医療ガバナンス学会 (2020年1月29日 06:00)
この原稿はJapan In-depth(1月20日)からの転載です。
https://japan-indepth.jp/?p=49925
東京大学
田原大嗣
2020年1月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
http://expres.umin.jp/mric/mric_2020_017-1.pdf
▲写真 切妻屋根、海鼠壁の建物 出典:著者提供
そして、相馬市が傑出しているのは、こうした確たる伝統、「芯」を持ちながら、外部の文化や人材を広く受け入れ、交流する柔軟さを併せ持っていることにある。それもまた、北は仙台藩、南は幕府という強大な勢力に挟まれた歴史が産んだバランス感覚であろう。
江戸時代中期、天明の飢饉において相馬藩は人口が9万人から3万6000人にまで減少する大打撃を受けた。藩の復活の為推進されたのが、二宮尊徳による「報徳仕法」である。尊徳の一番弟子、富田高慶により全国でもいち早く導入された仕法により、相馬藩の財政・人口は回復した。戊辰戦争においても、一度は奥羽越列藩同盟に参加しながら早期に和平の道を選び、大きな打撃を未然に防いだ。横山課長が「会津の人に会った時、相馬から来たことを伝えたら『裏切り者』と言われてしまったよ」と冗談交じりにおっしゃっていたが、中規模藩ながらも伝統を保持し続けた相馬藩の優れた感覚は、歴史が物語っている。
http://expres.umin.jp/mric/mric_2020_017-2.pdf
▲写真 相馬中村神社、「野馬追」の像 出典:著者提供
東日本大震災からの復興においても、その柔軟さは生かされた。原発事故の折避難してきた双葉地区の住民を、相馬市は多数受け入れた。立谷市長の指示により、被災地の中でもいち早く仮設住宅を建設し、復興の拠点になったという。
また、印象的だったのが、震災を受け建設された相馬市防災備蓄倉庫、通称『兵糧蔵』である。中に入ると、壁には震災時に支援をしてくれた全国各地の市町村のパネルが敷き詰められていた。これらの町が災害を受けた際も、この蔵から支援物資がいち早く送られている。横山課長が「この蔵は相馬のみならず、日本全国の災害復興のためにある」とおっしゃっていた。他のコミュニティとも積極的に交流をし、「義理と人情」による関係を広げることが、ひいては全国の災害復興を支えることになる。
地域の特色は住民によって作られる。冒頭に述べたように、私は相馬市にて一学生としては余りあるほどの歓待をして頂いた。インターンシップ中も、毎晩のように市役所や中央病院をはじめ相馬市の方々と夕食をご一緒させて頂いた。一人で飛び込んできたよそ者の私をも包摂してくれる柔軟さ、優しさを、相馬市で交流した全ての方々から感じた。
そして、こうした行動の重要性は、学生たる私個人にも実感を持って言えることであった。
私は、小学2年生の頃から東京に住み、現在も東京の大学に通っている。大した主体性もなく、真面目に勉強し、部活としては真面目に剣道を続けていただけの、堅い人間であり、柔軟性を欠いていた。
しかし、インターンシップ中に更新していたFacebookをご覧になった方々より、「表情が柔らかくなった」との声を徐々に頂くようになった。まだまだ途上であるが、相馬市での交流の御蔭で、少しは堅さをほぐしていただけたように思う。
ある時、相馬市の外部監査委員会に所属する市民の方より、懇親会に誘われた。願ってもない機会と即座に快諾すると、「東大の学生だというので堅いイメージを持っていたが、そのイメージが変わった」と言って頂き、こちらとしてもとても嬉しかった。一人で他のコミュニティに飛び込むことは勇気がいることだが、そこから得るものは大きい。
思えば、インターンシップへの参加が決まった時もそのような状況であった。上先生と共に東京での「相馬市復興顧問会議」へ出席し、そこで直接立谷市長と話したことで、インターンシップが正式に決定した。「自分から動けば状況は変わる」とその時に思ったものだが、相馬市での経験の数々がそれを裏付けてくれた。
周囲をふと見回してみると、自分を違った価値観へと連れ出してくれる御縁がある。柔軟さを持つことで、そうした御縁を逃さずに、自らの成長と将来の社会への貢献が可能となる。こうしたことを、相馬市でのインターンシップにて学ばせて頂いた。
インターンシップの最終日、立谷市長とお話させて頂いた。将来は国家公務員を志望していることを述べると、「法律に縛られるのではなく、作る立場であることを意識して頑張りなさい」とのお言葉を頂いた。そのお言葉を忘れずに、今後とも学びと行動を重ねていきたい。
(その2に続く。全2回)