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Vol.144 災害時の公衆衛生活動と研究活動に明確な線引きを置くことは適切なのか?−伊達市の被ばく論文問題より−

医療ガバナンス学会 (2019年8月20日 06:00)


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南相馬市立総合病院
澤野豊明

2019年8月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

私は福島第一原発事故後に福島県浜通り地区で除染作業員の健康問題や風評について研究しながら、外科に従事する医師だ。昨年末、原発事故後に伊達市から発表された放射線被ばく量の推計値に関する論文(いわゆる宮崎・早野論文)が「同意書が適切に取られていなかった」などとメディアから批判を受けた問題に関して、我々の意見をまとめた短報が2019年7月27日に英オックスフォード大学出版局が発行する医学誌『QJM』で公開された。(https://academic.oup.com/qjmed/advance-article/doi/10.1093/qjmed/hcz193/5539879?fbclid=IwAR0jTQzEMQT2i2z2PbEV7JGvi7yK7TjNfBzfniZb9ik-RXCceNvZdyGVMvA) 今回はその報告の解説をしたい。

まず問題となったケースについて、簡単に経緯をまとめる。2018年12月、いくつかの日本メディアで、2016年および2017年に”Journal of Radiological Protection”から発表された福島県伊達市の地域住民の被ばく線量に関する2編の査読論文が研究参加の同意のない住民のデータを含み、不正な誤りがあったと批判する報道がなされた。確かに結果として同意のないデータは含まれていたが、その報道の主張はあまり正確なものではない。これは、事実とデータの検証が十分にされておらず、日本の科学に対するジャーナリズムの質が低いと言わざるを得ないものだった。実際に先日7月19日に東京大学と福島県立医科大学の調査委員会は、「調査結果に一部誤りはあれど、不正はなかった」という結果を発表した。( https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190719-00000087-kyodonews-soci))では、なぜこのようなことが起こってしまったのだろうか。

実はこの問題の根底には、医学の世界でも大変難しいとされる倫理の問題がある。特に今回の問題の背景にあるのは、災害時の住民の健康データの取り扱いの難しさだ。災害時にはその混沌とした状況の中で、災害を被った地方自治体はリアルタイムで情報を集め、その情報を統合し、困難な判断を何度も迫られながら、地域住民を守るために災害対策を継続的に行っていかねばならない。

しかし、その一方で、地方自治体はその規模が小さいため、十分な専門知識を有した専門家を持たないことが一般的で、適切な災害対策を行うために専門家による災害時のサポートが欠かせない。

また、地域住民の安否情報や健康データは地方自治体の保健衛生担当者が適切な対策を立てるために必要であると同時に、研究データとしての性格も有するが、一連の行為は地方自治体が住民の健康を守るために行われる公衆衛生上の業務であり、一般的な研究には分類されない。

その一方で、解析された災害前後の地域住民の健康データを学術的に発表する際、それは地域住民の健康を守るための行為であるにも関わらず、データの目的外使用であるため、地域住民への研究参加の個別同意が必要であるという考えも存在する。とはいえ、実際のところ災害の混乱時には全被災者から正確に個別同意を取得することは困難だ。今までのところ、このような災害時の地域住民の健康データの利用について、どのような倫理的配慮をすべきかに関してコンセンサスが得られていない。

一般的に倫理的配慮が科学研究者の行動に大きな影響を与えることは広く知られており、研究対象者の尊厳、権利および福祉を守るために倫理的原則を尊重し、それを遵守することが重要だ。適切な倫理基準が遵守されていることを確認するために、研究開始前に、被験者を対象とするすべての研究を審査し、研究機関とは独立した倫理専門家の委員会によって承認される必要がある。

また、原則として、人を含む健康関連研究を行うことを倫理的に正当化するためには、その科学的・社会的価値があること、そして人々の健康を保護し促進するために必要な手段であるという前提が必要だ。

健康に関与するすべての関係者は公衆衛生および福祉を改善するため、客観的研究の結果に頼る。したがって、研究が科学的に適切であり、事前に認められた知識の確固たる基盤の上に構築され、正確に報告されていることは研究に関わるもののみならず、地方自治体、公衆衛生関係者、およびメディアにとって重要だ。

その一方で、確かに科学的・社会的価値や人々の健康を促進することは研究を行うための正当性の根拠だが、それだけでは研究参加者を危険にさらすことを正当化することはできず、研究者は研究対象者を可能な限り保護するよう常に自戒せねばならない。しかしながら、それを規定するガイドラインや規制、法律などの解釈は曖昧にすることができ、時に論争につながることがある。つまりそういった倫理的ガイドラインを厳守することは時に善よりも害が大きくなることもありうるということだ。

今回の論文の解析は、伊達市の公的なデータを用い、今後の公衆衛生活動のための業務の一貫としての側面を持つものだったにも関わらず、報道ではこの論文は単なる研究であり、厚生労働省が定める研究倫理指針を遵守していないという旨の批判がなされた。

この論文は、伊達市の住民59,000人を対象として、住民の実際の外部被ばく線量と空間線量の関係を調べたものと、住民の生涯被ばく線量を推定したもので、同市の全域を対象とした規模の大きなものだったため、社会的なインパクトも大きかった。そのため、日本原子力規制庁において、住民の被ばく線量を推定する際にもっとも重要視された論文でもあった。福島県立医科大学の倫理委員会は、使用する個人データについてインフォームド・コンセントを提供しなかったすべての参加者を排除するという厳格な条件の下で、研究を承認した。

今回のケースは災害時の科学者による公衆衛生活動と研究活動の間に明確かつ具体的な境界を設けることの難しさを浮き彫りにした。また、研究の結果を、命を救うために使用することに対して倫理的制約が存在すること、さらに、災害後の混沌とした状況でルールや規制を設定し、執り行う責任を誰が負うべきかという問題にも焦点を当てることとなった。

実際に個人の健康データは、災害時に地方自治体が住民を守るための計画を策定し評価するために不可欠な情報だ。災害の様式や規模は事前に想定することが困難で、すでに確立されている緊急管理システムや倫理的配慮は非現実的であり、ケースバイケースの災害対応は理想的だ。しかし、そうは言っても実際にはそれを適切に行うのは困難を伴う。そう言った臨機応変の対応をするため、大災害時に地方自治体の保健担当者は、外部の専門家と協力しなければならないことがよくある。災害後の混沌とした状況では、データ分析が遅れたり、誤った扱いをしてしまったり、公共の利益のために悪用されたり、そして通常の倫理指針がうっかり見過ごされてしまったりするリスクが常にあるため、そういった連携が重要になる。

その一方でGoogleなどのIT企業は、倫理的配慮なしにユーザーの健康に関するビッグデータを使用しているが、こうした行いは決して「研究」として認定されておらず、特に制限なく容認されているという矛盾する現実もある。その結果、幸か不幸か福島の原発事故では、専門家に貴重な情報と経験の集積を可能とし、全国および世界中の将来の緊急事態への備えるためのエビデンスの集積に大きく貢献した。

伊達市の場合、すべての参加者に提供された同意書に、「収集されたデータは伊達市で保存され、健康管理目的のためだけに利用される」と明記されており、これは倫理的な問題はさておき、個人情報を提供する全員がプライバシーに対する権利を事実上放棄した形であった。さらに、日本の個人情報保護法に鑑みれば、そもそも地方自治体がその責務を果たすために必要な分析を行うために個人の記録を第三者に開示することは、プライバシーに配慮を行えば法的に認められており、今回の事象の倫理的配慮は客観的に見ればほとんど問題なかったと言えるだろう。

我々はメディアの主な役割の1つが政府や行政、そして科学者の活動に疑問を投げかけ、それらを説明することであることと考えている。しかし、メディアがこの重要な役割を担うためには、正確さと柔軟性を持つことが前提条件にある。現在世界的に「フェイクニュース」が横行していることが示すように、不正確なメディア報道は極めて有害で、潜在的に命を救う介入を遅らせ、科学者の評判を不当に下げることが起こりうる。そういった状況は、災害後の混乱期において倫理的配慮を見落とすことにつながりかねない。こうした中で、我々が常に見失ってはならない最優先の目標は、「住民および公衆衛生上の益」のために最善を尽くすことだ。この視点は抜けると議論は必ず暗礁に乗り上げる。私自身も今回の伊達市の論文に関する事象を通して、災害後の対応では、我々研究者のみならずメディア、そして行政側を含むすべての人が明確にこの課題設定を行い、行動することが重要だと改めて感じさせられた。

今回の論文発表が今後の災害後の報道や研究のあり方を考える上での礎になることを心から願っている。

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