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Vol. 146 『ボストン便り』(12回目)「ヘルスケア改革と医療専門職」

医療ガバナンス学会 (2010年4月27日 12:00)


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細田 満和子(ほそだ みわこ)
2010年4月27日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


紹介:ボストンはアメリカ東北部マサチューセッツ州の州都で、建国の地としての伝統を感じさせるとともに、革新的でラディカルな側面を持ち合わせている独特な街です。また、近郊も含めると単科・総合大学が100校くらいあり、世界中から研究者が集まってきています。そんなボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。

【メディケア/メディケイド改革】
歴史的なヘルスケア改革法案が先月(2010年3月)に通過して、オバマ大統領による署名がされたアメリカですが、これまでの「ボストン便り」でも何回か触れたように、従来からも一部の人に対しては公的保険がありました。
それらは65歳以上の高齢者のためのメディケアと、低所得で医療ニーズの高い人達のためのメディケイドです。今回署名されたヘルスケア改革法では、2020年までにこのメディケイドを大幅に拡大して、1600万人以上の無保険者が新たに保険でカバーされることが見込まれています。
ただ、メディケア/メディケイドの現状を見てみますと、ベビーブーマーの高齢化と景気の悪化によって両者共にニーズが高まり、支出が増加しています。今やメディケア?メディケイドはヘルスケア産業の一大購入者となっています。また、メディケア?メディケイドを担当する当局は4,400人もの従事者を抱え、年間で8000億ドル以上の連邦予算が使われています。

メディケア/メディケイドに相当の無駄なお金が使われているという批難は、従来からずっとされてきました。そして当初オバマ大統領が目指していたような公的保険(パブリック?オプション)の拡大は、メディケア/メディケイドのように国家予算の肥大化を誘発するのでとんでもないことになると、公的保険反対論者の攻撃対象になっていました。

そこでヘルスケア改革の一環として、メディケア/メディケイドの改革が急務となっています。例えばメディケアは、今後10年間で質を落とすことなく、5000億ドル削減されることが要請されています。
メディケア/メディケイドという公的保険部門が、対象者を拡大してゆきながら、医療の質を落とさない形で、全体の価格を抑えて、整理されるということが、今後のヘルスケア改革の成功の鍵を握っているといっても過言ではないでしょう。しかし、こんなアクロバット的なことはどのようにしたら可能になるというのでしょうか?
この課題を実現すべく、オバマ大統領は2010年4月19日、メディケア/メディケイドの最高責任者(the chief of the Centers for Medicare and Medicaid Services)としてドナルド・バーウィック氏を正式に任命しました。

【バーウィック氏と医療の質向上研究所】
それではバーウィック氏とはいったい何者でしょうか。彼は、現役の小児科医であり、ボストンにあるInstitute for Healthcare Improvement(IHI:医療の質向上研究所)の出資者にして最高責任者(COE)です。さらにハーバード医学校、そして筆者の所属しているハーバード公衆衛生大学院の教授であり、医療政策や医療管理などを教えています。
IHIというのは、1991年に設立されたNPOです。筆者も昨年見学に行きましたが、ケンブリッジのハーバード・スクエアの一角にある、外見は重厚なレンガ造り、内部は明るくモダンなオフィスでした。受付の対応もよく、突然押しかけていったにもかかわらずとても親切でした。IHIの活動内容を詳しく教えてほしいと言ったら、ソーシャルワーカーの資格を持つという職員が建物を案内してくれ、いろいろ説明してくれました。

IHIの目標は、その名の通り医療の質を向上させるというものです。ちなみに「医療の質向上healthcare improvement」という言葉は、いわゆる「患者安全patient safety」のことを一義的に意味すると言われています。つまり、「医療事故medical error/ malpractice」という問題に直面して、それを削減しようということから出発し、「患者安全」のための概念や方法を整備してゆく中で、「医療の質向上」という概念に洗練されていったと考えられています。

【医療の質向上のためのキャンペーン】
IHIでは、2004年12月に、「10万人の命を救えThe 100,000 Lives Campaign」というキャンペーンを打ち立てました。このキャンペーンは、推計で1年間に1500万件、1日で4万件の医療事故(Medical Injury)がアメリカ国内で起こっている中で、「傷つけることなかれDo No Harm」という基本原理を、全国的に徹底化させてゆこうというものでした。10万人という数字は、1年間に医療事故で亡くなった人の推計からでてきたものです。

このキャンペーンでは6つの行動目標が掲げられました。それらは、以下の通りです。1.チームで迅速に対応すること。2.急性心筋梗塞に対する信頼性のある証拠に基づいたケア提供。3.薬の誤投与防止。4.中心静脈の感染予防。5.周手術期の感染予防。6.人工呼吸器関連の肺炎の防止。すべての病院がこれに真剣に取り組めば、18ヶ月で防げるはずの死(unnecessary death)は10万人になるというのです。キャンペーンは、2005年1月から2006年6月まで実施され、全米で3,100の病院が参加しました。もちろんこれは自主的な取り組みであり、行動目標に掲げられた項目はすべて無償で行われました。
こうした活動の根本にある考え方は、医療事故の原因は個人ではなくシステムの不備であるということ、「人は誰でも間違える To Err is Human」ということでした。医療は高度に複雑なシステムなので、どんなに細心の注意を払っていても、どんなに高い技術を誇っていても、たくさんのほころびが必然的に生じてきます。しかし、どのほころびも自分たちのシステムの一部なのだから、思いがけずに起こってしまった有害事象(medical harm)の事例を知ることで改善してゆこうというのです。
残念ながらこのキャンペーンがどのくらい効果を上げたかという正確な調査はないそうです。ただ、このキャンペーンと関係があるかどうかは定かではありませんが、キャンペーン期間中、123,300人の入院患者が死亡しなかったという推計はあるそうです。この数字は、その他の期間と比べて少ないということです。そして、キャンペーンをしていた時期、明らかに医療事故は少なくなったとも言われています。
IHIではさらに2006年12月から2008年12月まで「500万人の命を守れ!」というキャンペーンを張りました。これは、死だけでなく医療事故による余計な傷害(unnecessary injury)も防ごうという動きで、「有害事象の歴史を作ろう!Let’s make harm history!」と全米4,000の病院に呼びかけました。そして6つの行動目標に加えて、危険薬の投与防止、周術期合併症の削減、褥瘡予防、院内感染防止、エビデンスに基づいた心不全治療、病院幹部の参画という目標を盛り込みました。
個人的には最後に挙げられた、病院幹部の参画(Get Boards on Board)という行動目標は興味深かったです。病院幹部に実際の現場を見てもらったりして問題をよく認識してもらい、当事者意識を持たせることが、安全な医療ケア提供のための組織作りが迅速に行われるために効果的だという発想は、正鵠を射ていると思いました。

日本の医療関係者の方の中には、2008年から始まった「医療安全全国共同行動 いのちをまもるパートナーズ」というキャンペーンをご存知の方もいらっしゃると思います。これは、医療の質向上研究所のキャンペーン「5万人のいのちを守れ!」を見本にしたものです。「医療安全全国共同行動」のキックオフ大会に当たっては、バーウィック氏によるIHIのキャンペーンの説明と激励のビデオレターが寄せられ、その映像は会場の大画面で流されたということです。

【医療費の抑制】
IHIには、もう一つ別な目標があります。それは医療費を抑えて無駄を減らそうということです。バーウィック氏は、アメリカの医療を「たいした成果を上げないくせに高いだけの狂気の沙汰」と言って、公然と批判してきました。そして低いコストで質の高い医療を提供する思想を広めてきました。
バーウィック氏は、自分の経験からも安上がりの医療を勧めています。彼には右膝の関節炎という持病があります。もともとこの関節炎は、バーウィック氏が医学生だった頃、ジョギングのし過ぎで足を悪くし、下手な手術をされたという医療事故(medical error)が原因でした。数年前にこの関節炎を診察した医師たちは、人工膝に取り替える手術を勧めました。しかし、彼はその勧めには従わずに、ステロイド注射をするだけという治療法を選択しました。そして現在に至るまで、この治療で転帰は良好だと彼は言っています。
しかしながら、このバーウィック氏の低価格医療思想に対しては批判の声も上がっています。例えばバーウィック氏は、ダートマス研究を「今世紀の最も重要な研究」と評価していますが、これに対する疑問が出されています。ダートマス研究とは、20年にわたってメディケア加入者のデータを用いて、国家、地方、地域市場と同時に個々の病院や提携医について分析し、医療資源とその配分を明らかにしたものです。その結果、医療産業は支払いのいい患者には不必要な検査や治療をして、治療成果に対して高い医療費を請求しているという、「費用対効果」が明らかにされました。しかし、ダートマス研究には、方法論的にも理論的にも基本的な問題をはらんでいるという批判が、ペンシルヴェニア大学教授のリチャード?クーパーなどから指摘されています。
バーウィック氏率いるIHIの出した白書によると、医療の効率性(efficiency)は「質の向上 (Quality Improvement: QI)」を促すもので、ヘルスケア改革の要は無駄をなくして医療費削減をすることだと書かれています。しかし、何が無駄で何が必要かを判断する基準は未だあいまいなままで、必要な医療も削減されることに対する危惧も表明されています。

【現状批判と専門家の意見の尊重】
アメリカのヘルスケア改革においては、「われわれが持っている医療と、われわれが受けている医療の間には、ギャップというだけでなく大きな断絶がある」という医療研究所(The Institution of Medicine)が2001年に宣言した警鐘を受けて、専門家たちが知恵と技術と組織力を結集しようとしています。バーウィック氏の評価は、先に見たように肯定派だけではありませんし、これほどまでに大きな組織を動かした経験はないのでリーダーシップに関しても疑問視されています。
しかしその点を考慮に入れたとしても、実証的根拠を示しながら現状を批判し、改革のための案を持つ専門家を登用するという点において、オバマ大統領のヘルスケア改革は一定の評価ができるのではないかと思います。オバマ大統領は、バーウィック氏のメディケア?メディケイド最高責任者への就任に当たってこう言っています。
「バーウィック氏は、長年にわたって患者へのアウトカムを向上させ、低価格でよりよい医療を提供するために尽力してきたキャリアがあります。(中略)私は、彼が当局ならびに国内の何百万という医療関連従事者の傑出したリーダーとなることを確信しています。」
現場を知っているのはやはり専門家。その専門家を行政のリーダーにするオバマ大統領の人事は、日本がヘルスケア改革を行うときに、どのような体制を作っていけばよいのかを考える際に大きなヒントになると思います。
その背景には、自己利益ではなくて他者利益(altruism)を追求するという、かつて社会学者のタルコット?パーソンズが医師を典型として専門職(professionals)の条件として掲げた要素を、専門家が備えている必要があると思います。日本の医療専門職は、他者利益(=患者利益)を最優先する職能集団だということが、自己認識されていると共に、社会的に認識されているでしょうか。

(参考)
・ニューヨークタイムズ紙の記事(紙面)
The New York Times, National, Sunday, March, 28, 2010, 18.
・ウォールストリート?ジャーナルの記事(オンライン)
http://online.wsj.com/article/BT-CO-20100419-714390.html
・IHI のキャンペーン概要
http://www.ihi.org/IHI/Programs/Campaign/100kCampaignOverviewArchive.htm
http://www.ihi.org/IHI/Programs/Campaign/Campaign.htm?TabId=1
・ダートマス研究の概要
http://www.dartmouthatlas.org/
・ペンシルベニア大教授リチャード・クーパーによる批判
http://www.wsws.org/articles/2010/mar2010/coop-m02.shtml

略歴:細田満和子(ほそだ みわこ)
ハーバード公衆衛生大学院リサーチ・フェロー。博士(社会学)。1992年東京大学文学部社会学科卒業。同大学大学院修士・博士課程を経て、02年から05年まで日本学術振興会特別研究員。05年から08年までコロンビア大学メイルマン公衆衛生校アソシエイト。08年9月より現職。主著に『「チーム医療」の理念と現実』(日本看護協会出版会)、『脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学』(青海社)。

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