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Vol.100 東日本大震災の経験を活かして今私ができること

医療ガバナンス学会 (2020年5月14日 06:00)


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医療ガバナンス研究所
趙天辰

2020年5月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

現在、日本のみならず、世界において新型コロナウイルスという見えない敵と戦っている。私は過去もこのような見えない敵と戦った経験がある。それは、2011年3月11日に起こった東日本大震災とそれに伴う放射線災害である。震災から今年でちょうど10年という節目の年に入る。当時福島県相馬市に住んでいた私はまさに震災経験者の一人だ。その経験は、未だ記憶に鮮明に焼き付いている。

今から約九年前、その日はいつもと変わらないはずだった。当時県立高校1年生であった私は、午後の国語の授業でちょうど小テストを受けようとしていたところだった。しかし、そのタイミングで地震が起こり、みんな避難訓練と同じように机の下に潜った。いつものようにすぐ終わるだろうと最初は思っていたが、揺れは次第に大きくなり、ところどころ悲鳴も聞こえてきた。縦揺れが激しく、一瞬体が浮いたような記憶も残っている。経験したことのない状況に、もしかしたらこのまま死ぬのではないかとさえ覚悟した。幸い私の高校は建物の損傷もほとんどなく、約2分半続いた揺れが止まった後はグラウンドに避難することができた。当時学級委員であったため、クラスの整列や先生への人数報告もこなしていたが、衝撃的な体験で頭は全く働かなかった。国語の小テストは自信がなかったから、実施されなくてよかったなと、グランドに座ってぼんやりと考えていた。

そこから2時間ほど経った頃だろうか、避難所に指定された近くの体育館に避難するように、みんなで一斉に移動した。グランドで待機していた間、保護者が迎えに来た学生もいたため、移動する頃には全体人数の約2/3ほどであった。どこからか入ってきた情報によると、津波がかなりやばいらしい。海沿いの建物は、ほとんど津波で流されたらしい。もちろんケータイ電話は、ネットも通話も機能していないため、使えない。海の近くに住んでいた同級生は皆家族や家そのものがあるか不安を隠せていなかった。一人の教師も、家が津波で無くなったという情報を入手し、啞然としていた記憶がある。幸いなことに、私の家は内陸部にあったため、そのような心配はなかった。

私は、日本生まれ育ちの中国人である。両親が中国の北京人で、私が生まれる前から日本に来ていた。私の出生地は岐阜であるが、そこで育った記憶はなく、転々としていた両親が定住したのが、福島県相馬市であった。父は料理人で、中華料理店「北京料理 天安門」を相馬で立ち上げた。母親はずっと父親についてきて店で働いていた。私はそんな中華屋さんの娘である。正直なところ、この店に関してはいい思い出はほとんどない。中学生の時から店を手伝わされ、もちろんアルバイト料はほぼ出ない。みんなが待ち望むゴールデンウィーク、お盆休み(夏休み)、正月休み(冬休み)はすべて繫盛期で忙しい。問答無用で一日中店番である。友達と遊びに行くなんてもってのほかだ。唯一の救いはご飯がおいしかったところかもしれない。

地震後、そんな店舗兼自宅の天安門に戻ったところ、見事に食器類が悲惨な状態であった。当時は母親が中国で闘病していて、兄もたまたま何かの研究でアメリカに行っていたため、父親と従業員だけで黙々と片付けていた。私も自分の散乱しきった部屋を片付けた後、作業に取り掛かった。テレビでは津波の様子がずっと流れていて、昨日まで見慣れた風景はもうそこになくて、その様子はまさにこの世の終わりであった。奇跡的に、私の自宅は損傷もほとんどなく、水も電気も通っていたため、ほぼ通常通りに生活できた。そのため、なんと地震の次の日から営業を再開したのだ。当時はそんな決断をした父親は本当に頭おかしいと思っていたが、営業再開した日からたくさんのお客さんが来てくださり、みんな電機も水道もないなか、営業していた料理店もほとんどなかったため、天安門の営業は本当に命を救われたと感謝された。自分の店が人を助けていると実感し、手伝いたくない感情よりも嬉しさのほうが勝ったのだ。

地震から何日か経った後、テレビでは福島第一原子力発電所の水素爆発の情報が流れた。それを見た私たちは、さすがに身の危険を感じ、避難の準備をし始めた。中国大使館の情報で、新潟のほうで中国人の避難所があるため、そこに行けば北京に戻れるだろうと、車で福島市へ向かった。無事新潟に到着し、二日間の避難所生活を経て、私たちは中国に戻ることに成功した。私の家は北京にあるが、当時は上海までの飛行機しか飛んでいなかったため、そこから12時間かかる列車で北京へ向かった。避難所明けの12時間の移動は非常に苦痛だったなと今でも思い出すことがある。北京では、それまでとまったく違う生活が待っていた。母親に久しぶりに会うこともでき、親戚たちも皆私たちの帰国に集まった。昔のことであまり記憶にないが、大変楽しい日々であった。それから約一か月の中国滞在を経て、学校の再開に伴い5月中旬相馬に帰還した。

帰国後、一気に現実に引き戻されたような気がした。電車も最寄りまで走っておらず、家にたどり着くことでさえも困難だった。再開した学校でも、転入生が何人か来て、転出した学生もいた。そんな中、震災支援の一環として予備校講師である藤井健志先生に会うことができた。被災地の学校に勉強を教えに、ほぼ毎月東京から来てくださった。現在、私は医療ガバナンス研究所の研究員であるが、理事長の上昌広先生とのご縁も藤井先生による紹介である。このことはまた別の機会に紹介したい。

現在、私はこの東日本大震災の経験を活かし、日中の架け橋になれるような仕事をしている。具体的には、医療通訳者として、日本に来る中国人患者のために言葉の障壁を無くすことや、滞在サポートなどを行っている。震災問題が完全に解決されないなか、新型コロナウイルスという新たな脅威が全世界を襲っている。医療はますます国という概念を超えて、国際的に協力するものになってくるだろう。日本語、英語、中国語など、複数の言語を話せる私として、医療知識をさらに身に着け、国際的な医療に貢献できるようにこれからも行動していきたい。

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