医療ガバナンス学会 (2019年11月12日 06:00)
この原稿はJB press(10月7日)からの転載です。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57842?fbclid=IwAR3YTR4oJkzYUBEkgNFxcW1rXtFyMTvKunYZA28NhrTIv2UBo5gAE5tVzPM
看護師、保健師、看護学修士、医療ガバナンス研究所研究員
樋口 朝霞
2019年11月12日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
従来、病院や薬局が保管してきた個人の医療データを患者自らが管理しようという試みが始まっている。
「Personal Health Record(PHR)」と呼ばれ、米国がリードしているる。
米国のVA(退役軍人省: Department of Veterans Affairs) は、退役軍人に対し「My HealtheVet」というPHRサービスを提供している。
血圧、体重、心拍数はもちろん、過去の家族歴、軍歴、検査結果、処方歴、アレルギー情報、さらに受診予約状況がオンラインで閲覧できる。
米国では、2009年にHITECH法(The health information technology for Economic and Clinical Health)を制定し、患者が自らの医療記録にアクセスできるようにする体制整備を進めている。
サービス提供を民間に任せることで市場活性化を目指すことも背景にある。
その際のポイントは、病院のカルテとPHRの連携だ。
病院のカルテには患者の病気に対する詳細な情報が保管されている。近年は、その病院のカルテをクラウド上に管理される仕組みを「Electronic Health Record(EHR)」と呼んでいる。
その気になれば、患者がEHRにアクセスできるようにするのは容易だ。
一方、日本はこの分野で遅れている。そもそも電子カルテの普及率が上がらない。2017年の厚生労働省の医療施設調査によると、病院で46.7%、診療所で41.6%の普及率だ。
http://expres.umin.jp/mric/mric_2019_191-1.pdf
中国の遠隔診断システム
隣国の中国はどうなっているだろうか。今や米国と並ぶ世界のIT大国だ。
最近、上海市松江区の病院である中山街道コミュニティー健康サービス・センターを見学する機会を得た。
この病院ではワクチン接種部門が独立して存在する。日常診療の合間にワクチンを接種する日本とは対照的だ。
ここでは、乳幼児の予防接種、若い女性へのヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチン接種、60歳以上を対象とした肺炎球菌ワクチン接種が行われている。
1日あ当たりの接種者は合計すると16~33人だ。
この施設では接種管理にPHRアプリを活用している。接種希望者はスマートフォンのアプリで予約ができる。
ワクチン接種履歴や既往歴はもちろん、接種時にワクチンのロット番号を示すバーコードが読み込まれ、デジタルデータとして保管される。
http://expres.umin.jp/mric/mric_2019_191-2.pdf
ワクチンの予約を取るスマートフォンのアプリ
さらに、この病院では2年前から電子カルテとの連携も始まっている。
このような新規技術は現場で使ってみて初めて価値が分かるものだ。
驚いたのは、上海の松江区の中で、遠隔診断のツールとして利用されていることだ。
例えば、病院でレントゲンやCT画像を撮りクラウドに共有すると、松江区の診断センターの放射線の専門医が、15分以内に診断して、関係者が結果を共有できるようになっている。
病理検査も同様の仕組みが立ち上がっている。担当者の話では松江区の20以上の病院がこのシステムを使っているという。
患者を介して、異なる医療機関が連携したことになる。私は上海のポテンシャルの高さを感じた。
日本のように役所や業界団体が事前規制を課して、試行錯誤を妨げるのではなく、とりあえずやってみる。
圧倒的な症例数が存在するため、システムの作り込みは速い。やがて、ビッグデータを活用してAI診断を開発するだろう。中国の独壇場になる可能性も否定できない。
ただし、その最先端のシステムにも課題があるようだ。高齢者対策である。抱えている問題は日本と同じだ。
CNNIC(China Internet Network Information Center)によると、2017年6月末時点でのインターネット利用者数は7億5100万人、全人口に対して普及率は53.2%となっている。ところが、50歳以上の普及率は5.8%、60歳以上は4.8%と低い。
さらに、画像遠隔診断以外での電子カルテの共有は進んでいない。
担当者に「他の病院受診の際に、ここでのカルテ情報は閲覧できるのか」と質問すると、「できるけれど・・・」と口篭ってしまった。システム上可能ではあるが、実際にはまだ運用はしていないようだ。
http://expres.umin.jp/mric/mric_2019_191-3.pdf
上海松江区の病院にあるワクチンの在庫
この状況は日本と同じだ。カルテ情報の共有はなかなか進まない。なぜだろうか。
私は、医療機関は「情報公開」に対する恐怖を感じていると考えている。
私が働いていた病院で患者が亡くなった時のことを思い出した。医療スタッフから見れば、この病棟ではよくある「亡くなり方」だった。
他の患者と同様に皆全力を尽くした。
ところが、遺族から最後の数日間の心電図をすべて見せてほしいという依頼があった。患者の治療にミスや見逃しがなかったのか調べたいと思ってのことだったと聞いている。
これによって看護師長は他のすべての業務を一切行わないで数日間、心電図の確認を行っていた。
血相を変えた師長の表情から、訴訟を恐れる病院幹部の指示であることが伺えた。
心電図の電源を消してはデータが消えてしまう可能性があるため、波形がフラットのままナースステーションに置かれている心電図が異様で、鳥肌が立ったことを覚えている。
実際、診療情報公開が行われることで、医療訴訟が増加するかは不明だ。
2003年5月に厚生労働省の検討会は、患者がカルテの開示を求めた場合、医療機関は原則として応じなければならないことなどを定めたガイドラインを公表している。この頃から患者や家族から求められればカルテ開示ができるようになった。
しかし、実際には上記のようなケースは稀で、カルテ開示を求められることは少ない。患者や家族が多くが医療スタッフを信頼しているからだ。
だからこそ、病院は訴訟に対して防御的でなく、カルテ開示を求められると、前述のように大慌てする。
一方で、中国では医師への信頼が低い。日本の医療機関を受診する中国人の多くが、「中国の医者を信用していない」と言う。
習近平国家主席が登場するまで、警官・教師とならび、医師は「賄賂」を要求することで有名だった。不満が爆発することもあった。
2009年に福建省で、腎結石の手術を受けた患者の容体が急変して死亡した際、遺族が賠償を要求した。
病院が拒否すると、親族を引き連れて乗り込んで医師を軟禁した。
2013年に浙江省では、30歳代の男性が手術の結果に不満を持ち、医師1人を刺殺、別の医師2人もナイフで刺し、怪我を負わせた。
患者が医者に危害を加えるトラブルは中国で「傷医」と呼ばれている。
日本で「傷医」が起こったこともある。兵庫県立がんセンターで2018年、中国人の女性患者が男性医師を刃物で刺した。
この状況では、中国人医師が患者を信頼しないのもやむを得ない。レントゲンやCT画像のような「検査結果」は共有できても、医師の「判断」が記載されているカルテの共有に二の足を踏むのも理解できる。
解釈には「責任」を伴い、一歩間違えば「傷医」となるからだ。
この状況の改善には時間がかかる。結局、中国でも日本と同様に医療情報の共有が進んでいない。
本来、医療は医療関係者と患者が一緒になって作っていくものだ。両者が信頼関係を構築するうえで情報共有は必須だ。
その際、クラウドによる電子カルテは有用なツールだ。このツールをいかに使いこなすか、日中両国において必要なのは社会の成熟である。