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Vol.064 タイで100%の国民保険加入率を達成した背景にある歴史と民族

医療ガバナンス学会 (2020年4月1日 06:00)


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秋田大学医学部医学科5年
宮地貴士

2020年4月1日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

全ての人が質の高い医療に支払い可能な価格でアクセスできる社会、ユニバーサルヘスルカバレッジ(UHC)。2030年までに実現することを国連が定め、発展途上国や新興国の多くでは国民皆保険制度の導入に向けて動いている。私が医療活動に取り組んでいるアフリカ南部の国、ザンビアも同様だ。昨年の10月よりNational Health Insurance Scheme (NHIS)が始まった。第1弾の寄稿( http://medg.jp/mt/?p=9410 )では、保険制度に隠された援助国の狙い、第2弾( http://medg.jp/mt/?p=9514 )では現場と乖離する制度の欠陥について議論した。

ちょうど第2弾の原稿を書き終えた1月末、3日間に渡りタイで開催されたUHCをテーマにした国際会議、マヒドン王子記念会議(PMAC)に参加した。各国の歴史や人々の価値観といった文脈を踏まえ、医療保険制度における現状の課題や解決策が議論されることを期待していた。だが実際は、「国の財政強化」、「民間セクターとの協力」、「へき地医療者のサポート」といったありきたりな内容ばかりだった。今回の寄稿では会議の中で一切取り上げられなかったその国の歴史や価値観がなぜ保険制度を考える上で重要なのか、タイの事例を下に考察したい。

1月28日(火)正午、私はタイに到着した。コロナウイルスによる影響だろう。空港にいたアジア人と思わしき人々のほとんどはマスクを着用していた。世界保健機関による非常事態宣言が出される前でもあり、空港での検査は非常に簡易的なものだった。体温センサーを通過するだけで、問診票などもなかった。会議ではコロナウイルスの蔓延を踏まえて、UHCの重要性が何度も繰り返された。タイは新興国として初めて100%に近い保険カバー率を達成した国である。「他の国もタイから学べ!」そんな雰囲気が漂っていた。

タイの皆保険制度実現に向けた道のりは長かった。1975年から社会的弱者を対象にした保険制度を開始。その後、公務員と企業の社員向けに別々の保険制度を創設した。2001年10月からは国民保険を導入し、非正規雇用や小規模農家、自営業者など当時保険に入っていなかった全ての人を制度に組み込んだ。これらにより患者の自己負担を軽減し医療へのアクセスを著しく向上させた。2001年に71.8歳だった平均寿命が、2011年には74.2歳まで伸びた。乳幼児の死亡率は1970年に1000人当たり100人だったが、2017年は9.5人まで改善した。

タイの住民は登録したプライマリーケアユニットと呼ばれる診療所で家庭医による医療サービスを原則無料で受けることができる。専門医による診断が必要な場合は紹介状をもらい、高度な医療を提供する病院に行くことになる。前者のプライマリーケアユニットの収入は人頭制と呼ばれるものであり、登録住民数に応じて政府からの予算が決定する。出来高制ではないため収入は一定であり、患者が少ないほうが診療所の支出は抑えられる。これが診療所とコミュニティの連携による予防医療を推奨するインセンティブとなっている。

これらの保険制度から学ぶべきことは多くあるが、タイでも先進国と同じような課題に直面している。それは、高齢化に伴い膨れ上がる医療費だ。2001年に6.7%であった65歳以上人口割合は、2018年には11.9%まで増加した。GDPに占める医療支出は2001年の3.0%から2016年には3.7%まで上昇している。著しく増える医療ニーズに対していかに財源を増やしていくか、そして、限られた資源をいかに効率的に分配していくか。保険制度の持続可能性がまさに議論されている。

長年にわたる僻地勤務の後に、タイの保健省副長官を務めUHC実現に向けて奔走してきたDr. Suwitは言う。「完璧な保険制度なんてあるわけない。どんな国もそれぞれの課題に直面する。結局は全ての人に医療を届けたいというパッションと困っている人に手を差し伸べるハートが大事だ」。

彼の意見に私は100%同意する。ただ一方で、なぜクーデターなどにより政治的に不安定な状態が続いたタイでUHCを実現できたのか。また、国民保険とは単に給付と負担を下に作成する一般的な保険とは異なり、高齢者や障碍者などの社会的弱者を国民全体で支えようとするものである。そのため、国民の間に強い共同体意識を必要とする。これらの政治的なリーダーシップと国民の連帯意識はどうなっているのか。国民から崇拝される王の存在が影響しているのか。敬虔な仏教徒である国民性なのか。それともそもそも高い経済成長が関係しているのか。残念ながら、この辺りを深堀する議論はPMACにはなかった。

私は、これらの歴史や宗教、文化に基づく人々の価値観といったソフトな側面がUHCの議論では見逃されていることを全体会議の中で質問した。それに対して欧州から世界保健機関に出向している役人が回答した。「人々の価値観を考慮に入れることでUHCの目標としている指標、例えば、医療アクセス、医療の質、医療費にどんな効果があるのか」。もちろん数値の改善も大切である。だが、ある国で成功した政策をそのまま他の国に導入できるわけはない。その国の文脈を知る必要がある。

会議が終わってから私はタイの経済や歴史、民族に関する資料を漁ることにした。すると、
「タイにはタイ人はいない」という文言が目に飛び込んできた。赤木攻著のタイのかたち(めこん出版)である。衝撃的だった。これまで私は、タイはタイ族による単一民族国家であり、崇拝された王の下に国民が統一されていると思い込んでいたからだ。タイ族という民族意識がない中でどのように共同体意識を育み、UHCの実現まで辿り着いたのか。

著書にはこう書かれていた。現在のタイ王国の起源とされるアユッタヤー王朝は外来人たちによる貿易を中心に成り立っていた。貿易で成功した外来人は王族から高級官僚として雇われ、政治や経済を担っていた。日本人も外来人の一角を占めていた。山田長政という商人を中心に日本人コミュニティを築き上げ、当時の王であるソンタム王に意見するほどの影響力を持っていた。

18世紀に現在のバンコク王朝に権力が推移したが、強い力を持っていたのは外来人たちの末裔だった。当時、西欧列強による植民地化が周辺諸国で進んでいた。幸い、タイはビルマを支配した大英帝国とベトナムを支配したフランスの間の緩衝地帯となり中立国としての地位を確立した。だが、外来人ばかりでタイ人という意識がなく、国民がバラバラだと、いつ植民地化されるかわからない。当時の国王、ラーマ四世はチャクリー改革と呼ばれる国民国家創出に向けた近代化政策に取り組んだ。最高の徳を積んだものが最高の地位につくという仏教の考え方を下に王族の正当性を主張。タイ語と仏教を広げるために学校と寺を各地に建設した。

1932年に人民党革命により絶対王政が倒れ、立憲君主制へと移行した。だが、元来、外来人国家であるタイの性質は変わらなかった。支配者が体制を維持するためには、タイ人という国民意識を国民の間に醸成させることが最も大切だったのだ。18世紀頃に始まり、今でも続いているマレー系イスラムによる独立問題を一つとってもそうだ。タイという国民意識がなければ、南部はとっくに独立しているだろう。

タイが外来人国家であることは第二次世界大戦やその後における絶妙なバランス感覚からも説明できる。大戦勃発直後は中立宣言をしていたがかつて仏英に奪われた土地を奪取するために枢軸国側として宣戦布告。日本がポツダム宣言を受け入れると宣戦布告を即刻撤回し、取り返した土地を再放棄した。これにより敗戦国となることを逃れ、戦後も独立を維持することになる。諸外国からの介入により戦後や冷戦にかけて混乱が生じた近隣諸国とは異なる道をたどった。

第二次世界大戦後、タイの一人当たりGDPは周辺諸国と大差なかった。だが、2018年現在ではベトナムの2.8倍、カンボジアの4.8倍、ミャンマーの5.4倍に相当するUS$7,273である。1985年に締結されたプラザ合意による円高で日本からの投資や企業の進出が加速したことがタイの経済発展を支えたと言われている。外国からタイへの直接投資額は1985年から89年にかけて4倍以上に増加した。そのうち、日本が占める割合は約20%から50%以上に上昇した。。この間に一人当たりGDPはUS$747からUS$1,295まで増えている。

このような歴史や経済の流れを踏まえると、なぜタイがUHCを実現することができたのか、その理由が見えてくる。外来人国家であるタイにはもともとUHCを支えるような強固な共同体意識があったのではなく、これが存在しなかったためにUHCによって国民を繋ぐ必要性があったのだ。政治的なリーダーシップが働いたのは必然だろう。さらに、第二次世界大戦前後におけるすぐれたバランス感覚による投資の呼び込みと経済成長がUHCを支える基盤を作り上げた。

各国の保険制度について議論することは大切だ。それぞれの教訓を共有しより良い社会に向けた一歩となる。ただ、もっと大切なことはいかにそれらの政策を実行していくかである。そのためには、各国の歴史や文化を踏まえた個別具体的な議論が必要となる。表面的な会議を卒業し、各国でUHCが加速されることを切に願う。

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