医療ガバナンス学会 (2020年7月20日 06:00)
井上法律事務所 弁護士
井上清成
2020年7月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
7月13日、東京高等裁判所は、一審の東京地方裁判所で無罪とされていた乳腺外科医師に対し、準強制わいせつ罪として懲役2年の実刑とする逆転の有罪判決を下した。その判決に対し、この医師の弁護団は逆転判決を不服として、直ちに最高裁判所に上告したという。
医療界からは、その有罪判決を批判すると共に、この医師を支援する声明が次々と出されている。高裁判決の翌々日の15日には、日本医師会の中川俊男会長が「私は身体が震えるほどの怒りを覚えた。」「日本医師会は控訴審判決が極めて遺憾であることを明確に申し上げたい。今後、全力で支援することを改めて明確にする。」と表明した。今村聡副会長も「全身麻酔からの回復過程で生じるせん妄や幻覚は、患者にとってはリアルな実体験であり、現実と幻覚との区別がつかなくなることもある。このような場面は全国の医療機関で起こる可能性があり、もしそれが起こった場合には、医師や看護師が献身的にケアに当たっているのが実際であるにもかかわらず、そのことが理解されていない。」「もし、このような判決が確定すれば、全身麻酔下での手術を安心して実施するのは困難となり、医療機関の運営、勤務医の就労環境、患者の健康にも悪影響を及ぼすことになる。」との抗議をしている。他の医療(者)団体・医学会も同様であると思う。
2.逆転判決の法的テクニック
その高裁判決は、すでに各所から批判が噴出している通り、せん妄の診断基準などの専門性を軽視したり、科捜研の杜撰なDNA鑑定の信用性をそのまま肯定するなど、余りにも問題が多い。ただ、本稿では、特に筆者が着目している特に大きな問題点(逆転判決の法的テクニック)を1つだけ述べておきたい。
もともと一審の東京地裁の無罪判決の最も大きな根拠となったのは、患者Aの「せん妄状態による幻覚の可能性」の存在である。そして、地裁においてこの医学的な見解を基礎付けたのは、麻酔学の見地からの福家伸夫医師と精神医学の見地からの小川朝生医師という2名の有力証人による証言であった。高裁はこれらの有力証人の証言を排斥するために、証言の大前提となっていた患者Aの2つの言動の存在を(事実認定の問題として)否定してしまったのである。高裁判決の判決要旨によれば、その辺りの件を、「原判決(筆者注・東京地裁の無罪判決のこと)は、福家医師及び小川医師の各原審証言に基づいて、Aは、せん妄状態に陥っていた可能性が十分にあり、せん妄に伴って性的幻覚を体験していた可能性も相応にあると説明しているが、これらの証言は、前記各点のAの言動(筆者注・2つの言動のこと)を前提とするところ、これらの事実を認定できないとすると、上記各証言の信用性は大きく損なわれる。」と判示した。
3.カルテ記載がないというだけの理由
「せん妄状態による幻覚の可能性」を認定させた根拠は、主に患者Aの2つの言動である。ところが、その2つの言動そのものについて、カルテに記載は無かった。そこで、高裁は、「せん妄である旨の記載はない。医療事件におけるカルテの記載の重要性等に鑑みて」というだけの理由で、病院関係者の証言などによって事実認定をした原判決をくつがえし、Aが2つの言動を発した事実を否定してしまったのである。
しかし、カルテ記載がないというだけの理由で、Aの言動の存在を否定してしまった高裁の有罪判決の論理は、大量の精神保健指定医の指定取消処分をした際の国(厚生労働省)の主張の論理と同じである。ところが、この厚生労働省の主張の論理は、すでに多くの裁判所の判決(地裁、高裁を含む。)で否定された。
筆者が代理人を務めている訴訟の東京地裁判決(この精神保健指定医は、東京地裁・東京高裁と勝訴して、現在、国側が最高裁に上告中。)でも、「被告(筆者注・国のこと)は、・・・・原則として診療録の記載内容から判断されるべきであり、本件症例に係る診療録…からは、…認められない旨の主張をする。しかしながら、一般論として、診療録が医師の診療等の事実を認定する際の最良の証拠であるとはいえるものの、…診療録に記載のない診療行為は行われていないとは直ちには認められないこと…からすれば、…その基礎資料が本件診療録に限定され、あるいは本件診療録だけが殊更重視されるべきであるとはいえない。」と丁寧に明示されている。他の弁護士が代理人を務めている他の精神保健指定医の訴訟でも、地裁や高裁で同様の判示がされて、国(厚生労働省)に勝訴している例も多い。
つまり、カルテ記載がないというだけの理由で、Aの2つの言動の存在を否定してしまった高裁の有罪判決は、その前提となっている理由が失当であるので、その判決の基礎付けが大きく損なわれているのである。