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Vol.103 「74年前の清算を日本はできているのか」フィリピン先住民族との会話から考えた

医療ガバナンス学会 (2019年6月10日 06:00)


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秋田大学医学部医学科5年
宮地貴士

2019年6月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

「Where are you from?」「I am from Japan.」なんの変哲もない、よくある挨拶のはずだった。でも、彼は爆笑した。

フィリピン北部に位置するバナウェでの出来事である。ここは天空への階段とも称される棚田郡が世界遺産に登録されている地域だ。ツアーガイドのディンさんはこの地域の方言、Tuwali語を話す。そのTuwali語で「ジャパン」が意味するのはなんと「足の裏」だった。「I am from ジャパン.」僕の回答にディンさんは爆笑した。そして、笑顔のまま足の裏を地面に踏みつけた。これは偶然か、それとも・・・

前回のフィリピン滞在記(http://medg.jp/mt/?p=9033)ではタガログ語で「ありがとう」を意味する「Salamat po(サラマッポ)」とアラビア語の挨拶「アッサラームアライクム」との繋がりから、フィリピンの歴史を考察した。今回は同国の歴史を語るうえで避けては通れない太平洋戦争とその戦後処理ついて書きたいと思う。

真珠湾攻撃が行われた1941年12月8日午後、日本軍はアメリカの植民地だったフィリピンに侵攻した。レイテ島の戦いやバターン死の行進など、その悲惨さは歴史に刻まれている。特にマニラの戦いでは70万人の市民が巻き込まれ、犠牲者は10万人に及ぶといわれている。東京大空襲と同じ規模である。太平洋戦争では最大規模の市街地戦だった。

ここでふと疑問がわいた。「なぜ、日本とフィリピンにおける戦後処理の問題はあまり取り上げられないのだろうか。」例えば韓国では戦時中の徴用工問題をめぐって、今でも訴訟が続いている。従軍慰安婦の問題もそうだ。中国でも抗日戦争勝利70周年の軍事パレードが挙行されるなど、根深い問題がある。日本の総理が靖国神社に参拝するたびに、両国から懸念が表明される。だが、フィリピンの大統領から抗議の意が表明されたことは記憶にない。

冒頭のディンさんの“足踏み”にも悪意は全く感じられなかった。「太平洋戦争については、歴史上の一つの出来事として習ったよ。」フィリピンの東大と言われるフィリピン大学の医学生と戦争の話をしても、そこまで膨らむことはなかった。日本とフィリピンの戦後処理は上手くいき、それが皮肉にも風化を引き起こしてしまったのだろうか。

1951年9月、サンフランシスコ平和条約会議のことである。当時のフィリピン全権代表であったカルロス・P・ロムロ外相は強烈な言葉で日本の戦争責任を追及したといわれている。この平和会議では中国や台湾、南北朝鮮が不在だった。そのためフィリピンが対日批判の急先鋒としての役割を務めていた。5年後の1956年に日比賠償協定が結ばれ、国交が樹立するも人の行き来は厳しく制限されていた。

風向きが変わり始めたのは1960年頃と言われている。当時の戦跡巡拝者たちの記録には、フィリピン社会が彼らを温かく迎え入れてくれたと書かれている。日本に対するフィリピン世論が変わった背景には、冷戦の中で日比ともに反共産同盟になったこと、フィリピンのODA被援助額の5割を占めたといわれる日本政府による手厚い支援、そしてそれを引き出すために反日感情をコントロールした比政府の外交戦略などが考えられる。だが、どこか腑に落ちない。日韓、日中の戦後処理との違いは一体どこにあるのだろうか。

これを解明するためには日中、日韓、日比の歴史をさかのぼる必要がある。中韓との争いは663年の白村江の戦いから始まった。一方、フィリピンとの関わりはそれから900年近く経過した16世紀半ばにスタートした。これだけ見ても、日中、日韓の戦後処理が日比ほど簡単には済まないことが想像できる。明治維新から第二次世界大戦の間に起きた日中韓の争いも戦後処理に影響を及ぼす重要な要因だ。日清戦争によって中国のプライドは傷つけられ、日露戦争後の処理によって朝鮮は主権が奪われた。

歴史的なつながりが強い日中韓と日比との戦後処理において、最大の相違点は“国民感情”ではないだろうか。日中韓では数世紀にわたって争ってきたからこそ、日本の侵略に対して今でも強い反感がある。そのため、日本政府による「戦後処理の問題は政治的に解決済み」という態度は、相手の感情を逆なでにしている。仮に国際的な枠組みにおいて100%解決していたとしても、感情に寄り添う姿勢が見えないことには違和感を覚える。

人類の歴史は人や土地、カネをめぐる争いの数々だ。特に隣接する国々ではその傾向が顕著にみられる。ヨーロッパの歴史を見れば明らかだろう。ただ、第二次世界大戦後のヨーロッパは東アジアとは全く異なる道をたどった。その中で日本と同じ敗戦国、ドイツが果たした役割は大きい。ヨーロッパの安定がドイツの将来的な国益にも結びつくと考え、大局観に立った姿勢を貫いてきた。例えば1952年に誕生した欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が挙げられる。これは二度の世界大戦の原因にもなった独仏間の石炭資源と鉄鋼業を欧州の管理下に置くことが目的だった。ドイツは石炭が豊富に採れたルール工業地帯を半ば失うことになったが、ヨーロッパの未来にかけたのだ。イギリスの離脱や移民、テロの問題に揺れるEUであるが、ドイツが中心的な役割を果たし続けている背景には、大戦後に築き上げてきた信頼が基になっているのだろう。

テクノロジーの発展により、人の行き来が活発になった。さらに、インターネットによって国境の意味は薄れてきている。この時代において、経済発展に必要な人・モノの交流を阻害する国家のプライドほど不要なものはない。ヨーロッパの歴史に習い、成長著しい東アジア諸国が心から信頼し合える時代を私たちの手で創っていきたい。

冒頭のディンさんの祖父はフィリピン人部隊として米軍に加わった。家を出て行ったその日以来、二度と戻ることはなかったようだ。ディンさんが、笑顔を見せながら「ジャパン」といって足踏みをしている。これはもしかしたら本当に偶然なのかもしれない。でも、私はその姿を見て、懺悔を感じずにはいられなかった。一人一人のこの気持ちから心の交流は始まるのかもしれない。

日本とフィリピン、日本と中国、日本と韓国。先人たちが築いた遺産の恩恵をいただきながらも、負の遺産に対しては私たちの世代で清算しなければならない。そんな思いを強くする、フィリピン旅であった。

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