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Vol.017 「兵糧蔵」とは 福島相馬市リポート その1

医療ガバナンス学会 (2020年1月29日 06:00)


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この原稿はJapan In-depth(1月20日)からの転載です。

https://japan-indepth.jp/?p=49925

東京大学
田原大嗣

2020年1月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

令和元年12月1日、私は福島県相馬市に降り立った。翌日から始まる、相馬市役所と相馬中央病院での1ヶ月間のインターンシップに参加するためだ。かねてよりインターンシップに参加していたNPO法人医療ガバナンス研究所の上昌広先生のご紹介にて、相馬市長の立谷秀清先生より行政・医療の現場にて活動する機会を頂いた。
相馬駅に着くと、相馬市役所の横山英彦秘書課長が迎えに来て下さり、まず宿舎をご案内された。宿舎を用意して頂けるだけでも有難いのだが、なんと暖房完備、Wi-fi完備。普段住んでいる東京の下宿以上の環境であった。さらには、相馬中央病院の佐藤美希総務課長が、通勤用にと自転車をお貸しして下さった。
このような「至れり尽くせり」の状況で始まったインターンシップで、当初私は「ここまで良くしていただいているのだから、相馬市にできる限りの貢献をしていこう」と、過分に殊勝なことを考えていた。しかし、様々な体験をさせていただく中で、自分が学生としてすべきことは、与えられた機会を最大限に吸収することにあると考えるようになった。
その考えが最初に生まれたのはインターンシップ1日目、市役所のすぐそばにある相馬中村城跡を横山課長と共に見学した時である。かねてより、上先生には「土地の歴史」をよく勉強するように指導を受けてきた。相馬地域は、相馬氏によって鎌倉時代から幕末までの約700年間、全国でも屈指の長期間にわたり同一大名による統治が為された地域ということは学んでいた。しかし、実際に現地を自らの足で歩いてみると、違った感慨がある。例えば、相馬中村城は、北側の堀が他の方位に比べて広い。これは、北の仙台藩、伊達氏に対する防衛手段であったという。石高では敵わない仙台藩に対する長年の駆け引きを、相馬中村城の天守閣跡から感じた。こうした重厚な歴史を、現地を見て人々と交流することで学び取ることが、自分のインターンシップでの大きな課題であると感じた。
相馬の歴史は、そのまま現在の町そして人の在り方に影響を及ぼしている。1ヶ月にわたり、薄く広くではあるが学んだ結果、相馬市は「伝統」と「柔軟さ」が絶妙なバランスで同居している土地であると感じた。
相馬市には、切妻屋根と海鼠壁を持った建物が多い。市役所に始まり、公民館や小学校、漁具倉庫や公営住宅に至るまで、所謂日本の伝統的家屋の外観を呈している。立谷市長の市長就任以来、こうした建築が進められてきたとのことであるが、まさに城下町の伝統を感じる。平将門の時代より1000年以上続く祭りの「相馬野馬追」も然りだが、長年の歴史に裏付けられた誇りを、相馬市の各所より感じた。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2020_017-1.pdf

▲写真 切妻屋根、海鼠壁の建物 出典:著者提供

そして、相馬市が傑出しているのは、こうした確たる伝統、「芯」を持ちながら、外部の文化や人材を広く受け入れ、交流する柔軟さを併せ持っていることにある。それもまた、北は仙台藩、南は幕府という強大な勢力に挟まれた歴史が産んだバランス感覚であろう。
江戸時代中期、天明の飢饉において相馬藩は人口が9万人から3万6000人にまで減少する大打撃を受けた。藩の復活の為推進されたのが、二宮尊徳による「報徳仕法」である。尊徳の一番弟子、富田高慶により全国でもいち早く導入された仕法により、相馬藩の財政・人口は回復した。戊辰戦争においても、一度は奥羽越列藩同盟に参加しながら早期に和平の道を選び、大きな打撃を未然に防いだ。横山課長が「会津の人に会った時、相馬から来たことを伝えたら『裏切り者』と言われてしまったよ」と冗談交じりにおっしゃっていたが、中規模藩ながらも伝統を保持し続けた相馬藩の優れた感覚は、歴史が物語っている。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2020_017-2.pdf

▲写真 相馬中村神社、「野馬追」の像 出典:著者提供

東日本大震災からの復興においても、その柔軟さは生かされた。原発事故の折避難してきた双葉地区の住民を、相馬市は多数受け入れた。立谷市長の指示により、被災地の中でもいち早く仮設住宅を建設し、復興の拠点になったという。
また、印象的だったのが、震災を受け建設された相馬市防災備蓄倉庫、通称『兵糧蔵』である。中に入ると、壁には震災時に支援をしてくれた全国各地の市町村のパネルが敷き詰められていた。これらの町が災害を受けた際も、この蔵から支援物資がいち早く送られている。横山課長が「この蔵は相馬のみならず、日本全国の災害復興のためにある」とおっしゃっていた。他のコミュニティとも積極的に交流をし、「義理と人情」による関係を広げることが、ひいては全国の災害復興を支えることになる。
地域の特色は住民によって作られる。冒頭に述べたように、私は相馬市にて一学生としては余りあるほどの歓待をして頂いた。インターンシップ中も、毎晩のように市役所や中央病院をはじめ相馬市の方々と夕食をご一緒させて頂いた。一人で飛び込んできたよそ者の私をも包摂してくれる柔軟さ、優しさを、相馬市で交流した全ての方々から感じた。
そして、こうした行動の重要性は、学生たる私個人にも実感を持って言えることであった。
私は、小学2年生の頃から東京に住み、現在も東京の大学に通っている。大した主体性もなく、真面目に勉強し、部活としては真面目に剣道を続けていただけの、堅い人間であり、柔軟性を欠いていた。
しかし、インターンシップ中に更新していたFacebookをご覧になった方々より、「表情が柔らかくなった」との声を徐々に頂くようになった。まだまだ途上であるが、相馬市での交流の御蔭で、少しは堅さをほぐしていただけたように思う。
ある時、相馬市の外部監査委員会に所属する市民の方より、懇親会に誘われた。願ってもない機会と即座に快諾すると、「東大の学生だというので堅いイメージを持っていたが、そのイメージが変わった」と言って頂き、こちらとしてもとても嬉しかった。一人で他のコミュニティに飛び込むことは勇気がいることだが、そこから得るものは大きい。
思えば、インターンシップへの参加が決まった時もそのような状況であった。上先生と共に東京での「相馬市復興顧問会議」へ出席し、そこで直接立谷市長と話したことで、インターンシップが正式に決定した。「自分から動けば状況は変わる」とその時に思ったものだが、相馬市での経験の数々がそれを裏付けてくれた。
周囲をふと見回してみると、自分を違った価値観へと連れ出してくれる御縁がある。柔軟さを持つことで、そうした御縁を逃さずに、自らの成長と将来の社会への貢献が可能となる。こうしたことを、相馬市でのインターンシップにて学ばせて頂いた。
インターンシップの最終日、立谷市長とお話させて頂いた。将来は国家公務員を志望していることを述べると、「法律に縛られるのではなく、作る立場であることを意識して頑張りなさい」とのお言葉を頂いた。そのお言葉を忘れずに、今後とも学びと行動を重ねていきたい。
(その2に続く。全2回)

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