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Vol. 230 ワクチンはイギリスで始まった(後編)

医療ガバナンス学会 (2010年7月7日 07:00)


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東京大学医学部5年 竹内麻里子
2010年7月7日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


イギリスと並んで日本の医学にも関わりが深かったのはドイツである。今回はドイツの歴史を振り返るとともに、日本における英独の影響を比較しながら考察してみたい。

<ドイツの法と哲学>
一方ドイツは、多くの分野でギリシャ文化、特にアリストテレスの論理学に影響されている。彼の編み出した三段論法は、前提として一般的な原理が仮定されており、演繹的な考え方によるものであった。ローマ帝国の時代には法学が生み出され、6世紀にはローマ法大全が編纂された。11世紀後半には法学生が学生組合を結成し、それが発展してボローニャ大学が成立する。ここで研究されたローマ法と教会法が結びつき、抽象的な原理を含む演繹的な法の概念が成立した。これは国を超えて普遍的に適用されると考えられ、現在のドイツ法の基礎となっている。
さらに13世紀には、アリストテレス哲学とキリスト教思想を統合したスコラ哲学が確立されたが、これは聖書等のテキストを精読し、挙げられた論点に関して論理的に討議を重ねるというものであった。そして17世紀には、感覚や経験によらず絶対確実な原理を前提とする大陸合理論が、デカルトから始まった。

<ドイツ近代医学の始まり>
ドイツという国の形が定まったのは19世紀のことであり、1800年代には混乱が続いていた。1814年にナポレオン支配から解放されてドイツ連邦が成立したが、これは政府や元首、外交権を持たないゆるい国家連合に過ぎなかった。このため、祖国愛を胸に解放戦争に参加した国民の不満が高まり、ドイツ統一と自由を求める運動が広がった。
そんな中発展したのは、原理を突き詰めて行く基礎医学である。1840年代からヘルムホルツが生理学を、シュワンが神経細胞を研究し、50~60年代にかけてウィルヒョウが細胞病理学の基礎を作った。

<ドイツ近代医学の発展>
その後1848年に自由主義革命が起こり、62年にプロイセン首相に任命されたビスマルクは、鉄血政策を推進した。イギリスに対して産業の発展が遅れていたため、トップダウンで急速に改革を進める必要があったのだ。ここでも大陸合理論の演繹的な考え方が反映されている。こうして工業化を推進し、軍需産業を育成したプロイセンは、66年の普墺戦争、70年の独仏戦争に勝利して、71年にドイツを統一した。
この頃、さらにドイツ医学は発展する。鉱山技師の子として生まれたコッホは、田舎町で開業医を営む傍ら、当時家畜を襲っていた炭疽病を研究した。当時性能が向上しつつあった顕微鏡を、気晴らしにと妻がプレゼントしたのが始まりだったという。76年に炭疽菌の純粋培養に成功し、細菌が病原体であることを証明した。その後も、結核菌やコレラ菌を発見し、近代細菌学の基礎を築いた。

コッホ以降も、ドイツ医学は躍進する。1895年にはレントゲンがX線を発見し、97年にはバイエルのフェリックス・ホフマンがアスピリンの合成に成功した。いずれも、基礎医学に分類される領域だ。当時ドイツのGDPは未だイギリスの半分以下であり、顕微鏡など少ない資源で研究できることも、基礎医学の発展を後押しした。
この頃のドイツには、1890年に北里柴三郎、1901年に志賀潔が留学している。北里は破傷風菌の純粋培養法や血清療法を開発し、第一回ノーベル医学生理学賞を受賞したベーリングとともに、ジフテリアの研究をした。また、志賀は赤痢菌を発見し、その功績が認められて赤痢菌はShigellaと名付けられた。彼らは世界に通用する日本人研究者の先駆けとなったのである。

<英独を追いかけた日本医学>
幕末から明治にかけ、日本の医学は漢方から西洋医学へとシフトした。1634年から出島を通じ蘭医学が日本に浸透し、1774年刊行の『解体新書』等の書物によってさらに関心は高まった。1848年には、出島商館医として来日したドイツ人オランダ軍医であるモーニッケが、肥前藩の依頼で日本初の種痘を行った。その頃、蘭医学に反感を持った漢方医たちは幕府に働きかけ、49年に蘭医学禁止令が出されたが、種痘は急速に普及した。

1861年に英国公使館付き医師として来日したウィリスは、日本医学に大きな影響を与えた人物だ。62年生麦事件、63年薩英戦争が起こった際には、在日英国人の治療に従事した。しかし、攘夷が不可能だと悟った薩摩藩と、弱体化した幕府に変わる新政権誕生を期待したイギリスは、その後急接近する。すると68年の鳥羽伏見の戦いで多数の負傷者を抱えた薩摩藩は、ウィリスを京都の仮病院に招いて治療を依頼した。漢方医は、銃創に対して適切な外科治療を施す技術を持たず、西洋医学が必要と判断したのだ。ここで、四肢切断など大胆な治療を披露し信頼を得た。続く戊辰戦争でも、横浜や柏崎の軍陣病院で治療を行った。戊辰戦争が終結し、東京に帰還したウィリスは、横浜軍陣病院が移されてできた東京大病院(後の東大病院)に勤めた。そして69年に東京大病院は医学校兼病院と改称され、彼は教授として四肢切断術や麻酔法を教えるようになった。彼は日本の医学を牽引する立場となるはずだった。

<日本における英独の対比>
しかしその直後、明治政府は突然ドイツ医学を採用すると決定し、東京大病院にはドイツ人医師を招くことになった。医学校の整備担当となった佐賀藩出身の相良知安が、ドイツ医学を採用すべきだと強く主張したからである。彼が医学を学んだ順天堂では当時ドイツの教材を使っており、また輸入されたオランダ書の多くはドイツ書の翻訳だったため、ドイツ医学こそ医学の本流であると考えたのだ。
結局、ウィリスは東京を去り、薩摩藩を頼って鹿児島の医学校で教育を行うことになった。彼は、ベッドサイドで臨床重視の医学教育を行い、後に現在の東京慈恵会医科大学を設立する海軍軍医の高木兼寛らを育てた。高木は後にイギリス留学も経て、海軍で実証的な脚気研究を行って脚気の原因を解明した。しかしこの研究は脚気が起こる理論を説明するものではなかったため、ドイツ医学を採用していた東大出身の陸軍医たち、特に森鴎外に痛烈に批判される。陸軍では高木の研究結果が活かされず、陸軍では大量の脚気患者が発生し続けたのである。

<ワクチン研究の発展>
イギリスは1870年代以降も植民地拡大を続けたが、これがイギリスでワクチン研究が盛んになる直接のきっかけとなった。1898年にはスーダンを支配下に置き、1900年に初めてヨーロッパ市民がスーダンを訪れたが、その中の一人がヘンリー・ウェルカム卿であった。彼は劣悪な衛生状態でマラリアや天然痘が蔓延しているのを見て驚き、ウェルカム熱帯医学研究所を設立して衛生状態の改善に努めた。その後熱帯医学研究所は1912年に他の研究所と合併してロンドンに移り、そこでアフリカ睡眠病の研究や黄熱病ワクチンの開発が進められた。
このように、医学の発展にはそれぞれの国の考え方や、経済・政治状況が大きく関わっている。そして西洋医学を一気に輸入した日本でも、その影響を大きく受けているのである。

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