医療ガバナンス学会 (2010年4月11日 07:00)
【過去に行われた「保険医総辞退」】
しかし、この「保険医総辞退」という伝家の宝刀が使われた事が過去に二度ある。一度目は伝家の宝刀をちらつかせただけ、二度目は実際に抜いている。
昭和36年、日本医師会の武見会長の元、国民皆保険制度の改革を要望して保険医総辞退をちらつかせて「制限診療」の撤廃を勝ち取った。10年後の昭和46年、医師会は再度、抜本的な医療制度改革を要求して、1ヶ月にわたる保険医総辞退を行った。(事態収拾を図った政府との約束はその後反故にされたが)
ただ、これは日本医師会が武見会長という強力なリーダーシップの元、まだ力を保持していた時代の話ではある。その後、今日に至るまで医師会と政府の交渉にあたって「保険医総辞退」という伝家の宝刀が使われた事はない。
【「保険医総辞退」の理論的実現可能性】
保険医総辞退が実際に行われた事は、当時を知らない者にとっては驚きであるが、その実現可能性について検証してみた。
医療保険制度の下では、保険医でなくなる事は多くの医師にとっては死活問題となるはずであり、保険が使えなくなれば患者も困るはずであるが、過去に行われた「保険医総辞退」ではさして混乱もなかったと聞いている。これには被保険者である患者を保護する法律が関係している。
【やむを得ない事情による「療養費」の支給】
国民健康保険法第54条 「療養費」 の項目に以下の記述がある。
『・・・・被保険者が保険医療機関等及び特定承認保険医療機関以外の病院、診療所若しくは薬局その他の者について診療、薬剤の支給若しくは手当を受けた場合において、保険者がやむを得ないと認めるときは、療養の給付に代えて、療養費を支給することができる。・・・・』
すなわち、全ての医療機関が保険医を辞退すれば、被保険者である患者は、やむを得ず非保険医療機関を受診せざるを得ない訳で、保険者としてはこれを認めざるを得ない。
患者は非保険医療機関を受診した際、一旦医療費を全額支払わなければならないが、後日、負担割合に応じた窓口負担分を除く分が療養費として支給される仕組みである。
【実際の療養費の支給】
では実際の療養費はどうやって支給されるのか。
被保険者は一旦窓口で医療費の全額を支払い、療養費支給申請書に添付書類をつけて保険者に提出すると、後日、世帯主の銀行口座に負担割合に応じた自己負担額を除く分が振り込まれる。すなわち、自己負担割合が3割であれば7割分が振り込まれる事になる。
しかし、これでは後で戻ってくるとはいえ、窓口で掛かった医療費の全額を支払うというのは、患者側からみるとかなりの負担であり、受診抑制に繋がる恐れがある。
【療養費の代理人請求】
ところが、この療養費支給申請は代理人が請求できるのである。代理人が請求できるということは、保険医辞退した医療機関が代理人となれば、医療機関は患者から自己負担分を窓口で頂き、後日、代理人である医療機関に自己負担分を除く分の療養費が振り込まれるという事である。
これはすなわち保険医が診療報酬を保険者に請求する時と同じ事であり、患者にとっても不利益がなく、医療機関にとっても手続きの変更があるとはいえ、不利益を被る訳ではない。
【「保険医総辞退」を切り札にできる必要十分条件】
以上のように、理論的には皆が足並みを揃えて保険医を辞退すれば怖くないし、被保険者である患者に迷惑が掛かる事もない。
しかし、一部の医療機関が保険医を辞退せずにいると、被保険者にとっては国民健康保険法第54条で言うところの「やむを得ない理由」とはならない可能性がある。全ての保険医が行動を共にする「総辞退」でなければ意味がない。
また、「保険医総辞退」は両刃の剣という側面を持つ。政府との交渉において絶大な効果を発揮するはずであるが、やり方によっては国民から総スカンを食らう可能性がある。なぜ保険医総辞退をしてまで政府と対峙し要求しなくてはならないのかを国民に丁寧に説明し、世論を味方につけなければ、逆に国民は離れていくだろう。
その点では、開業医と勤務医が分断され、医師会も力も失い、医師個人の思いも多様化している現状では、伝家の宝刀は抜きにくいといえる。
開業医、勤務医を問わず全ての医師が医療改革の思いを共有し、強力なリーダーシップの元、国民への情報開示と世論形成をして国民に理解を求めなければ、「保険医総辞退」は医師のエゴで終わる。
ただ、我々にはいざとなったら「保険医総辞退」という最後の切り札(伝家の宝刀)があるという事を医師一人一人が認識する事が大切であると考える。その事が、医師の医療改革の活動に勇気を与え、医師会あるいは医師の総意を汲む団体と政府との交渉にあたって、強気の交渉ができる原動力となり得るからだ。