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Vol. 162 病人権利とハンセン病の歴史

医療ガバナンス学会 (2010年5月11日 07:00)


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-医療制度研究会草津セミナー報告

医療制度研究会 中澤堅次
井上法律事務所 井上清成

2010年5月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


■ ハンセン病療養所栗生楽泉園見学
ハンセン病療養所栗生楽泉園は、残雪に輝く白根の山々のふもと、高原の温泉地草津から2キロほど離れたゆるやかな台地の南斜面にあります。門を通過し台地の斜面を南に下りてゆく車道の突き当たりに療養所があり、取り囲むようにハンセン病に罹患した人たちの住宅が並んでいます。低層でこぎれいな集合住宅は塀がないせいか、芝生に囲まれどこか欧風で開放的な印象を受けます。ここには、平成8年菅直人厚生大臣のときに廃止になるまで続いた、らい予防法により隔離され、治療法が確立した今でも、皮膚の後遺症と長かった療養所生活で社会に戻れない高齢の方たちが住んでいます。

門を入ってすぐ右側、木立に囲まれた小道を200mほど入ったところに重監房跡地があり、ここには隔離療養中に脱走や療養所の規律に反した人たちが全国から集められ収容されたそうです。林の中にポッカリ空いた200坪ばかりの空間に、複雑な住居の土台だけが残っています。とても狭い廊下と、部屋の間仕切りがいくつもあり、明り取りの窓だけだったという個室は、逃げられないように造られていたことが良く分ります。わずかな米と水ものだけが支給される生活は、病人を標的にした収容所のようなもので、極寒の当地ではかなり過酷なものだったと思います。楽泉園設立の目的は隔離により社会から、らいを根絶するという当時の政策によるものでしたが、病人であるがゆえに自由を奪われ、正当な主張でも罪人とされてゆく、悲しい歴史を物語る貴重な医の遺産ということができます。

■ 療養自治区湯之沢とコンウォール・リー女史による救済
古来ハンセン病の人たちは社会から差別を受け、流浪の末各地に集落を形成しました。楽泉園ができる大分前から、上信越山中の草津には温泉の効能を頼って多くの人たちが集まっていました。はじめは他の湯治客とは別に、場所と時間を分けて同じ地域で療養していましたが、町の観光色が強まるにつれ、町外れの湯川下流にあたる湯之沢地区に集められ、財力のある罹患者は旅館や商店を経営し納税義務も果たす、いわば療養自治区のようになっていました。自治区とはいえ病気の人にはお金が無く、病気が進むとさらに困窮が深まり、悲惨な人々の暮らしがありました。

湯之沢に来ていた、キリスト教徒でもある療養者の熱心な願いに応えて、聖公会の宣教師であるイギリス人女性コンウォール・リー女史が湯之沢に入り、聖バルナバミッションと呼ばれた救済活動が開始されました。リー女史は聖バルナバ教会を建てて活動の拠点とし、最終的には三十数棟にも及ぶ病人用のホームを建造したそうです。家族から仕送りがあり働ける人でも、病気が進むと最終的には救済が必要となり、両親が病気で養育者を失った子供、被害を受けやすい婦人、罹患者が多く自力での生活がままならない独身男性などが救済の対象になりました。聖バルナバ医院と呼ばれる病院も日本人の女性医師と看護師の献身で開設され、湯之沢ではじめての医療施設となりました。これらの大規模な事業は、イギリスはもちろんアメリカの篤志家の寄付に依ったようであり、日本でも藤倉電線が聖バルナバ医院の増築に資金を提供したといわれます。

女史は、当時は投げ捨てられるようにして葬られていた病死者に花を手向け、化膿してぼろぼろになった衣服を脱がし皮膚を清めて弔いました。また湯之沢住民と変わらない清貧な生活ぶりで人々の感動を呼び、精神的にもすさんだ人々のよりどころとなり”くさつのかあさん”と慕われ、59歳で草津に入ってから活動は80歳まで続けられました。

昭和7年政府の隔離政策で国立療養所栗生楽泉園が開院し、湯之沢の人々はここに集められることになりました。反対運動が起き湯之沢はその後も存続しますが、昭和11年、80歳を迎えたリー女史は健康上の理由で厳寒の草津を離れ、その5年後の昭和16年には、日中戦争で悪化する国際関係で資金が枯渇する中、湯之沢の人々は楽泉園に大多数が移住し、部落が取り壊されると同時に聖バルナバミッションもその役割を終えました。

■ 病人権利と栗生楽泉園と聖バルナバミッション
感染症として社会から疎外され、科学の恩恵を受けることの無かった時代の人々の悲しみは、リー女史を中心とした多くの人々の献身により救済が行われましたが、後に近代国家として日本は国立療養所を作り、人々を収容隔離することで吸収してゆきます。社会の利益のための隔離政策は別の形の人権侵害を産み、治療薬ができた後も、何回となく行われた療養者や医師や官僚による廃止運動をよそに、つい最近まで続きました。日本の例は特殊と評される背景には、上からの目線で社会の繁栄や安全には着目しても、病を背負った人の悲しみに思いが至らない日本人の思考過程が関係しているようです。

今回の4月24日から25日にかけてのセミナーの主題は病人権利で、病を得た人々の人権に着目し、病人であるがゆえに生きる権利を侵害されたハンセン病の人々の歴史に思いをはせるというものでした。病人であるがゆえに、故無くして社会から疎害され、国家の大義や社会の安全のために犠牲になった人々の悲劇があり、近代人を自称する私達がつい最近まで気づかずに過ごしたことも驚きでした。湯之沢におけるリー女史の大規模な救済事業とともに、この事実は良い悪いを言わずに、大切に後世に伝えたいと思います。

参考文献:
1)写真集・コンウォール・リー女史物語、コンウォール・リー女史顕彰会編、2007年
2)草津「喜びの谷」の物語、コンウォール・リーとハンセン病 中村茂 教文館 2007年

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