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Vol.067 原発事故の後遺症とそのリハビリ;福島県・浜通り訪問で考えたこと(1)

医療ガバナンス学会 (2019年4月15日 06:00)


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NPO医療制度研究会・理事、元・血液内科医
平岡 諦

2019年4月15日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

東日本大震災(2011年3月11日)から8年、たまたまの「ご縁」で相馬を拠点に浜通りを訪れることができた(2019年3月22日~25日)。浜通りとは、福島県の東部、西の阿武隈高地と東の太平洋に挟まれた太平洋沿岸の南北に細長い地域である。高度成長期に火力や原子力発電所が多数建設されて「電源」地帯となった。大震災時、浜通りの大部分で震度6強を観測し、沿岸は大津波に襲われ、東京電力・福島第一原子力発電所(以下、1F)事故が誘発された。

●東京電力・風況調査報告のデタラメ:

神戸空港から仙台空港へ、それ程の揺れもなく5分ほど早く着いた。空港から名取駅乗り換え、常磐線で相馬へ向かった。名取・相馬間は10駅、50分足らずの予定が、海側への強風で徐行運転となり25分ほど遅れた。運休になった列車も出たそうだ。あの日、このような海側への風が吹いていたなら、放射能飛散による近隣住民への被害は起きなかっただろうに。
東京電力は1964年12月に地理調査のための事務所を現地に設置し、1965年10月には安全性、経済性から原子力発電所の立地が可能と決定した。敷地地上8mの風向分布を次のように報告している。「年間を通じ西、西北西、北北西が卓越し、出現頻度は各々約12%弱。上記はいずれも敷地から海へ向かう風である」(1)。
気象庁「東日本大震災関連ポータルサイト」には、1976年から2010年のアメダス観測データから、浜通り地方の月ごとの「その地点でどちら向きに風が吹きやすいか」を示す「風向の傾向図」が載っている。1Fに最も近い浪江の「風向の傾向図」を見ると、「西、西北西、北北西が卓越している」と言えるのは10月、11月、12月、1月、2月である。5月、6月、7月、8月は南南東から東南東の風が卓越している。3月、4月および9月は移行期で、決して「年間を通じて」敷地から海へ向かう風が吹いている訳ではない。常識的に考えても風向が「年間を通じ西、西北西、北北西が卓越」している場所など日本には無いだろう。東京電力の風況調査報告はデタラメであった。
なぜ、このようなデタラメが通用したのか。それは原発が国の政策(国策)であり、それが私企業に任されたからだ。上記下線部分で示したように、企業としては安全性をある程度犠牲にしても、経済性を考えなければならない。これが資本の論理であり、マルクスが『資本論』で指摘したところだ。

●津波対策に抜け落ちた「安全率」の考え:

例えば、エレベーターのワイヤーロープ(主索)の安全率は、普段の運転で4.0、安全装置が作動したときでも2.5と建築基準法に定められているようだ。よく採用される安全率3.0とは、想定の3倍の負荷がかかっても持ち堪えるということだ。安全率を高めようとすると構造物のコスト高を招く要因となる。原発の津波対策では、そもそも安全率の考えが抜け落ちていた。津波対策においても資本の論理が貫徹されたのだ。
津波対策の経緯は次のようであった。1Fの各号機は1966年~1972年に設置許可が出された。当初、津波に関する明確な基準はなく、東京電力は既知の津波痕跡を基に設計を進めた。具体的には、福島県いわき市にある小名浜港で観測された既往最大の潮位として、1960年のチリ地震津波による潮位(O.P.=小名浜港工事基準面)を設計条件として定めた(O.P.=+3.122m)(2)。国の原子力安全委員会は、1970年に安全設計審査指針で津波評価基準を出した。そして「過去の記録を参照し最も過酷と思われる自然力に耐えることを要求」したのだ。2002年に土木学会から刊行された「原子力発電所の津波評価技術」に基づいた評価結果(O.P.=+5.4~5.7m)を踏まえ、東京電力はポンプ電動機の嵩上げなどの対策を実施することはしたのだ。
以上をまとめると、企業は経済性を考えた独自の安全性基準により設計施行を開始し、国は後追いで(流行りの言葉でいえば、忖度して)その安全性基準を承認し、学会(専門家)の意見が出されると企業はそれに沿った対策を実施する。しかし、三者とも安全率の考えに言及しなかった。産官学の“素晴らしい”チームプレーである。その結果、「東京電力が対策を講じていた津波の高さはたった5.5mに過ぎなかった」。「ところが、14mを超える津波が福島原発の冷却機能を奪ってしまった」のだ(3)。安全率3.0を掛けて対策していたなら、O.P.5.4mの 3倍、16.2mの津波にも堪えたことだろう。国策による多くの犠牲者を出さずに済んだのだ。

●原発対策は、国内だけを考えていて良いのだろうか:

原発周辺住民は、将来の原発事故に備えて、その土地、季節別の風況を考慮した避難場所を想定しておくことだ。もちろん事故当日の風向きが最重要である。偏西風の強い時期、たとえば若狭湾にある原発で事故が起きれば、真東にある関西の水がめ、琵琶湖を汚染するだろう。周辺だけの問題ではなく広域の問題である。遠いチェルノブイリの原発事故でさえ、日本の雨水に放射性物質が検出された。偏西風に乗ってやってくるゴビ砂漠からの黄砂や中国大陸からの公害物質PM2.5が日本人を悩ませている。これらを考えると、中国大陸の原発大事故は日本全体を「帰還困難区域」にすることもあり得るだろう。

●常磐線、国道6号の復旧と復興五輪・聖火リレー:

常磐線の徐行運転は、この地帯特有の強い山風による。だから震災以前にも時々あった。震災後はその頻度が増えているという。その理由が津波で冠水した線路の復旧工事の一つ、線路の嵩上げだ。それが列車を横風に弱くした。常磐線は今も福島県内の一部(相馬駅から七つ目の浪江駅と、さらに四つ目の富岡駅間の20.8km)が不通である。その大半は「帰還困難区域」と一致している。2020年3月末までの運転再開を目指して、除染と並行して復旧を進めているそうだ。
国道6号は常磐線と並走しながら、浜通りを通り抜ける幹線道路だ。1F事故による「警戒区域」に含まれた福島県双葉郡富岡町から浪江町までの30km程度の区間が2011年4月22日から通行不能となった。除染・復旧が進み、自動車に限り全線での自由通行可能になったのが2014年9月15日だ。しかし今も、歩行者・軽車両・原動機付き自転車・自動二輪車は引き続き規制対象となっており、「帰還困難区域」内での駐停車や、国道本線を外れた道路・施設への立入りは禁止されている。窓を閉めてエアコンは内気循環にするよう呼びかけてもいるらしい。すなわち、自動車内への「屋内退避指示」を守れば、国道本線上の移動は可能な「帰還困難区域」ということだ。
「帰還困難区域」とは、年間積算線量が50ミリシーベルトを超えており、5年間たっても年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らない恐れのある区域とされている。自動車に限り自由通行が可能となったのが2014年9月15日だ。5年後は2019年9月15日である。復興五輪と銘打った東京オリンピック・パラリンピックの開催まで1年も無い。全国を巡る聖火リレーはその前から始まる。ランナーはこの地を走ることができるのだろうか。あるいは防塵マスク・防護服を着けて走るのだろうか。聖火リレーのスケジュールを見ると、双葉郡楢葉町と広野町に跨るJヴィレッジから、グランドスタートするとなっている。
Jヴィレッジは国道6号から少し海側へ入ったところにあった。着いたのは昼過ぎ、高級ホテルを思わせる宿泊施設から全天候型トレーニング施設へ向かっていると思われる、スポーツウェアの高校生らしき集団がいた。Jヴィレッジは東京電力が地元への貢献として地域振興施設の造営・寄贈を提案したのに始まり、日本サッカー協会が協力する形でナショナルトレーニングセンターとして設立され、福島県へ寄贈されたものである。
当時、1Fでの7・8号機増設の見返りではないかとしてたびたびマスメディアに取り上げられたという。1F事故の時は、20キロメートル圏内にあることから「避難指示区域」、後に「警戒区域」に入り、拠点としていたJFAアカデミー福島、TEPCOマリーゼは避難を余儀なくされたらしい。しかし、1Fの南に位置するため、放射能飛散による影響は少なく、原発事故に対応する「現地調整所」、原発に向かう作業員の「中継基地」、さらに除染への対応や賠償の審査業務のための東京電力「福島復興本社」設立地として機能してきた。2020年オリンピックの東京開催が決定したことを受け、トレーニング施設として再利用することを目指し、2017年3月までに東京電力による使用が完全に終了、2018年夏に一部再開、2019年4月の全面再開が予定されている。復興五輪の聖火リレーのスタート地点に選ばれたのは「福島県の復興のシンボル」ということだろう。しかし違和感を覚える。
オリンピック委員会の発表によると、大震災の被災3県(岩手、宮城、福島)については、日数を配慮して各県3日を設定したとなっている。福島県は2020年3月26日から28日の3日間で、29日には栃木県にバトンタッチされる。福島県内のコースは発表されていないが、現在「帰還困難区域」とされ、自動車のみ通行可能となっている国道6号を、聖火ランナーが走れるくらいに除染できるのだろうか。迂回せざるを得ないようであれば、Jヴィレッジは決して「復興のシンボル」なんかではない。そもそも、オリンピック開催日になっても「帰還困難区域」が残り、帰還困難者が存在しておれば、「復興五輪」は「原発事故被害者を放置した復興五輪」となるのだ。
国道6号沿いに多くの汚染土置場が見られた。元は田や畑であった場所だろう。きれいな乳白色の防護壁に囲まれて、どす黒い大きな袋に入った汚染土が2段、3段に積み重ねられている。このような袋入り汚染土が完全に撤去された置場も所々で見られた。中間施設と称する場所に移動しているという。幹線道路から目立たなくして、復興を印象付けようとしているのだろうか。

つづく

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