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Vol.123 南相馬での5年3ヶ月に渡る医師生活を終えて

医療ガバナンス学会 (2019年7月16日 06:00)


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南相馬市立総合病院 外科
澤野豊明

2019年7月16日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

私は卒後6年目の外科医だ。先日、福島県南相馬市にある南相馬市立総合病院での5年3ヶ月に渡る常勤医師としての勤務を終えた。2011年3月に東日本大震災による地震・津波と福島第一原発事故を同時に経験した南相馬に2014年4月から赴任した私の経験をお伝えしたい。

まずは南相馬に行くことになった経緯から書きたいと思う。私が南相馬に行くきっかけとなったのはやはり福島第一原発事故が起こった地域に赴き、何か自分ができることがないだろうか、と思ったことだ。

そのきっかけは東日本大震災が起こった2011年3月に遡る。それはちょうど私が医学部3年生から4年生に進級する時だった。3月11日の地震が起きた時には、春休みのため地元の神奈川県横浜市に帰省しており、県の自動車免許センターで免許更新のための講習を受けている真っ最中だった。横浜市も震度5強の揺れに襲われ、免許センターが倒壊の恐れがあるため直ちに館外に避難を促され、その日は免許の更新ができなかった。その後なんとか実家に帰宅し、テレビで宮城県名取市が津波に襲われる様子を見て鳥肌が立ったことを今でも鮮明に覚えている。しばらくは関東地方も計画停電や放射線被ばくに関する報道で、地震と原発事故の影響を毎日のように感じざるを得なかった。しばらくは実家から身動きも取れず、何か自分にできることはないだろうかと考える日々だった。しかし大学がある千葉に戻った後も、週7日バドミントンに明け暮れる学生だった私には、その時期に被災地のために何か行動を起こすことは結局できなかった。

震災から約2年が過ぎた2013年春、私は医学部6年生になろうとしていた。殆どの医学生は6年生になると卒後2年間の初期研修を行うための病院を決める必要がある。私は自分がどこの病院で研修医を行なったら良いのか皆目見当がつかず、部活の先輩に相談したり、病院見学に行くことにした。千葉大の卒業生のほとんどが首都圏、あるいは自身の出身地域で初期研修を行うことをその時に知ったが、私は他の人がそうだからと言って、本当に今までの同じような環境で研修医をするのが良いのか、とか、あるいは自分がやりたいことは一体なんなのかを考えた。その時に湧き出てきたのが「2年前にできなかった、東日本大震災の被災地に行って何かその地域の役に立ちたい」という思いだった。
早速私はいくつかの東北沿岸にある臨床研修病院に見学を申し込み、その結果、その中でも特に南相馬市立総合病院を初期研修病院に選んだ。この選択には振り返ってみれば様々な要因が関与していると思うが、当時の院長先生だった金澤幸夫先生の人柄に惚れたこと、地震津波だけでなく、福島第一原発事故の影響も受けた地域にある病院であること、2013年4月から研修医を受け入れるようになった新生臨床研修病院であったことが特に大きいと思う。

こうして医師国家試験に合格したのち、2014年4月から臨床研修医として南相馬市立総合病院で働かせて頂くこととなった。初期研修時代には亀田総合病院での半年間に渡る出向研修、各科の敷居が低く他科をローテートいる時にも手技に呼んでもらえるなど、充実した初期研修が行うことができた。2016年4月からは縁あって、大平広道先生の下で外科の後期研修医として残らせてもらい、非常にたくさんの手術を経験させてもらった。足りない症例は東京・神奈川にある専門病院に研修に行かせてもらい、昨年2018年には症例を全て満たした上で外科専門医試験の筆記試験にも合格することができた。

その一方で、外科医として研鑽を積むためだけであったら私は南相馬に後期研修医としてとどまることはしなかっただろうと思う。私は初期研修時代から南相馬市立総合病院が主体となって行なわれている原発事故被災地域における健康問題およびその研究に携わらせて頂く機会を得て、2019年7月までに計30編以上の英語論文(内11本が筆頭著者)に関わらせていただいた。実は赴任した当初、自分自身が研究に従事することなど全く考えていなかった。だが、これほど多くの研究に携わらせて頂くことになったのには初期研修1年目に坪倉正治先生と出会ったことが大きく関与している。言うなれば坪倉先生との出会いが私の人生を変えたと言っても過言ではない。

坪倉先生は、原発事故が起きた直後の2011年4月から南相馬市立総合病院に赴任した血液内科医だ。内科医として臨床に従事しながら、地域住民の放射線被ばくについての調査を継続して行い、南相馬を含む福島県浜通り地区の外部および内部被ばく量が直接健康に大きな影響を与えるレベルにないこと、その一方で原発事故に伴う避難によって起こったコミュニティの崩壊などが二次的に被災者の健康を害している可能性があることなどを示した。私が言うのもおこがましいが、坪倉先生が本当にすごいと感じるのは、もちろん研究や論文を遂行する能力は誰よりも高いが、地域に根付き、地域の住民の方々、病院のスタッフ、市役所、メディア関係者から大きな信頼も得ている点だ。これは間違いなく、坪倉先生が地道に積み重ねてきた報告・連絡・相談するという当たり前の作業を怠らなかったことを示していると思う。そうした活動の結果、坪倉先生は福島県立医科大学でも一目置かれる存在となり、昨年2018年から教授職に任命されるに至った。

私は臨床研修医の1年目の時から毎週月曜日の夜に相馬中央病院で行われている坪倉勉強会に参加しはじめたことを皮切りに論文指導いただくこととなった。この論文執筆活動を行なっていなければ、私が臨床研修を修了後も南相馬で研修することはなかっただろうと思う。その後継続して指導をいただいているおかげで現在までに多くの論文を執筆することができ、現在は福島県立医大の公衆衛生学講座博士課程にも安村誠司教授のサポートの下所属させていただている。

もう1人、私の人生に大きな影響を与えた人物がいる。それは現在ときわ会・常磐病院で乳腺外科医として勤務する尾崎章彦先生だ。尾崎先生は2014年9月から南相馬市立総合病院に外科医として赴任し、計1年半ほど外科の上司として私にも直接ご指導をいただいた。尾崎先生も南相馬に赴任して以来に多くの研究活動に従事するようになり、自身のキャリアを決め、現在も乳腺外科医として臨床医としてフルタイムで働きながら、論文を数多く執筆する活動を行なっている。尾崎先生の外科医として臨床に従事しながら研究にも取り組む活動の仕方は私にとって一つのモデルだ。現在も尾崎先生とは多くの研究を共同で行なっているが、いつも尾崎先生の仕事への真摯な姿勢にも頭が下がる思いだ。今後も私が背中を追う先輩として、ご一緒に研究をできればと考えている。

研修医として赴任して以来、坪倉先生・尾崎先生以外にも、地元の住民の方々、病院スタッフ、市役所、南相馬市立総合病院・相馬中央病院の先生方のご指導のおかげで多くの論文を執筆させていただいたが、特に印象深いのが除染作業員の方々に関する研究だ。出稼ぎ労働者が少なからず含まれる除染作業に従事する作業員の健康管理が適切になされていない可能性があることが、私が行なった研究で明らかになった。その結果から私は災害時の健康弱者の実態を明らかにすることに興味を持つこととなり、これが現在の私の研究テーマの1つとなった。

また、南相馬などの放射性物質に暴露された地域では今現在も少なからず風評があるが、実際の状況については現地にいないと知ることができない。こうした風評を払拭するに、正しい情報の啓蒙が大切であることを痛感し、その状況を現場から発信するための論文執筆にも数編携わらせて頂いたのだが、この結果が認められ、国際的な医学誌で私の書いた論文が編集長からピックアップされるに至った。こうした今までに誰も行なっていないようなことを行うと学術的にも認められることを知ることができたことも大変喜ばしく、ご指導いただいた皆様に感謝を申し上げたい。

8月からは消化器外科に外科医としての専門領域を決め、消化器外科医として宮城県仙台市の病院でさらに臨床医として研鑽を積む予定だ。南相馬市立総合病院にも坪倉先生が立ち上げた地域医療研究センターの研究員として今後もかかわらせて頂こうと考えている。お世話になった諸先輩方に恥じぬよう、一層精進したい。

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