医療ガバナンス学会 (2010年6月4日 07:00)
まず初めに、私は「ヒヤリ・ハット」という言葉は、医療事故には至らなかったが、危ない思いをしたという事を表現するのには適切な「日本語」だと思っています。少なくとも幼稚な言葉であって、今後、医療界から駆逐すべき言葉とは思えません。
もし、「ヒヤリ・ハット」が適切でないと考えている方が大勢おられれば、それに代わる「日本語」を探して皆が納得するものにすればいいでしょう。私が「日本語」に拘るのは理由があります。
最近私が感じているのは、社会全般、特に医療界で英語でのネーミング、表記があまりにも氾濫していないだろうかという事です。
レスパイトケア、リエゾンナース、グリーフケア、クリティカルパス、ナースプラクティショナー、DPC等々、これらの英語表記を見聞きして直感的に内容が分かる日本人がどれだけいるでしょうか。
言語は文化です。文化背景の違う外国語、とりわけ英語表記は日本人には直感的に理解しにくいものです。
以前、厚労省が「ホワイトカラー・エグゼンプション」制度なるものを提案した事があります。わざわざ「エグゼンプション(exemption)」などと一般の日本人には理解できない言葉を用いて内容をぼかそう、あるいは訳のわからない状態で立法化しようと目論んでいるとしか思えません。
exemptionとは規制免除の事であり、要は労働時間規制をなくそうという話です。そうであれば、「自由就労時間制」とか「労働時間選択制」とかもっと分かりやすい言葉を選ぶべきでしょう。
外国(とりわけ英語圏)の制度を導入する際に、そのままの「言葉」を使う事はあまりにも安易であり、不誠実と言わざるを得ません。
繰り返しますが、「言葉」は文化であり、文化背景や歴史の違う「言葉」をそのまま使用しても、理解されるどころか誤解あるいは誤用される危険性があります。
新しい概念であれば、尚更の事、その内容をしっかり伝える為の「新しい言葉」を創出することが必要です。
法律用語や「霞が関文学」と言われる、難解で、回りくどい表現に慣れている官僚は的確で的を射た日本語を創出する能力が乏しいのでしょうか。
明治初期に先人達は、今まで日本語に無かった言葉、概念を大量に日本語に訳しています。
例えば、明治期の学者、西周(にし・あまね)は「philosophy」を翻訳語として「哲学」という言葉を創ったほか、「芸術」「理性」「科学」「技術」「主観」「客観」「理性」「知覚」「感覚」「総合」「分解」など今まで日本に無かった多くの哲学・科学関係の言葉を訳語として考案しています。これらの言葉が今や日本語として定着し、日本人であれば誰でも理解し、連想できるものとなっています。
「ヒヤリ・ハット」が幼稚な用語だという指摘に戻りますが、本当にそうでしょうか。
私には日本人には直感的に連想できるいい言葉だと思えます。「アクシデント」なら何となく理解できても「インシデント」と聞いて、瞬時に内容が連想でき、「アクシデント」との違いを明確に説明できる医療者がどれだけいるでしょうか。
「ヒヤリ・ハット」は日本人なら「ヒヤリとした事」「ハッとした事」と瞬時に連想できます。
「言葉」は直感的に理解・連想できなければ単なる音声・記号にしか過ぎません。記号として使うのであればいいですが、医療の現場の様にチームで仕事を行う際に、医師以外のスタッフと十分な意思疎通やディスカッションをする為に「言葉」は誰でも理解できるものでなければならないと思います。
その為には日本人医療者が知恵を出し合わなければなりません。
例えば、「ナースプラクティショナー」ではなく「専門(処置)看護師」略して「専看」などと誰でも内容が理解できる「日本語」を創り出していかなければならないと思います。
皆さんの御意見、御批判をお待ちしております。