医療ガバナンス学会 (2021年2月6日 06:00)
この原稿は長文のため4回に分けて配信いたしますが、以下より全文をお読みいただけます。
http://expres.umin.jp/mric/mric_2021_025.pdf
元国際基督教大学教授・憲法
稲 正樹
2021年2月6日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
<信頼と透明性>
社会的距離から全国的なロックダウンまで世界を横切って示されている一定の規模の措置は、公衆の受容とコミットメントに最大の範囲で依拠している。疫学的な関係において最も成功した国の間での共通の要因は、決定策定過程における高いレベルの透明性である。透明性が政府の行動の基礎にあるところでは、取られる行動への公衆の信頼との強い相互関連がある。これに関連するのが専門性というニュアンスのある問題である。伝染病では、誰が危険を規制するルールを作るべきか? 世界を横切ってみると、役割のラディカルな再定式の事例がある:拘禁担当官としての医者(カナダ)、警察としての軍隊(イスラエル)、医者としての警察と兵士(スロバキア)、政治家としての医者(クロアチア)、疫学者としての公衆(オランダ)。もっともありそうな答えは、多様でかつ関連する専門知識の協調された努力である。
COVID-19に対するスウェーデンの措置は、高度に制限的な措置に対する望ましい選択肢を例証するものとして、多くの人によって国際的に報告されてきた。高度なレベルの公衆の信頼を前提として、スウェーデンのアプローチは政府のレベルと個人の間の両方において責任を集団化させることであった。社会的距離に関する公衆衛生の勧告が導入され、グループでの集りを制限する(比較的最小の)措置がそれに伴い、事業と学校の閉鎖が行われた。 ロックダウンに関しておもに社会的責任を提唱するというスウェーデンのアプローチの効率性は、より低い再発の割合とともに将来弁明されるかもしれない(しかしながら、スウェーデンは現在、隣国のデンマーク、ノルウェー、フィンランドよりもより高い死亡率となっている)。
にもかかわらず、信頼を基礎にした政策はこれまで最良の結果を生み出している。ニュージーランドは、明瞭で一貫した絶えざる政府のメッセージを通じてコミュニケートされた社会的ナッジによって主に操作され、通常の法的権限といくつかの緊急事態規定の組み合わせによって、その領域内においてほとんどCOVID-19を排除している。「効果的な合理主義者」であるジャシンダ・アーデン首相は社会的責任という中心的なメッセージを繰り返し強調し、「明白性・確実性・アクセス可能性・適応における一致に関する法の支配の期待」を充足してきた。アイスランドの「常識の支配」も同様に明白な政府のガイドライン・勧告・毎日の専門家の助言によって操縦されて、約束のある結果をもたらした。
個人責任が強調されるところでは(ノルウェー)、ガイダンスは明瞭で、一貫しており、アクセスできるものでなければならない。一貫しないまたは矛盾する政府のメッセージは、 ルールや規制がしばしば変わるために重大な不確実性と低い遵守をもたらす(オーストラリア)。最悪の場合、これは、「法的ルール、例外、例外からの例外の肥大症へと住民を追いやる」ことがある(チェコ)。どのようなルールが自分に適用になるのかを理解する法教育を受けていることは、期待されるべきでない。同様に、選挙で選ばれた人々または政府の役人は自らが示したルールを決して無視すべきではない。それは、彼ら自身の正当性とルールの効用を重大に侵害する危険をもたらす。
模範によって指導をする担当者とともに存在している、明白でアクセスできる一貫した正しい絶えざるガイダンスは不可欠である。アイルランドはそのよい例であって、明白でアクセスできる情報を提供している。これはウイルスに関する情報の誤りの拡大に取り組む効果があるだけでなく、法的確実性を確保し、政府の行動の透明性を保障するうえでもまた決定的である。現在の傾向を基礎にしてみると、ノルディック諸国、アイルランド、キウィの経験は、透明な政府行動への高い信頼が、明白で一貫した専門家の助言を基礎にした個人的な社会的責任の強い感覚と一緒になって、平均してもっとも積極的な結果を導くことができる。
*コメント:日本の場合はこの要件に欠けていることは明白である。政治指導者が国民への真摯な説明責任をまったく果たしていない。本物の科学者の意見をもとに、国民のために対策を立てているという諸外国の成功例とは正反対。国民の生命権を守りきるという必死さが微塵も感じられない。自粛という同調圧力の下で生存を脅かされている人々に対する思いやりがまったくない。緊急事態の解除決定についてもなぜそう決断したのか、今後どうするのかという点について自分の言葉で語らない。新型コロナウィルスの第3波の襲来に対しても、1.7兆円の予算を投じたGo To キャンペーンの実施に今なお固執し、「自助・共助・公助」という手垢のついた新自由主義的言説を振りまきつつ、マスクをした会食を進める首相をの姿を我々は目撃している。
<制裁と監督>
もっとも関心をもって広く報告されている問題は、COVID-19措置違反の犯罪化である(タイ)。たとえばロックダウン命令に従わなかった場合の多額の罰金、投獄期間の延長などがあり、しばしば国の平均賃金と不釣り合いなほどの刑罰が課されている(グァテマラ・ ルーマニア)。病気を拡大する行為を刑罰化する規定を導入した国のいくつかのケースで は、大量の逮捕者をみている(ペルー)。パンデミックによって引き起こされたものだけでなく、いつくかの国では政府の指令の実施において、司法外の殺人や警察の残虐行為が生じている。いくつかの制裁は刑事的なものだけでない。たとえばポーランドは、ロックダウン命令違反について比例的でない行政罰を導入した。刑事措置よりむしろ行政措置に訴えるのは、裁判所の聴聞の義務と防衛の機会を避けるためである。それはまた潜在的に違憲の措置である。
COVID-19関連行動の犯罪化に伴って、国家による検閲と表現の自由の制限がなされている(南アフリカ)。数多くの国は感染症およびそれと闘うため政府が導入した措置に関連する誤った若しくはミスリーディングな主張の公表またはミス・コミュニケーションに関連した刑事犯罪を導入している(フィリピン)。そのような犯罪は政治的的敵対者を確実にその範疇に入れるのに十分な一般的な言葉でしばしば起草されており、刑法典への永久的な変更として導入されている(ハンガリー)。コロナウイルスの現実を否定している国であるベラルーシでは、ジャーナリストや医者の逮捕を通じてウイルスのレポートに関する萎縮的効果が生み出され、そのことによって感染と死亡の本当の姿が隠されている。
世界中の国がウイルスと闘う努力において個人データの収集を許す規定を導入しているので、プライバシーの権利について関連する関心がある。家にいることの証明として「自撮り写真」を送ることの要求から、国家安全保障または軍事目的のためにデザインされた追跡ソフトの展開まで、追跡の形態には変化がある。政府または警察によって、個人の同意または認識なく、ある程度の司法的または政治的な監督もなくこの技術が使用されている。これは重大な懸念事項である。人々がすでに存在している規範に強く従わないかぎり、個人データの追跡は誤用の広い可能性をもち、他方ではCOVID-19の拡大を制限する可能性はほとんどないかもしれない。プライバシーと誤用の可能性についての関心は、広範な批判と公衆の抗議を生み出した(オーストラリア)。イスラエルはウイルス追跡ソフトをセキュリティー・サービスに使用する可能性を提案した最初の国の一つだったが、その後抗議を受けて後退した。スロベニアでも同様な提案が導入され、公衆の抗議の後に拒絶された。それとは対照的に中国はCOVID-19以前に市民を追跡していた。そして、公共輸送または私的な輸送中のモスクワ市民は、ロシア中に現在拡大しているシステムの一部として、政府によって発行されたデジタル・パスを身に付けることを求められている。
より高度な比率の犯罪化と監視権力は、市民と公衆衛生危機に対する反応の軍事化と相互関連している(マレーシア・フィリピン・ハンガリー・タイ)。ウイルスとの「戦争」と いう権威主義的レトリック(ハンガリー・フィリピン)は、個人の自由への極端なまたは不均衡な措置と制限を正当化するために用いられている(チリ)。これは、軍への市民的な機能の配分というより大きな関心をもつ次元の問題となっている。政府の権力ある地位、病院、私企業への軍人の配置(インドネシア・ハンガリー・イラン)。警察機能の軍への配分(イスラエル)。軍事裁判所を通じた通常犯罪の訴追(エジプト)。これらの反応の軍事化は、寛大さがより少なくなること(たとえばホームレスを標的にすること・タイ)、統制手段とし実力の使用をより高めることと相互に関連している。軍事化、犯罪化、コロナウイルス関連行動の重大な制裁化は、現在のトレンドに基づいたより良い結果と有意義に相互関連することはない。それは、専制的で抑圧的な統治とより弱い権力分立に強く相互関連している。
<危機における緊急性と能力>
国家の行動する義務は、特に権限が地方・地域・連邦レベルの間で分割されているところでは、行動する能力の問題として理解できる。パンデミックに対処する多岐のアプローチは(少なくとも概念的には)国境を横切って一貫しているが、それらの中で不合理な場合もある。ソーシャル・ディスタンス、旅行制限、マスクの着用の義務に関して一貫しないルールは、紛争と履行の不確実性を生み出す(カメルーン)。
連邦制諸国では緊急事態権は通常は連邦レベルにおいて集中されているが(アメリカとオーストラリアは顕著な例外)、保健は州レベルに権限が委任されている(ドイツ)。連邦執行府がCOVID-19の脅威を軽視する点で州政府と争うところでは(インドネシア)、後者はリーダーシップの真空を埋めるために⼀歩踏み出さなければならない(アメリカ)。スピードと地方意識に基づいた緊急事態の反応の地方化については説得力のある理論的根拠があるが、その究極の成功は調整された全国的な対応による補足にかかっている(オーストラリア・ドイツ)。措置を取る責任(従って非難)を地域の知事に移すこと(ロシア)の政治的利得はより低い死亡率によっては相殺されないし、より早い経済回復を確保することにも ならない。連邦執行府による反応の拒否または躊躇は行動の低下という高いコストを引き起こし、いまやそのショーが見られている。アメリカとブラジルは世界的にみて最高の症例数をもつ国になっている。
国内での能力不足が国際的な干渉を制限している。EUは保健において関連する法的権限をほとんどもっていない。この領域ではその構成国が排他的な権能をもっている。いまだ意味のある調整されたEUの反応はほとんど見られない。危機の時にEUは少なくとも制度的には決定的に失敗しているように思われる。EUよりはむしろ構成国が国境を閉鎖した。しかしながら諸国が「緊急事態を脱する」につれて、国際協力を下支えする国際組織のより大きな役割を反映して、国境の再開の調整にEUが決定的な役割を果たすことができるようになることもある。
究極的には、反応のスピードが結果を決定する。行動がより早くなれば死亡率もより低くなる(あるいは存在しなくなる)。イギリスがそのひどいロスを示したように、この国の遅れた反応はヨーロッパにおける最高の死亡率と明白な相互関連がある。過剰反応には正当化される関心があるが、絶望的な緊急時における国家の行動の低下に対しては警告がなされなければならない。緊急の行動は不可欠であるが、最初の事例において合法性、法的確実性、明白性、透明性の原則にできるだけ一致し、これらの原則をできるだけ早く実際に一致でき るように関連させなければならない。
つづく