医療関係者の間では今、「医療事故調査委員会」の設置について議論が紛糾し
ています。根本的な問題点は、厚生労働省、学会および日本医師会と、医療現場
の乖離です。
医療事故にはいくつかの特徴があります。一定の確立で必ず起きること、個人
よりシステムに起因するものが多いこと、治療の結果は個人差や疾病の状態に依
存すること、航空機事故と同様に、些細なミスが原因でも結果は重大(患者さん
の死亡)であることが多いこと、などです。
一定の確立でミスが起きることは避けられません。論語に「過ちて改めざる、
これを過ちという」の言葉があるように、人間は必ずミスをしますが、大切なの
は、その後の対応です。
これまで医療機関では、自主的にミスや、ミスには至らなかったがヒヤッとし
た事例を集め、システム改善に役立ててきました。院内の「医療事故調査委員会」
も、原因を究明して、システムの問題を改善し、二度と同じようなミスが起こら
ないようにすることを本来の目的としています。
ところが、厚労省の医療事故調査委員会案には「とくに悪質なものについては
警察に通報する」との記載があり、これは、これまでの医療事故調査や事故報告
の根本的精神と本質を異にするものです。そもそも、刑事告訴されるならば、憲
法で保証された黙秘権を行使しますので、誰も正直に申告しません。医師とて人
間ですから、進んで罰せられようとは思いません。結果として、医療のシステム
を改善するヒントが得られなくなり、安全性が損なわれてしまうことにつながり
はしないでしょうか。さらには「悪質と判断する根拠や定義」が定められていな
いため、罪刑法定主義(法律なくして刑罰なし)という法治主義の大原則に反し
ます。
では、何故そのようなとんでもない案が廃案にならないのでしょうか? それ
は、残念ながら、日本医師会や日本循環器学会の長が賛成してしまっているから
です。ところが逆に、医療者10,038人を対象としたアンケート調査の結果では、
厚労省案支持14%に対して、対案である民主党案を支持する医師が41%にものぼ
りました(ソネット・エムスリー「医療維新」2008年7月14日号)。
大きな組織では良くあることですが、下っ端の構成員と、幹部の利益が異なっ
ているのです。というのも幹部は、厚労省(=自由民主党)の言い分に賛成する
ことで、自分の地位が保全され、税金をもとにした研究費の配分で有利な扱いを
受けられるという幻想を抱いているのです。日本医師会が「自民党のポチ」と呼
ばれたり、学会の重鎮が「御用学者」と軽蔑される所以です。もはや学会や日本
医師会は、医師の自律機関としては全く機能を果たしていません。
加えて、医療事故調査を遂行していくにあたっての財源も、まったく未確定で
す。厚労省が主導しておこなった死因究明のモデル事業では、解剖1件あたり40
万円の費用が支払われています。事故調ができあがり、全国で年間何十万人もが
病院で死を迎えるなか、遺族に申し立てられたケースについて原則すべて調査を
実施するとしたら、一体幾らかかり、その費用はどこから捻出するのでしょうか?
なんだか自分にはあまり関係のない話に聞こえるでしょうか? しかし安心し
て医療を受けられる社会が続くためには、医療ユーザーである国民一人ひとりの
方に、このような問題にも関心を持っていただければと思います。そして同時に、
下っ端構成員の医師も、臆することなく声を上げていく必要があると考えていま
す。
くすみ・えいじ 1973年新潟県長岡市生まれ。新潟大学医学部医学科卒業、国家
公務員共済組合連合会虎の門病院で内科研修後、同院血液科医員に。2006年から
東京大学医科学研究所客員研究員。2008年に「ナビタスクリニック立川」開設。
※この記事は、新潟日報に掲載されたものをMRIC向けに修正加筆したものです。