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Vol.264 「医療崩壊」と闘った故「仙谷由人」元官房長官の「気概」と「行動力」

医療ガバナンス学会 (2018年12月20日 06:00)


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https://www.fsight.jp/articles/-/44462

この原稿は新潮社Foresight(2018年11月13日配信)からの転載です。

2018年12月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

上昌広

http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_262-1.pdf

10月11日、仙谷由人・元官房長官が亡くなった。あまり知られていないが、仙谷氏はわが国の医療にとってかけがえのない政治家だった。もし、彼がいなければ、日本の医療、特に産科医療は崩壊していたと言っても過言ではない。今回は、仙谷氏の医療にまつわるエピソードをご紹介したい。
筆者が仙谷氏と知りあったのは、国立がんセンター(現国立がん研究センター)中央病院在籍中の2005年のことだった。当時、仙谷氏は翌2006年に成立することになる議員立法の「がん対策基本法」に取り組んでいた。胃がんを患い手術を受けた経験からも、がん医療を良くしたいという熱意を感じた。私もお手伝いしたが、「胆力があり、相手の懐に飛び込むのが上手い」という印象を抱いた。民主党政権下で、彼が官僚の心を掴んだのも当然かもしれない。
2005年10月、筆者は国立がんセンターを辞職し、東京大学医科学研究所に異動した。

●産科医が逮捕された「大野病院事件」
それから間もない2006年2月18日、福島県立大野病院の産科医が逮捕されるという事件が起こった。その時の仙谷氏の対応に筆者は多くを学んだ。
筆者がこの事件に関与するようになったきっかけは、逮捕された加藤克彦医師を良く知る亀田総合病院(千葉県鴨川市)の鈴木真医師から3月5日、「とんでもなくおかしなことだ。何とかしたい。応援して欲しい」と連絡があったことだ。
2004年12月、加藤医師が執刀した帝王切開の手術中、癒着胎盤による出血多量で女性が亡くなった。処置は標準的なものだったが、大野病院を管轄する県病院局が「加藤医師のミス」とする杜撰な事故調査報告書を作成。それをもとに一方的な捜査を行った県警が、業務上過失致死容疑で彼を逮捕したのだという。
その時、筆者は民主党の鈴木寛参議院議員(当時)と京都にいた。大阪大学医学系研究科の西田幸二教授(眼科)や大阪大学工学研究科の森勇介助教授(当時、電気電子情報工学)らとともに、『賀茂川塾』という勉強会を開催していたのだ。
筆者が「産科医が業務上過失致死で起訴されるらしい」と事件の概要を鈴木議員に伝えると、彼は表情を変えた。そして、「そんなことが起こったら、医療は崩壊する」と言った。
当時、筆者は鈴木議員と共に「現場からの医療改革」をモットーに活動を始めたところだった。彼は通産官僚から国会議員に転進し、社会の熟議やガバナンスに関する思考を深めていた。それに引き換え私は病院勤務や研究しか知らなかった。
当時、多くの医師は、加藤医師が業務上過失致死罪に問われ、逮捕されたことに大きな問題があると考えていたが、この問題に対して何をすべきなのか、五里霧中だった。
鈴木議員がすぐさま連絡したのが、仙谷氏だった。

●「世論で勝負するしかない」
国会議員になる前、仙谷氏は弁護士だった。刑事事件を皮膚感覚で知っている。多くの事件に関わり、優秀な弁護士だったようだ。
例えば、1969~71年にかけて発生した「土田・日石・ピース缶爆弾事件」だ。左翼活動家とされた18名が逮捕、起訴されたが、全員が無罪となった。
贈答品に偽造した郵便爆弾が爆発し、妻を亡くした土田國保・警視庁警務部長(当時。後の警視総監、防衛大学校長)は、筆者が学生時代に所属した東京大学運動会剣道部の先輩だった。彼と世代の近い先輩からは「仙谷(の弁護)にやられた」という話を聞いた。
後日、このことを告げると、仙谷氏は「事件があった時間帯に1人だけパチンコをしていたのがいたのよ。アリバイが証明され、検察の主張は信頼されなくなったのよ」と語った。
話が脱線した。元に戻す。鈴木議員から連絡を受けた仙谷氏はすぐに動いた。筆者は衆議院議員会館の仙谷氏の部屋で、事情を説明した。仙谷氏は目を閉じて黙って聞いていたが、私の説明が終わると同時に目を見開き、「メッ」と大喝した。そして「こんな大きな問題なのに、警察も検察も法務省も、考えもなしに動くことがけしからん。このことがどんな影響を与えるか。困るのは誰なんだ、患者だろう!」と、本気で怒った。その表情は沈痛だった。筆者はそれまで、医療関係者以外で、仙谷氏のように大きな憤りを表明した人を見たことがなかった。当時、医療系団体は厚労省にアプローチしていたが、仙谷氏は「そんなことやっても無駄よ。起訴するのは検察なんだから。法務省に言わんと」と言って、司法研修同期の法務省幹部に電話した。法務省幹部には、「あれは筋が悪い。もう数日早ければ、起訴はとめたのに。今さら無理だ」と言われたそうだ。
仙谷氏は「こうなれば法務省にアプローチをしても動かない。だから世論で勝負するしかない。メディアがどう報じるかだ」と言った。法務大臣のような権力者に「陳情」しても、もはやどうにもならないと判断したようだ。
すると、鈴木議員は「すぐに支援の会を立ち上げて、署名活動をしよう」と提案した。
当時、医療界では幾つかの署名活動が始まっていた。亀田総合病院でも院内で署名活動が始まっていた。まず私はそれらのグループと連絡をとった。

●国会で質問に立った仙谷氏

http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_262-2.pdf

3月9日に加藤医師の恩師である佐藤章・福島県立医科大学産科・婦人科教授に連絡がつき、筆者は「国会議員の仙谷氏、鈴木氏が応援してくれる」と伝えた。佐藤教授からは「はじめて支援してくれるという人が現れた。どこにでも伺う」と言われた。翌日、都内で初めて佐藤教授と仙谷氏を含む我々のチームが面談した。

我々は有志を募り、「周産期医療の崩壊をくい止める会」を立ち上げた。代表は髙久史麿・日本医学会会長(当時)にお願いした。髙久氏は筆者が東京大学第三内科に在籍していた時の恩師で、医療界でずば抜けた実力の持ち主だ。「これは放置できない。喜んで協力する」と快諾いただいた。別の医学界の重鎮にもお願いしたが、「立場上出来ない」と断られた。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_262-3.pdf

(写真1)東大医科学研究所の研究室での署名集計の光景。左から湯地晃一郎医師、濱木珠恵医師、松村有子医師。

3月10日午前1時30分、インターネット上で署名活動を開始した。半日後の午後12時30分には署名が700人を超え、急速に広まった(図1)。当時、電子署名のアプリなど存在するわけもなく、メールやFAXで送られてくる署名をスタッフは徹夜で整理した(写真1)。

3月17日、前日までに集まった医師を中心とする6520名の署名を、佐藤教授から川崎二郎厚労大臣(当時)に届けた(写真2)。衆議院議員会館で記者会見も行った。筆者も参加したが、人生で初めての経験だった。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_262-4.pdf

国会ではこの日、仙谷氏が厚労大臣や法務省刑事局長に対する質問を行った。
筆者の記憶に残っている発言は以下のものだ。
「事件の論評をしますと弁護士と検事が何か論争しているようになりますからやめますけれども、最初に1回の取り調べが1年ぐらい前にあって、その後に急に一挙に逮捕に持っていった。それで勾留をした。こういう突発性湿疹のような捜査のやり方をやったというのは、私はこの種の過失事案、そして、本来は医療の行為というのは正当行為でありますから、刑法35条でありますから、この種の手法は余りなじまない、そういう捜査手法だったんじゃないかという感想を持っております。これはお答えいりません」
「ただ、問題は、医療の世界で大変大きな動揺と波紋が広がっている。このことを法務省あるいは検察当局は予想していたのか。まさに、今の周産期医療がどのような状態にあって、この事件に対して、つまり、これは事故調査委員会の報告も出ておるわけでありますが、この事案に1年後に急に有無を言わせず逮捕して勾留をしてしまう、そのことによって、産科、婦人科、周産期医療の世界で大変大きな波紋が広がったということを、そして現在も大変大きなうねりになっているということを、法務省はどういうふうに受けとめていらっしゃいますか」
「今度の、どちらが事件になるのかわかりませんが、つまり、検察庁が、あるいは警察、検察が起こした事件というふうに将来なるのではないかと私は思っておるんであります」

●転機となった報道

http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_262-5.pdf

(図2)当時の全国紙の切り抜き。瀧田盛仁氏(東京大学医科学研究所、当時)作成。

仙谷氏に続き、与野党を問わない多くの議員が国会でこの問題を取り上げた。
マスコミも取り上げた。特に効いたのがワイドショーだった。ワイドショーと我々を繋ぐきっかけは舛添要一・参議院議員(当時)だった。舛添氏からも「この問題を解決するのは世論。国民が如何に考えるかだ。国民に広く問題を伝えるには、テレビ、特にワイドショーが報じないとダメだ。政治家だけが言っても国民は信じない」と言われた。
ここで舛添氏と我々を繋いでくれたのも、鈴木寛議員だった。「自民党で日本医師会に染まらずに動け、実力もある中堅議員は、舛添、塩崎(恭久)、世耕(弘成)さん」と言い、彼らと繋いでくれた。その後の彼らの活躍はご存じの通りだ。鈴木氏の慧眼に感服する。
話を戻す。ワイドショーだと言われても筆者はどうしていいか分からなかった。
当時、筆者が唯一知っていたテレビ関係者は、東京大学剣道部の2年先輩で、ちょうどフジテレビの朝のワイドショー『とくダネ!』のチーフプロデューサーをしていた宗像孝さんだった。久しぶりに携帯電話でコンタクトしてみた。事情を伝えると「難しい。被害者がいるのに、医師を擁護することは出来ない」と回答された。
当時、現在ほど医師不足は喧伝されておらず、「医師=金持ち」というイメージができあがっていた。医療事故が起きれば、「医療ミス」で医師を断罪するのが常だった。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_262-6.pdf

(図3)全国紙における「分娩休止」の記事数。日経テレコンを用い、瀧田盛仁氏(東京大学医科学研究所、当時)が調査。
ただ、この事件は福島県で起こった。宗像氏は福島県出身だ。地元のことで関心もあったのだろう。彼は「後輩の頼みだから」と、優秀な女性スタッフを紹介してくれた。東大医科研の研究室にきてくれた彼女に、およそ2時間をかけて状況を説明した。筆者の説明を聞いた彼女は、「これは医師が可哀想ではなく、この事件をきっかけに産科が崩壊したら、国民が可哀想ですよね。動きます」と言って戻った。
数週間後、彼女から電話があり、「見つけましたよ。放送も決まりました」と連絡があった。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_262-7.pdf

(図4)全国紙における「医療崩壊」の記事数。日経テレコンを用い、瀧田盛仁氏(東京大学医科学研究所、当時)が調査。

4月27日の放送で事件が取り上げられた。その中で、産科医逮捕をきっかけに全国の産婦人科医がお産の取り扱いを止めようとしている現状、およびそのような病院に通院している妊婦の悲痛な声が紹介された。「見つけましたよ」とは、番組で証言してくれる妊婦のことだった。『とくダネ!』での報道をきっかけに、他局や全国紙も、この問題を扱った(図2)。
一連の報道後、「医療ミス」という論調はなくなり、2006年には「分娩休止」に関する記事が急増、翌年には「医療崩壊」が国民のコンセンサスとなった(図3、4)。

●無罪判決を下した福島地裁

http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_262-8.pdf

(図5)全国紙での「医療崩壊」の記事数。日経テレコンを用い、岸友紀子氏(東京大学医科学研究所、当時)が調査。

そして2007年8月、舛添氏が厚労大臣に就任した。マスコミが「医療崩壊」に関心があったのは2009年までの2年間(図5)。舛添氏の任期と重なる。彼は世論の後押しと参議院のねじれを利用して、日本医師会が抵抗する医学部の定員増などの政策を断行した。
「舛添改革」を応援したのは、民主党の仙谷氏や鈴木氏だった。仙谷氏は、医療に関することなので超党派でやっていこうと汗をかいてくれた。当時、様々な医療問題で超党派の議員連盟が出来たが、仙谷氏の存在抜きでは語れない。仙谷氏がいなければ、一連の改革はなかったと言っていい。
大野病院事件の活動を通じ、仙谷氏と佐藤教授は信頼関係を構築していった。
2008年8月20日、福島地裁は加藤医師に無罪判決を下した。その日、仙谷氏は福島を訪問し、鈴木氏や世耕氏とともに「福島大野事件が地域産科医療にもたらした影響を考える」というシンポジウムに出席した。そして「医療という行為と刑法との関係、今回の事件を教訓にして、法務省・検察庁には深い洞察をしてもらいたい」と発言した。検察は控訴を断念し、判決は確定した。
この時、仙谷氏は「佐藤先生は人物よ。あの人がおらんかったら、ここまで来てないわな」と評した。
佐藤教授が立派だったのは、患者視点を忘れなかったことだ。無罪判決後は、自ら寄附を申し出て、「周産期医療の崩壊をくい止める会」とともに、「妊産婦死亡の遺族を支援する募金活動」を始めた。佐藤教授は「判決が出るまでは動けなかった。しかしながら、これからは違う。百万言を費やすより行動で示すべきだ」と語った。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2018_262-9.pdf

仙谷氏と握手する佐藤医師

佐藤教授は、仙谷氏への感謝の念を忘れなかった。左の写真は2009年11月の東大医科研講堂で開催された「現場からの医療改革推進協議会シンポジウム」の模様だ。仙谷氏は発起人の1人として毎年参加していた。当時、病気治療中だった佐藤教授は、「どんなことがあっても仙谷さんに御礼を言いたい」と参加されたのだった。
2010年6月28日、佐藤教授は肺がんで亡くなった。当時、官房長官だった仙谷氏は福島市内で行われた葬儀に駆け付けた。一参列者として弔問の列に加わり、そのまま帰京した。義理人情に篤い人だった。

●最後は新橋の鰻屋で
そして、2011年3月の東日本大震災以降、我々のグループは福島での医療支援活動を続けているが、そのきっかけを与えてくれたのも仙谷氏だった。
震災数日後に「相馬市の立谷さんって知っている? 凄いのがいるけど、苦労しているので、応援してやってくれないかな」と電話がかかってきた。
「立谷さん」とは、立谷秀清市長のことだ。今年6月には全国市長会会長に選出された。相馬市の人口は3万5000人。史上、もっとも小さい都市からの選出だ。
私は、仙谷氏に言われた番号に電話した。少し話しただけで、彼が仙谷氏と同じタイプの人間であることがわかった。相馬市の震災後の復興は速かった。
立谷氏は、「仙谷さんは別格の政治家だった。被災地を本当に助けてくれた」と言う。よほど感謝していたのだろう。仙谷氏が落選した2012年の衆議院議員選挙では、徳島まで応援演説に駆け付けた。応援演説の様子はウェブにアップされているのでご覧頂きたい。
立谷氏は自民党系の政治家だ。事前の予想では仙谷氏は敗色濃厚で、官房長官時代にすり寄っていた人たちは既に去っていた。筆者は一流の政治家の行動を垣間見た。
仙谷氏と筆者の交流は、仙谷氏が衆議院議員を辞めた2012年以降も続いた。困ったときには、よく相談に乗って貰った。最後にゆっくりとお会いしたのは今年2月だった。新橋の鰻屋で学生と一緒に食事をした。話題は日本の医療問題だった。コメントは相変わらず切れ味鋭かった。
仙谷元官房長官から、私は多くを学んだ。ご冥福を祈りたい。

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