医療ガバナンス学会 (2010年3月14日 08:00)
スタッフへの教育や治療法の選択も、常にこの中期目標を念頭におくよう心がけました。2007年1月に病棟がオープンし、入院患者の受け入れが始まりました。といっても、特に宣伝していた訳ではないので、週1〜2名の入院でかなりのんびりとしたスタートでした。混合病棟で看護師も血液病患者を看るのは初めて、という状況なので、無理がなく、多すぎず少なすぎず、いい感じでした。
毎週月曜17時から医師、看護師、薬剤師、療法士が参加する合同カンファランスを開催し、治療方針や治療法に対する説明、双方向の意見交換の場としました。その時に、行われている治療のみならず、移植に至る一連の治療における位置づけを重視して説明し、互いの知識と理解を深めていきました。
コメディカルへの説明にはクリティカルパス(以下、パス)が多いに役立ちました。例えば、白血球減少患者が夜間に発熱した場合もパスに則り、看護師が血液培養を採取し、指定された抗生剤が開始され、翌午前に胸部レントゲン撮影を行う、という流れが的確に実施されました。パスに則った抗がん剤治療を行い、スローペースながらも着実に患者数が増え、スタッフの経験も蓄積されてきました。
2007年4月に年度が替わり物品の新規購入が可能となりました。筆者自身は筑波記念病院で様々な造血幹細胞移植を手がけていましたが拙速は避け、中期目標に則り、まず自家移植を行うべく細胞分離装置の購入申請および輸血部検査技師への教育を始めました。
機器購入後にメーカーの担当者と一緒に採取回路の組み立て、採取中のウォッチング、細胞採取後の分離凍結保存に関する指導を行い、大変ありがたいことに、技師がそれら全てを行ってくれることになりました。以前T大学にいたころは、上記全てが医師の業務とされており、不慣れな医師が回路を組み立て、細胞を分離・保存し2〜3人の医師が丸一日がかりとなる大イベントでした(しかも細胞採取に対する診療報酬は「ゼロ」です)。それに比べるとあまりにありがたくて感無量でした。
それらの手配が完了した2007年7月、多発性骨髄腫の患者が自家移植の適応となりました。患者さんに当院初の自家移植であることを説明し、同意が得られました。まずシクロフォスファミド(抗がん剤)大量投与の後、白血球の回復期を狙い、末梢血幹細胞を採取・保存し、その後メルファラン(抗がん剤)大量投与を行い、凍結保存された末梢血幹細胞を解凍し投与しました。自家移植は何度も経験がありましたが、初めての施設できちんと14日後に白血球数の回復が認められた時は感慨深いものがありました。
順調に症例が蓄積されつつあった2007年10月、転機が訪れました。同種移植が必要な患者(慢性骨髄性白血病急性転化期)が現れたのです。残念ながら血縁者間で白血球型の適合者が見つかりませんでした。骨髄バンクの調整を待つ時間がなく臍帯血移植以外ない、という状況でした。
患者さんと家族には、当院では臍帯血移植はできず、経験もないことは伝えましたが、最後まで帝京ちばで治療を続けたいという希望が強く、荒技でしたが2007年12月筑波記念病院で移植前の抗がん剤投与と臍帯血移植を行い、2008年1月に小康が得られた時に速やかに転院としました。
帝京ちばに戻り一時は寛解(病変がみつからない状態)となりましたが、残念ながら2月に再発、白血病と移植片対宿主病(graft-versus-host disease、以下、GVHD)が同居するという、つらい病状になりました。万全を尽くしましたが残念ながら患者さんは亡くなりました。しかし最期まで頑張られた性格とも相まって、同種移植の重み、GVHDのつらさ、免疫抑制と白血病再発および感染症との関連、等々多くの教訓を遺してくださりました。
2008年3月に当院初の同種移植が行われましたが、皆が貴重な経験を共有していたおかげで大変順調でした。同種移植は命がけの治療で、患者さんや家族が我々医療スタッフを信頼してくれ初めて成り立つ医療であり、その任に堪え得る質を担保することが重要であることを皆が理解してくれたと感じております。
【厚生労働研究班の採択】
話が前後しますが、2007年3月下旬一枚の郵便が届きました。そこには「貴殿の申請は採択されました」と書かれていました。一瞬何のことか理解不能でしたが、直後に「え〜、本当に通ったの!?」という悲鳴のような驚きがこみ上げてきました。
不謹慎かもしれませんが、昨年12月に応募はしたもののまさか本当に採択されるとは夢にも思っていませんでした。しかし、「魅力」ある講座とするには絶好の機会です。国から課題を与えられ成果を国民に還元するという社会的に意義のある研究を、資金を提供して頂き遂行できるチャンスを頂いた訳です。
研究課題は、「がん医療における医療と介護の連携のあり方に関する研究」というテーマです。重要な課題ですが、具体的に何をすべきか、最終成果はどういう形を目指すか、そもそもがん医療と介護の関係はどうあるべきか、考えることは多岐にわたりました。
1997〜1999年頃、筆者は筑波記念病院で在宅抗がん剤治療の可能性を探り、実際に訪問看護と組んで往診や自宅での抗がん剤投与を行ったことがあります。自宅で安全に抗がん剤投与を行うための点滴ポート挿入を自ら学んだり、在宅で訪問看護師の負担の少ない抗がん剤投与法をパスにしたり、顆粒球コロニー刺激因子(白血球減少期間を短縮させる薬剤、G-CSF)の投与を在宅で行ったりしました。
しかし当時まだ介護保険は施行されておらず、G-CSFの在宅投与も保険機構から査定され、「なるべく在宅で」という患者の希望を叶えたくても、制度も社会基盤も不十分でした。その頃訪問看護師たちと「制度が患者の希望の壁になっている」と話したものです。そのような思いを厚労省のお墨付きを得て(?)社会研究として実行可能性を検討しよう、現場の思いやニーズを取り入れ「がんであっても住み慣れた自宅で過ごすことが容易となる」方法を見つけ出し一般化に繋げることが、求められる具体的な研究成果と考えました。
そのためには、筑波記念病院の訪問看護ステーションとの連携は欠かせません。当初、帝京ちばへの赴任後は筑波記念病院での業務を段階的に縮小しようと考えていたのですが、逆に研究の拠点として欠かせない場所となりました。
さらに2006年12月、筑波記念病院血液内科患者会「こぶしの会」が発足し、筆者に顧問になってほしいとの要請がありました。その結果、週3回のつくば〜市原の往復が却って固定されることになりました。筑波記念病院の理事長(当時)先生のご厚意で「つくば血液病センター」という部署を作り、小松班研究の専任スタッフを採用(最終的には5名!)して頂けました。段階的縮小どころではありません。むしろ完全な2拠点体制と相成りました。
移動生活は固定し、予定時間通りの業務管理を身につけなければいけません。その頃の筆者の習慣予定は、日曜深夜に市原に移動、月曜帝京ちば;午前は血液内科回診、夕方に合同カンファランス、夜につくばへ移動。火曜筑波記念;午前は病棟回診、午後は専門外来、深夜に市原へ移動。水曜帝京ちば;午前中初診外来、午後病棟業務、この日のみ移動なし(概ね飲み会)。木曜帝京ちば;午前専門外来、午後カルテ回診、夜はつくばへ移動。金曜筑波記念;午前は病棟回診、午後は厚労研究、深夜に市原に移動。土曜帝京ちば;病棟業務または溜った書類の処理、夕方につくばへ移動。仕事は定時で終えて、移動の疲れも残さないよう「完全9時5時男」になっていました。しかし業務の増加は容赦なく、悪夢の2008年度を迎えました。(続く)