医療ガバナンス学会 (2019年12月4日 06:00)
筑波記念病院 副院長・心臓血管外科部長・睡眠呼吸センター長
末松義弘
2019年12月4日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
2017年、NHKスペシャルで取り上げられたのをきっかけとなり、「睡眠負債(睡眠時間が足りないごとに蓄積していく、睡眠時間の借金)」という言葉が、ユーキャン新語・流行語大賞トップ10に選ばれ話題になりました。「がん」「糖尿病」「心臓病」「認知症」など、数々の重大疾病と強い関連があることが分かってきた睡眠不足。多忙やストレスなどで“極端に”睡眠が足りない人の話だと思ったら大間違いです。普段6-7時間の睡眠を取り「十分眠っている」と思っている人でも、実はわずかに足りておらず、その蓄積によって命に関わる病のリスクを高めたり、日々の活動のパフォーマンスを劣化させたりしていることが明らかになってきたのです。今、世界の研究者たちは、この「わずかな睡眠不足が積みあがっていく現象」を「睡眠負債」と名付け、その解消こそ健康長寿に欠かせないと指摘しています。
2015年の厚生労働省「国民健康・栄養調査」によれば、1日の平均睡眠時間が6時間未満の日本人の割合は20歳以上に限ると39.5%。つまり、成人の約4割もの人が、睡眠が足りていないと考えられます。睡眠負債は、仕事の生産性をも下げることがわかっています。ランド研究所・ヨーロッパが、2016年レポートのなかで、睡眠時間が6時間未満の人が7時間の睡眠をとった場合、年間でどの程度の経済的な社会損失が改善されるかを推計しています。
それによると、日本を含む5カ国をGDP比で考えた場合、日本はトップでGDPの2.92%(2018年1月の為替レートで、ほぼ15兆1800億円)が改善されるという結果となりました。つまり、日本は現在、睡眠負債によって、約15兆円の経済損失を出しているのです。アメリカでは、自動車の交通事故と睡眠の関係が研究されています。交通安全を推進するアメリカの非営利団体(AAA Foundation for Traffic Safety)の2016年の報告によれば、過去24時間で7時間以上の睡眠をとっていたドライバーの事故確率を1とすると、6時間~6時間59分の睡眠時間で1.3倍、4時間未満の睡眠時間では11.5倍にまでなると推定されています。また、それが原因でスリーマイル島原子力発電所の事故、スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故、チェルノブイリ原子力発電所のメルトダウンなどの人為的大災害は睡眠不足が深刻な事故に結びついたと言われています。
同じ年、「睡眠負債」と別に、「血圧サージ」という言葉がNHKスペシャルで取り上げられました。血圧が高い状態が続く「高血圧」の患者数は、日本人のおよそ1割といわれています。ところが最近、健康診断では「血圧が正常」とされる人の中に、あるタイミングだけ、まるで高波のような血圧の急上昇(サージ)を起こしている人がいることがわかってきました。日常的にサージが起きると、慢性的に血圧が高い、いわゆる「高血圧」だけの人より臓器や血管の老化が進み、脳卒中などのリスクが高くなる可能性も判明したのです。最新の調査からは、サージのリスクを抱える人は1000万人以上に及ぶとも推計されています。いま世界の研究者は、この「短時間だけ血圧が上昇する現象」を「血圧サージ」と名付け注目しています。
この「睡眠負債」と「血圧サージ」は、直接因果関係はないように思えますが、これこそ「睡眠時無呼吸症候群」が引き起こす代表的な病態なのです。睡眠時無呼吸症候群の患者さんでは、夜間に繰り返し起こる無呼吸により、身体が低酸素状態となります。息が苦しくなって夜中に何度も目が覚めてしまうことにより、質の良い睡眠が妨げられ、脳や身体の疲労が完全に回復できなくなり、日中の眠気を増加させます。このため睡眠時間だけでなく睡眠の質による「睡眠負債」を引き起こします。
「睡眠負債」の怖さは先ほど述べた通りで、経済的損失だけでなく、交通事故などを引き起こし他人の命をも脅かしてしまうのです。一方で、夜間は本来副交感神経系が優位になって血圧は日中よりも低くなるのが普通ですが、睡眠時無呼吸の発作を繰り返すと交感神経系が優位となり血圧は上昇し、発作時には低酸素症もあいまって、血圧の急上昇・急降下が起き血管が傷付けられ、脳卒中や心筋梗塞の引き金になる可能性が高まります。重症の睡眠時無呼吸症候群の患者さんでは、生命予後の悪いことが指摘されていますが、その大きな原因となっているのが睡眠時無呼吸症候群にもたらされる血圧サージによる心臓血管疾患を代表とする循環器疾患であると言われています。「睡眠負債」と「血圧サージ」は互いにオーバーラップしていることも多く、明確に線引きすることは出来ませんが、これらを引き起こす睡眠時無呼吸症候群はとても深刻な病気と言えるのです。
私は1994年に医学部を卒業してから、心臓外科医としてすでに四半世紀働いております。その中で睡眠時無呼吸症候群という言葉はよく知っておりましたが、正直なところ実際にどのように関連しているのかはよく分っていませんでした。
心臓外科に関する教科書や専門書には手術方法は書いてありますが、睡眠時無呼吸症候群というキーワードが載っていることは皆無です。しかし、心臓外科の診療をしている中で、「大動脈という太い血管が裂けてしまう急性大動脈解離という病気に対する緊急手術」や、「心房細動という不整脈で脳梗塞を起こしてしまった患者さんに対する外科治療」などを日常的に行っていると、「何故この患者さんたちはそのような病気になってしまうのか?」という本質に対する疑問が湧き上がってきます。
さらには、心臓の手術がうまくいったのにかかわらず、心不全を繰り返し起こして度々再入院するような患者さんをみるにつけ、他の患者さんと何が違うのか?と疑問に思っていました。その答えのひとつがまさに睡眠時無呼吸症候群なのです。数年前からそのことに気づき、そして、そのような患者さん達のほとんどが睡眠時無呼吸症候群を合併しているという結果を目の当たりにして茫然自失とすると同時に、ところどころ抜け落ちた難解なパズルにピースがすべてはまっていくような不思議な感覚を覚えました。未だに循環器疾患、そして心臓血管外科疾患での睡眠時無呼吸症候群に対する認識は発展途上にあります。
一部の循環器にかかわる医師同じ心臓外科医から「なんで外科医が睡眠を扱ってるの?」「そんなの関連性あるわけないじゃない?」なんて事をよく言われますし、私の研究や成果が注目されてきたのもつい最近のことです。しかしながら、私はいつもこう言います。「心臓外科医としての経験が私に睡眠時無呼吸症候群の存在を気づかせてくれた」のです。つまり、心臓や大動脈の外科手術が必要なほど病気が進行してしまった方は、ある意味で睡眠時無呼吸症候群の選りすぐりの最重症の可能性があるのです。免疫の力も落ちてがんだけではなく、細菌感染に対する抵抗力も落ちてしまい、感染性心内膜炎という心臓の感染症にもなってしまいます。「えっ、この心臓病もあの心臓病も全部睡眠時の無呼吸が悪さしてるの?」と驚くくらいに睡眠時無呼吸が心臓血管疾患に影響しているのです。
医療には疾患の予防に視点をおいた「アップストリーム(上流)治療」と疾病制御に視点をおいた「ダウンストリーム(下流)治療」というものがあります。多くの外科治療というのはまさしく「ダウンストリーム治療」になる訳ですが、その後の患者さんの予後を考慮した場合、疾患の本質を治療もしくは予防しなければいけない「アップストリーム治療」が必要であることは言うまでもありません。
例えば、肺がんになってしまった喫煙者の患者さんに「禁煙指導」するのは当たり前のことです。中には禁煙出来ない患者さんの手術を拒否する病院だってあります。心臓や大血管の疾患も同じなのです。私の専門領域である循環器疾患の中でどれほど睡眠時無呼吸症候群が怖い病気であり、治療していかなければならないかを患者さん方や一般の方に啓蒙することがとても重要なのです。2010年に日本循環器学会からの「循環器領域における睡眠呼吸障害の診断・治療に関するガイドライン」が示され、循環器睡眠呼吸障害という枠組みでの診断、治療指針が出されていますが、その認知度はとても低いのが現状です。私はこの分野を「心臓血管外科SDB(睡眠呼吸障害)」と名付け啓蒙活動を続けております。このため一般の患者さんだけでなく、他の心臓外科医だけでなく、一般内科の勤務医や開業されておられる先生かたにもこの疾患に対する治療の重要性を理解していただきたいと思っています。
先日、「その睡眠が寿命を縮める」(幻冬舎)より私の著書が出版されました。一般の方への認知度を高めるために書きましたが、是非一般の先生方にも読んでいただき日々の臨床の参考にしていただければ幸いです。
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