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Vol.184 ワクチン接種に殺到する中国人、日本ツアーも -上海で見た医療現場はIT化で世界最先端-

医療ガバナンス学会 (2019年10月30日 06:00)


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この原稿はJBPRESS(10月24日配信)からの転載です。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57988?page=7

谷本 哲也

2019年10月30日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

http://expres.umin.jp/mric/mric_2019_185-1.pdf

◆希望者殺到の子宮頸がんワクチン

「地域住民の8割以上が子宮頸がん予防のためのHPVワクチン接種を希望しています。ワクチンの供給がとても追いつかず、待機者リストがこんなにたくさんたまっています」
こう話して何枚もの名簿の束を見せてくれたのは、上海市松江区の疾病予防管理センター(CDC)の担当者である陸紅梅医師だ。
日本では副反応による健康障害を懸念した厚生労働省が、2013年6月から接種を勧めない方針をとり続けているため、HPVワクチン接種率は極度に低迷している。
これとは正反対の状況にある上海の実情に、内科医の私は非常な驚きを持って話に聴き入った。

中国を代表する大学の一つ、復旦大学の公衆衛生学院と10年来共同研究を行っている関係で、私は2019年9月に上海市松江区(ショウコウク)CDCを訪問した。
なお、この交流が長年続いているのは、日本語が堪能で今は上海在住の梁荣戎さんの尽力が大きい。
松江区は、上海市中心部の観光名所の外灘(ワイタン)から、高速道路を使って車で1時間ほど南西部へ行った距離にある。
その昔、明朝・清朝時代には松江府として、15大都市の一つに数えられ繁栄していた歴史ある地域で、「上海の根」とも呼ばれている。
2018年6月には、巨大な観光名所として広富林文化遺址公園が開園され、数千年に及ぶ文化・歴史の変遷を、最新の展示設備で概観できるようにもなった。
旧石器時代にも遡る広富林遺跡は長江のデルタ地帯、太湖周辺に位置しており、近隣の良渚文化、馬橋文化とも関係している。
約3000年前に日本へ渡来した稲作文化の起源である可能性も指摘され、東アジア最古とされる結核感染の痕跡が約5000年前の人骨から同定されている。
日本最古の結核は約2000年前の鳥取市の青谷上地遺跡であり、感染症の歴史的な拡散ルートを考察するうえでも非常に興味深い。

そのような広富林の施設を見て、四半世紀ほど前に上海近郊の無錫(ウーシー)を訪問した際にも、コンセプト的には類似した観光施設に行ったことを思い出した。
しかし、今回の遺址公園のあまりの充実ぶりを見てしまうと、高校生の文化祭の出来損ないのような昔の無錫の施設が短期間で失われてしまったであろうことにノスタルジーを感じるほどだった。
松江区はやや内陸部にあり、かつては港湾のある上海市中心部の近現代の発展からは取り残された田園地帯だった。
しかし、21世紀に入り急速に開発が進んで人口が増加し、今では175万人が居住する一大都市へと成長している。

一気呵成にまとめて開発された地区であることは、林立する新しい高層マンションや低層住宅が一区画ごとに同じデザインで揃えられ、余分な手間を省いて効率化し建設されていることからも伺える。
この地区は、軽工業やハイテク産業、大学など教育機関を数多く誘致している。それでも開発途中の空き地が目立ち、街路の幅も潤沢にとってあるため、上海市中心部と比べると空間的な余裕が随分感じられる。
住民は主に車で通勤するようで、朝のラッシュ時の幹線道路は渋滞するが、バイクや自転車はまばらなくらいだ。
大気汚染が問題となった上海では、バイクはすべて電動化されて排気ガスの影響が低減されている。ただし、音もなく近づいてくるため、不慣れな旅行者が歩くときは道路横断時に格別の注意が必要だ。
区の中心部には、巨大なショッピングモールや数多くの飲食店が立ち並ぶ幅の広い歩行者天国が整備されている。夜遅くに歩いてみても、小さな子供連れも含め多くの人で賑わっていた。
治安も良く、ホームレスも見かけない。モールのスーパーマーケットを覗いてみると、その巨大さと物量に圧倒された。
野球場くらいある広々としたワンフロアに日用雑貨から飲食物まで山積みにされ、品物であふれ返っている。日本では見かけないが米国でよくあるような、数リットル入りのペットボトルやビールもドカンと並べられている。
以前、上海市内の巨大な科学博物館を訪問した時にも思ったが、中国のやり方は上野の国立科学博物館よりも、ワシントンのスミソニアン博物館の方によく似ている。

気前よく大振りに何でも作ってしまうのは、中国や米国の大陸文化の気質として共通しているのかもしれない。あるいは、留学帰りのエリートたちによる米国へのライバル意識が、国のあり方の随所に見え隠れするのだろうか。
さて、私のテーマは、このような近代的で豊かになった中国都市住民の健康対策はどうなっているのか、というものである。
今回の訪問では、復旦大学の姜慶五教授、趙根明教授、松江区CDCの姜永根医師らと合同会議を行い、お互いの実情や今後の共同研究について協議を行った。
さらに、現地の医療提供体制の実情を知るということで、松江区に15ほどある施設の1つ、中山街道コミュニティー健康サービスセンターを実際に視察する機会まで得た。

そこで目にしたのが、病院の一角を占める、ワクチン接種だけに特化した予防接種センターである。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2019_185-2.pdf

合同会議参加者での集合写真

中国と一口に言っても、膨大な人口と広大な地域を抱えているのはご承知の通りだ。英国医学誌ランセットで発表された分析によると、途上国から先進国レベルまで、医療水準は中国国内でも5段階に分類されるという。
日本のように国民皆保険で全国津々浦々がカバーされ、地域差があったとしても、ある程度一定水準の医療が期待できる国とは全く違うと考えた方がいい。
「中国の医療はこうである」と単純化すると大きな誤解を生む。今回見学した松江区はモデル地区にも指定されており、先進国レベルの最高水準の医療が提供されているようだった。

実際、見学した予防接種センターは、日本でもなかなか見かけないほど先進的な設備が整えられていた。
火曜日から土曜日まで、小児を中心に連日100~200人程度のワクチン接種のための受診があるという。
そのため、広々としたラウンジは子供が過ごしやすいようにディズニーのキャラクターで壁が飾られ、医療機関というよりは子供のプレイルームのような内装になっている。
一部屋はワクチンの貯蔵庫として割り当てられ、多種多量のワクチンが冷蔵管理されている。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2019_185-3.pdf

予防接種センターの一室

接種後にはアレルギーなど副反応が生じる可能性があり、問題がないかしばらく観察する必要があるが、これも滑り台などを配置した別のプレイルームが用意されていた。
入室から受付、問診から接種、観察から退室まで、一連の手順が一筆書きの動線で進む作りであり、効率化を考えた合理的な設計となっている。
インフルエンザワクチンなどを受けにいった方ならご存知だろうが、日本では風邪などの一般の患者に混じって、その診察の合間にワクチン接種を行うスタイルをとっている医療機関がほとんどだ。
数多く存在する医療機関のどこでもワクチン接種することができる利便性がある半面、一施設当たりのワクチンの取り扱いは少なくなり、予防接種センターとして集約しているところは極めて稀だ。
そのため、ワクチンの納入や在庫管理の無駄が生じやすく、ワクチンにスタッフが不慣れな場合、誤接種のリスクも存在する。

無論、日本の大都市でも予防接種センターを開設し集約化を進めることは理論上可能だが、開業医の重要な収入源の一つになっているため、医師会の反対といった政治的な問題で実現はかなり困難だろう。
もう一つ注目したのが、現代中国の生活必需品となったスマートフォンの利用状況だ。
ワクチン接種の日程は専用アプリで予約することもでき、母子手帳は個別の識別IDが付与されたバーコードによって管理されている。
日本と同じく手書き・スタンプの母子手帳は併用するものの、接種したワクチンの種類や個別のロット、流通や冷所保存の状況、接種日や診察医師などの数多くの医療情報をバーコードで一元的に紐づけ、クラウド上に電子情報として記録され、CDCが把握する。

2018年末より導入されたばかりの最新の仕組みで、スマートフォンでの予約は1、2割の段階だという。
上海市内であれば医療機関が変わってもクラウド上の電子情報が入手可能であり、医療機関や行政側だけでなく、市民側が医療情報をスマートフォン上でパーソナル・ヘルス・レコード(PHR)として管理できるようにもなっている。
日本でもエムティーアイ(MTI)が提供する「母子モ」のような母子手帳アプリがすでに開発されており、冊子の母子手帳に併用するツールとして一部の自治体は取り入れ始めている。
しかし、接種状況の管理として、行政がクラウド上でアプリの情報を収集し保管するような仕組みには至っておらず、基本的に紙ベースの運用だ。
なぜなら、電子情報の利活用には個人情報保護や既存の行政システムの慣習といった壁があり、日本では電子化が進めにくい現状にあるからだ。
もちろん、医療情報をクラウド化してどこまで管理社会、監視社会のために提供するかは議論が必要になるが、公衆衛生的な要素が強いワクチンに関しては、行政へ接種状況を電子医療情報として提供し管理することは、一定の意義が認められるかもしれない。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2019_185-4.pdf

健康情報用のスマホアプリ

昭和の時代はワクチンの数も少なく牧歌的だったが、平成から令和の時代となり、現代は数多くの疾患に対してワクチンが実用化されている。
乳幼児はもちろんのこと、成人や高齢者でもワクチン接種が勧められる時代になってきた。
上海市で利用可能なワクチンのリストの一覧を見ると、公費でカバーされるワクチンは、小児ではBCG、A型B型肝炎、ポリオ、ジフテリア、百日咳、破傷風、髄膜炎菌、日本脳炎、麻しん、風しん、おたふくかぜ、成人では肺炎球菌と並び、日本と比べてもそれほど遜色ないラインナップが並んでいる。

驚いたのは任意の自費ワクチンにおいて、多種類を一つにまとめた混合ワクチン、さらにE型肝炎や手足口病など世界的にも他国では普及していないワクチンまであったことだ。
冒頭に記したように、日本で承認済みのHPVワクチン(対応するワクチンの種類により2価と4価の2種類がある)は、厚生労働省は積極的には勧めていないものの定期接種のままとなっており、現状でも年齢の条件が合う女子中高生であれば無料で受けることができる。
しかし、HPVワクチンは欧米のワクチンメーカーが独占的に販売しており、日本でも中国でも海外から輸入しなければならず、自費で接種するにはかなり高額なワクチンだ。
中国でのHPVワクチンは、2016年に2価、2017年に4価が承認された。まだ公的保険ではカバーされておらず、自費で費用負担して接種する必要がある。

最新の9種類のウイルスのタイプ(9価)に対応しているHPVワクチンの場合は、日本(未承認で一部の医療機関で輸入)でも中国(2018年に承認)でもほぼ同じ価格で、1回の接種で数万円、必要とされる3回の接種を受けると10万円近くの費用がかかり、日本よりも物価が安い上海の経済感覚で言えば、ちょっと躊躇する金額だろう。
しかし、地域住民の健康リテラシーは非常に高く、HPVワクチンは松江区だけで数万回分、上海市全体では40万回分以上の接種数がすでに実施されている。
それでもあまりの人気で深刻な供給不足となっており、入荷待ちの行列が付いている状況にあるのは前述したとおりだ。上海市では需要の30分の1しか供給がないとか、一部の自治体ではくじ引きで接種者を決めているという報道もされていた。
中国では、2018年に深刻なワクチンの品質問題が顕在化し、国内のワクチンへの信頼性が失墜した状況にある。
このこともあって一部の富裕層は、香港やマカオ、あるいは日本に渡航した際に、わざわざワクチンを接種するために医療機関を受診することが珍しくない。
また、香港では偽物のHPVワクチンが見つかり逮捕者が出たこともあった。このような状況にあるため、むしろHPVワクチンが余っている日本で接種を受ける中国人が最近非常に増えている。

実際、私も勤務しているナビタスクリニックでは、日本ではまだ承認されていない9価のHPVワクチンを輸入して提供しているが、日本人よりも中国人の接種者が多数を占めている状況にあり、年々中国人の接種者が増加する傾向にある。
中国の一般大衆レベルでは、まだ自国の医療に対する不信感があり、日本が提供する医療ブランドの方が今のところはまだ信頼されている状況だ。
しかし、今回の予防接種センターで見たように、中国の一部の医療レベルは日本を凌駕しかねないケースが出てきた。
おりしも、映画「千と千尋の神隠し」や「万引き家族」の中国版ポスターをデザインした黄海氏が日本でも話題になったり、異星人とのコンタクトを描いた中国人SF作家の劉慈欣氏による「三体」の翻訳版がベストセラーに入ったりと、中国のソフトパワーを実感するエピソードが最近では増えてきている。

同じように一部の医療分野でも、中国の進んだ医療を日本が学ぶ段階に足を踏み入れつつある可能性については認識しておくべきだろう。
医療提供者の立場で言えば、ナショナリズムをむやみに発揮する必要は別にない。
中華料理店で会食した後に歩いた夜の広富林文化遺址公園は真っ暗だったが、その分よく見える星を眺めながらそんなことを考えていた。
患者のためになるのであれば、国境を越えた医療提供を考えるのも、グローバル化した21世紀にはますます重要になるだろう。
帰りの虹橋空港からの待ち時間には、100元弱で売られていた「三体」の中国語版トリロジーセットを売店で買い込み、羽田への帰路へついた2泊3日の旅だった。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2019_185-5.pdf

広大な広富林文化遺址公園

(利益相反の開示:エムネスからの報酬あり。特定の製薬会社からの個人的収入はありません)

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