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Vol.195 新潟の野球の歴史は、河井継之助継之助と阪神が作った

医療ガバナンス学会 (2020年10月5日 06:00)


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帝京大学医学部2年
吉田誠

2020年10月5日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

吉田誠私は新潟生まれで、巨人戦、そして甲子園を見ることを楽しみに生活しており、現在は都内の医学部に通っている。今回は新潟の野球の歴史について論じる。

きっかけは、夏の甲子園で、徳島の三好一族の本拠である、人口8千人の町が日本一になったという新聞記事をみたことにある。それを受けて、人口の多さと野球の強さは関係ないのではないかという仮説を立てた。
早速、各都道府県の夏の甲子園優勝回数を調べ、人口が全都道府県で同じになるよう調整して、人口あたりの優勝回数を調査した。結果は以下の図の通りとなった。
戦前は関西の方が強く、時間が経つにつれ九州や関東地方に広がっていった。また戦前、戦後昭和、戦後平成とも和歌山県が圧倒的に強いのが印象的だった。
全体を通して、人口あたりの優勝回数は愛媛県、和歌山県、高知県の順に大きく、野球の強さと人口規模は関係がないという結果を得た。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2020_195-1.pdf

これを考察する手がかりとして、自分の出身地である新潟の野球の歴史について調べたことが、今回新潟の野球の歴史を論じようと思った経緯である。

まず甲子園の歴史についてだが、1915年、第一回全国中等学校野球大会が開催された。これが甲子園の第一回大会である。大阪の朝日新聞社が豊中球場で開催し、代表校はわずか10校であった。出場校は東北、東京、東海、京津、兵庫、関西、山陽、山陰、四国、九州の代表であった。当時、早慶戦は学生野球の頂点と言われるほど、東京を中心に野球は盛り上がっていたのに、東京より北は東北、東京のわずか二校であった。東京の優勝回数は戦前、25回中1回にとどまった。

http://expres.umin.jp/mric/mric_2020_195-2.pdf

東京では学生野球が人気のあまり、大阪の朝日新聞が甲子園を開催する4年前に、東京の朝日新聞は「野球と害毒論」という学生野球を批判する記事が22回にもわたって掲載している。野球は巾着切りの遊戯であることや、打つにも投げるにも右手ばかり使うから右手のみ発達することや、手の甲へ強い球を受け振動が脳に伝わって脳の作用が遅鈍になることなどが書かれている。話は少しそれるが、これに反論したのが読売新聞である。学生野球が駄目なら職業野球は何ら問題ないとして、私が現在応援している巨人を作った。
その後、年々参加する高校が増えていき地区の分割が進んでいくことで、現在の各県一代表という仕組みが出来上がった。また、野球人気が出てきて観客も増えてきたことから、1924年、60年に一度の甲子年(きぬえのとし)に現在の甲子園球場である甲子園大運動場ができた。

ここからは新潟県の野球についてだ。新潟の野球の中心人物は河井継之助と言える。河井継之助といえば、長岡藩の鬼才だが、その影響は野球界にも及んだのだ。

新潟県勢として初めて出場した甲子園は、1919年の第四回大会であり、現在の県立長岡高等学校である長岡中学校が代表を勝ち取った。
長岡中はその後、第四回大会から4度連続で出場権を手にし、3回目の出場の際にはベスト8にまで輝いた。合計で6度も甲子園に出場している。
この長岡中の由来は、戊辰戦争にまで遡り、河合継之助が関係してくる。

現在の新潟県の長岡市は、かつて長岡藩が治めており、藩主は牧野家であった。初代藩主である牧野忠成は三河国の生まれで、徳川家康に仕えていたのだが、譜代大名の地位を確立したことで長岡藩の立藩を果たした。
長岡藩の河井継之助は戊辰戦争が始まったことを受けて、強力な兵器を持ち、西軍や会津藩・米沢藩などからの武装中立を目指した。暴落していた米を購入し、北海道で売って差額の分の金を作ったり、江戸の藩邸にあった書画や骨董品を売ったりして金を用意し、ガトリング砲などの最新兵器を購入する。ガトリング砲とは機関銃のことで、当時の日本には3つしかなかったが、その内の2つを河井継之助がアメリカ人の武器商人であるスミスから購入した。他にもイギリス人武器商人ウォーターや、スネル兄弟などから、アームストロング砲、エンフィールド砲などを購入している。

しかし小千谷談判要説明が決裂したことで、新政府軍と戦うにいたってしまう。新政府軍の勢力は三万人に達していた一方、長岡藩の総兵力は1500人程度であった。しかし、河合継之助の指揮のもと長岡藩は序盤で互角に戦うことで、新政府軍は900人以上という戊辰戦争最大の犠牲を払う事となった。

最終的には、新政府軍との絶対的な兵力の違いにより、長岡は焼け野原となってしまった。長岡における戊辰戦争や河井継之助の様子は、司馬遼太郎『峠』に詳しく書かれている。
この長岡藩の苦しい状況の中で登場するのが、我がふるさと三根山藩だ。長岡藩の支藩であり、藩主は牧野家である。今も、自宅の周囲はほとんど田んぼや畑であるし、出来た作物をくれるような風土がある。実際に今年も、イチゴや枝豆などたくさんの野菜を頂いた。

三根山藩は長岡藩の苦しい状況をみて米百俵を送るが、河合継之助の親戚である長岡藩の小林寅三郎は、「百俵の米も食べればたちまち無くなる。教育にあてれば明日の1万俵、100万俵となる。」と米を配らずに売却することで、国漢学校を作るための費用と変え、学校作りに尽力した。
小泉純一郎元首相が国会での演説で言及したことで有名だ。
この国漢学校が、甲子園に出て新潟の野球を盛り上げた長岡中へとつながる。

また、長岡藩の三島億二郎は、教育者である藤野善蔵を迎えることで、長岡洋学校を開校した。藤野は河合継之助の弟子であるし、河井継之助、小林寅三郎、三島億次郎は3人とも江戸へ遊学をし、一緒に江戸の町を見物したり酒を飲んだりし、互いに大きな影響を受けていた仲である。
河井継之助の影響はそれだけではない。従者に外山寅太という人物がいた。河井継之助は貨幣を握る町人が勃興し米屋の藩が銭屋の町人に追われている様子をみて、今後の藩は銭屋にならねばならないと思い、臨終する前に、「武士の世は終わって、これからは商人の時代になる。商人になれ!」と遺言を外山に授けた。また、福沢諭吉にあてた添書を外山寅太に残した。外山は幕末、添え書きを持って慶應義塾に入塾し、開成学校への遊学などを経て、日本銀行初代大阪支店長を務めた。他にも、後のアサヒビール建設、阪神電鉄初代社長などを務め、大阪経済界の重鎮と言われるまでになった。かつての甲子園球場には外山寅太の銅像があり、阪神タイガースのタイガースの部分は外山寅太の寅から取ったのではないかという説がある。

このように、河井継之助の従者外山のおかげで、新潟は阪神タイガースとの関係も深い。新潟に、白山球場という新潟発のプロ野球場が出来た時には、阪神タイガースが駆けつけてくれ最初の試合を行ってくれた。また、阪神タイガースは新潟へ遠征にも来てくれ新潟野球界を大いに盛り上げた。現在でも、阪神は新潟のハードオフエコスタジアムに来て試合をすることがある。
私は巨人ファンで、阪神はライバルとばかり思っていた。今後、阪神巨人戦や甲子園の試合を見るときは、新潟の歴史も感じながら観られれば良いかなと思う。
他の地域の野球の歴史に関しても調べていきたい。

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