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Vol.165 我らが旅館を守った方たちと被災者の方たち

医療ガバナンス学会 (2019年9月25日 06:00)


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帝京大学大学院公衆衛生学研究科
ときわ会常磐病院小児科
高橋謙造

2019年9月25日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

私の生地は、福島県いわき市である。以前の投稿「優しい看取りとは?」で、自分が育った旅館の思い出を少し書いた。

http://medg.jp/mt/?p=7823

その旅館は、実は今も存続しており、私が経営者として引き継いでいる。かつては湯治旅館であった宿を、父は和風旅館に改装した。その後、父は急逝し、当時小児科医として臨床に専念していた自分が相続したのである。自分にとっての生家でもある宿を、そのまま相続放棄する事は出来なかった。今は、医師、研究者、経営者と三足のわらじである。今回は、2011年3月11日、東日本大震災が発生した時の旅館の経験を伝えたい。経験を風化させたくはないとの思いからである。

その頃、私はある国のJICAプロジェクトに予防接種専門家として派遣されていた。私が留守の間は、親戚の叔父が社長を代行してくれていた。また、旅館の実運営面は、父の代からの支配人Kさんが担当してくれていた。
そんな時に、東日本大震災は発生した。続いて、東電の原発の事故が生じ、私はKさんと連絡も取れず、ただNHK Worldの報道を観て心配するほか、すべはなかった。それ以後の3日間は、旅館のTwitterアカウントを使って情報収集しつつ、同時に被災地にためになりそうな情報を発信する以外、海外にいる自分には出来ることがなかった。東京に住む友人が心配して旅館まで電話をかけてくれて、Kさんの安否が確認できたのは、震災発生の10日後だった。なんとKさんは、旅館に泊まり込みの番をしているという。当時は、原発が安定するかどうかもはっきりせず、自主避難等も盛んであった頃だ。しかし彼は、頑として旅館に居続けてくれた。国際電話で彼と直接に話が出来たのは震災発生から14日目だった。
「Kさん、ありがとうね。もう避難してもらってもいいんだよ。」
「だーめだ!こういう時は泥棒が来てあっという間に荒されっちまうから。見てねーとダメなんだ!」
「水なんかどうしてんのげ(どうしているの)?」
「客室にあるポットのお湯あっから、大丈夫だ!温泉も水道も止まってけどね。
謙ちゃんよ、それよか、社員の人ら、お客さんも来れねーし、これでは雇用継続出来ねーと思ってえ、もう仕方ねーから暇出さねっかなんねーかと思うんだ。オレから、連絡つく人に連絡すっけ?」
「すぐに行けなくてすみません。どうかお願いします。」震災以降、感情コントロールが効かなくなくなっていた自分は涙ぐんでしまった。
それから2-3日で、雇用継続不可との連絡を全員に伝え、旅館は機能停止したはずだった。しかし、なおもK支配人は、ボランティアで旅館に泊まり続けてくれた。不審な車が敷地内に入って来る事が何度かあったという。

しかし、実は震災の影響は、3/11だけではなかった。4/11に大きな余震があり、自分がかつて生まれ育った母屋から続く旧客室棟が完全に崩壊してしまった。そこには長い板張りの廊下があり、かつては、湯治に来ていた方々が日向ぼっこをしていた場所だった。自分が大好きな廊下だった。まさにその日、私はJICA専門家任期が終了し、日本に帰国した。帰国後すぐに旅館に電話をすると、K支配人が電話にでてくれた。

その翌日、今度はK支配人から電話があり、広野町からの被災者受け入れ要請があったとの事だった。是非受け入れなければならないと考えたが、最低限必要な生活用水も確保が難しい中迷いがあった。K支配人は、「社長、大丈夫だ!交渉してみっから!」と応えてくれた。彼は即日、50-70人程度の受け入れは可能だが、受け入れに必須となる水の工面が付かない、と広野町役場に率直に相談してくれた。2-3日もしないうちに、給水車による生活用水の支給があり、いよいよ受け入れる体制が整った。K支配人は、連絡が付く従業員から順に声をかけ復職を求めてくれた。そして旅館の機能は徐々に復活し始めた。旅館自慢の創作和食は当然供する事は出来なかったが、食材も徐々に入手可能となってきたため、従業員が交代で食事をあつらえるようになった。田舎料理ではあったが、同郷の高齢者の方々にはとても喜ばれた。少しずつ生活の機能は回復しつつあり、当館に居を定めながら仕事に出かける人たちも増えてきた。彼らには、朝、おにぎりと漬物程度だったがお弁当を持たせる事も出来た。そして、広野町の方々は、自発的に敷地内や館内の清掃を行ってくれた。

自分がやっと現地に帰ることが出来たのは2011/4/25の事であった。常磐線の各駅停車から見える車窓の風景は懐かしい風景とは異なってしまっており、「お前に故郷なんてもうないんだよ!」と突き放されるような苦しさを覚えた。
旅館に着いてみると、K支配人をはじめとして従業員全員が、疲れてはいるものの明るい顔で迎えてくれた。働けることが楽しいという。働ける場を確保してくれて、ありがとうとさえ言ってくれる人がいた。
「みんな、お風呂に入って、元気になってくれているんですよ。」とある従業員が嬉しそうに伝えてくれた。生活のための秩序は完璧に保たれており、自分が関わる余地などはないように見えた。医療でさえ、定期的に医療班がやってくるとのことであった。広野町の方々からお話を聞くと、「原発の影響は心配だが、医療的に困っていることはない。」とのことであった。

迷いはあったが、自分が医療職であるから、旅館のオーナーであるからという理由で医療的に介入する余地はないと判断した。無理な介入をして、やっと安定しはじめた秩序をかき乱すことは避けたいと判断したからだ。

差し当たっての方針を色々と打ち合わせ、後ろ髪を引かれる思いで帰途につこうとした時、震災と余震の影響を免れたフロント玄関を通った。そこには、昔から置いてある木のベンチがあり、広野町のおばあちゃん達が日向ぼっこをしてくれていた。それはかつて、自分が子どものころに、いつも眺めていた光景のようだった。もはや消失してしまった客室棟の廊下で日向ぼっこをしていたおばあちゃんたちの姿が蘇った気がした。

おおよそ50-70名の広野町の方々を受け入れていたが、忘れることができないのは、七夕である。K支配人が裏山から竹竿を切り出し準備した所、当時の26組の家族の全てが、「早く家に帰りたい。」と願い事を飾ったのである。
8月頃から徐々に仮設住宅等への移動がはじまったが、広野町の方々が去るときには、従業員と手を握りあい、泣きながら「有難う」と伝えてくれた。

2019年9月現在、客数は往年の約半分に減ってしまっている。それでも、旅館は続けなければならない。頑張っている。働くことが生きがいである従業員の方たちと、当館のお風呂に入って元気になってくれる方たちがいるからだ。

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