではないか。つまらん俗論にこだわっていてはいけない。この際、資金を集めてから仕事にかかるよりは、まず仕事を始め、それから方策を立てたらいい。私から行動を起こそう。幸いに芝公園内に借りている土地があるから、ここに必要なだけの家屋を構えて、スタートしようじゃないか」と述べ、私費で研究所を設立したのだ。大日本私立衛生会附属伝染病研究所設立に際しての福澤・北里の結びつきが後の慶應義塾大学医学部創設に繋がることは言うまでもない。
こうして設立に至った伝染病研究所は後に、27歳で赤痢菌を発見した志賀潔、梅毒の特効薬を発見した泰佐八郎、さらに野口英世ら優秀な人材を次々と輩出することになる。北里自身も1894年、ペストが流行している香港に内務省から派遣され、到着2日後にはペスト菌を発見するなどの業績をあげた。

【伝染病研究所の移転】
大日本私立衛生会附属伝染病研究所は、当時ドイツのベルリンを除いて他に比類なしなどと讃えられたものの、開始早々より病室の不足・研究室の不備に悩まされていたため移転が余儀なくされていたが、芝からの移転には一悶着あった。それはただの場所の移転にとどまらず、私費で設立された私立研究所が国立研究所へと移行されかねない事情を抱えていた点、研究対象が伝染病であったために移転先住民からの反発が強かった点が主な原因である。伝染病研究所が現在の白金台へと移転した際にも、福澤は政府の方針でいつ施策が変わるかもしれないからそれに備えて資金を蓄えておくよう助言を与えたのだった。実際、1914年に伝染病研究所が文部省に移管されたことは北里の意に反することだったので、北里初め所員全員は断然職を辞し、福澤の助言で用意しておいた私財30万円を投じて北里研究所の前身を設立することとなる。

【結核療養所】
少し話を外れるが、北里は同時期、結核療養所の設立にも尽力した。結核療養所は現在の北里研究所病院であり、1893(明治26)年に設立されている。病室は常に満員で増築また増築、満員また満員の盛況を呈し、北里はここにも研究室を設けてツベルクリンの臨床試験などを行った。また、敷地内で飼養した馬や山羊からジフテリア・破傷風の免疫血清を製造し、研究所に入院する患者への血清療法が行われた。この結核療養所は1914年、北里が伝染病研究所を離れたのを契機に、北里研究所として再スタートし、現在では北里大学附属の研究所なっている。

【当時のドイツ・日本】
北里はドイツ留学時代に、血清療法をジフテリアに応用した他、ともにコッホに師事したベーリングと破傷風免疫についての共著論文を書いたが、1901年の第一回ノーベル賞はベーリングのみが受賞した。この背景には東洋人への差別があったと言われている。当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム二世が人種差別主義で、黄色人種は災いをもたらすという黄禍論者だったためだ。ヴィルヘルムは1890年まで宰相を務めたビスマルクと対立し、「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べた。帝政ドイツでは議会に比べて皇帝に大きな権力があったため、国政にはヴィルヘルム二世の意志が大きく反映された。当時ドイツとイギリスの対立は深まっており、東アジアにおけるイギリス勢力を牽制するためにロシア皇帝ニコライ二世に「余は大西洋監督とならん。貴殿は太平洋監督となられよ」と提言し日露戦争の原因を作ったのもこのヴィルヘルム二世である(ウラジオストーク:「東を征服せよ」)。
第一回ノーベル賞が授与された1901年当時の日本は日清戦争の起きた7年後、日露戦争の起きる3年前であり、まさに国際紛争の中に北里柴三郎の受賞が立ち消えてしまったという見方もできる。

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