医療ガバナンス学会 (2010年7月13日 07:00)
みなさま、はじめまして。東京大学工学部の西原陽子と申します。今回、医科学研究所の上昌広先生にご紹介頂いたご縁で、初めてMRICに投稿させて頂いております。
「工学も医学も研究していることは同じ」
私は工学部に所属していて、大澤幸生先生(東京大学大学院工学系研究科)と共同で研究活動をしております。普段はデータをパソコンで分析するための色々なソフトウェアを作っています。例えば、インターネットのデータから流行予測をするソフトウェアや、人と人の会話のデータから人間関係を推定するソフトウェアなどを作っています。より大雑把に言ってしまうと、データの中から共通する特徴を見つけるソフトウェアを作っています。
一方、医療でも大量のデータを扱い、病気の治療に役立つ治療方法、薬を開発したりするだろうと想像します。データを分析し、共通する特徴を見出す点において、工学も医学も非常に似通った研究をしていると考えています。
「未分類疾患(難病)発見のプロジェクトとの出会い」
皆様は世の中に未分類疾患と呼ばれる疾患があることをご存知でしょうか? 世の中の病気は全て、分類疾患と未分類疾患に分けることができます。分類疾患は診断方法も治療方法もある程度分かっている病気、未分類疾患は診断方法も治療方法も良く分かっていない病気です。未分類疾患の一部は難病とも呼ばれます。パーキンソン病、クローン病など、特に患者数が多い130個の疾患については、難病の治療方法を検討するための国家プロジェクトが組まれています[参考文献1]。そのプロジェクトの中では、治療方法に関する研究は進められているのですが、診断方法、特に病気の早期診断は余り研究が為されていない状態だと認識しています。
難病は診断も難しい病気ですから、難病に罹った患者さんは診断が付くまでに多くの病院を渡り歩き、診断が付く頃には病気が慢性になっていることもあるそうです。なぜ、難病の早期診断が難しいのかと根本を探って行くうちに、患者さんが語る難病の初期症状(風邪の場合だと、鼻水が出る、咳が出る、熱が出るなど)に関するデータが不足していることに気づきました。難病の初期に出てくるような症状を発見する新しいソフトウェアが開発できたら、難病の早期診断も可能になるのではないか? 難病に限らず、脳腫瘍や白血病など気づくのが遅れると手遅れになりかねない病気に対しても有効な診断を実現できるのではないか?と大澤先生と私は考え、ソフトウェアの開発に乗り出しました。
「難病『網膜色素変性』との出会い」
初期症状を発見するようなソフトウェアを開発するにも、初期症状が少しでも含まれていそうなデータを集める必要がありました。そこで、このプロジェクトを紹介して下さった熊川寿郎先生(国立保健医療科学院経営科学部)にデータ収集の相談をしたところ、平塚義宗先生(国立保健医療科学院経営科学部)と村上晶先生(順天堂大学医学部)をご紹介いただきました。お二人は眼科の先生で、特に村上先生は難病「網膜色素変性」の治療に関する第一人者であります。網膜色素変性は遺伝性の病気と考えられており、目の網膜と呼ばれる部分に黒い斑点が発生する病気で、症状が進行すると目の見える範囲が非常に狭くなってしまう病気です。有効な治療方法は見つかっていません。村上先生に10数名の患者さんをご紹介頂いて、平塚先生と私とで網膜色素変性に関するデータを集めることになりました。
データを集める際に、できるだけ初期症状が含まれそうなデータを集める必要がありました。このとき平塚先生は、網膜色素変性がほぼ遺伝性の病気であることに着目し、遺伝性であれば幼い頃から症状の片鱗が出ているはずだろうと仮説をたてられました。そこで私達は、患者さん一人一人に幼い頃に目が見えづらいことで生じたと思われる不都合、不自由に関するエピソードを語って頂き、そのエピソードをデータとして集めて行くことにしました。そして得られたエピソードを書き言葉に書き起こして、共通する特徴を抽出することができるソフトウェアKeyGraph[参考文献2]を応用した新しいソフトウェアを開発し、初期症状を抽出していきました。
初期症状と思われるデータとしては次のようなものが得られました。
「ノートの罫線が薄くて見えにくい」
「紙に書く字が躍る」
「夜、足下が見えづらくて水たまりに落ちる」
「夕方になると、自転車のライトだけでは道路が見えない」
「朝起きたときに豆電球が眩しすぎる」
「デパートの1階に行くのが辛い」
これらの初期症状を、抽象度を高めてまとめると
・ 暗い所や明るすぎる所は見え辛い
・ 輪郭の細いものを認識しづらい
・ 見える範囲を広げるような行動をとる
と言った特徴があることが分かりました。驚いたことに、これらの症状は眼科の専門医である平塚先生でさえ聞いたことが無いものばかりでした。
「難病を治すのは医療者、難病に気づくのは患者や家族」
今はこのようにして集めた初期症状の妥当性を多方面から検証すると共に、どのようにして社会に還元して行けばよいかを考えています。出来るだけ低コストで、しかも効果的に行う方法の案として、例えば、小学校や幼稚園の先生に初期症状のリストを渡して、症状に合致する子供が居たら注意してもらうように依頼する方法が一つ良いのではないかと考えています。この研究を進めて行くことで、医療者ではなく、患者や回りに居る人が難病の可能性に気づいて行くことができるのではないかと考えています。
ソフトウェアが初期症状として抽出したデータを眺めていると初期症状ではないのですが、難病の診断が付きづらい一因となっているのでは?と思うようなデータがありました。それは「受け入れてしまっている」です。「自分はおっちょこちょいだと受け入れてしまっている」「自分は暗い所は見えないものだと受け入れてしまっている」など、不自由はあるけれど、病気ではなく性格の問題だと片付けてしまっているというデータが出てきました。私はこれを見て、確かに病気を治すのは医療者の仕事だけど、患者が病院に行かねば医療者は病気を治すことができない。病気の治る治らないを決める権利を握っているのは、やはり患者さんなのだと気づかされました。
難病は治りにくい病気ですが、直接生命に関わるものでない場合には、病気に慣れ、病気に応じた生活を実践すべきだと考えます。そのためにはできるだけ早くに診断をつけて頂く必要がありますが、それには患者さんが自分の病気にいち早く気づくことが不可欠です。自分の病気に気づき、適切なタイミングで病院に行く能力を身につける。患者としての能力を育成する面で工学の研究がお役に立てないかと考えています。
[参考文献1] 難病情報センター(http://www.nanbyou.or.jp/)
[参考文献2] 大澤幸生, ネルス E. ベンソン, 谷内田正彦, KeyGraph : 語の共起グラフの分割・統合によるキーワード抽出, 電子情報通信学会論文誌D-I, Vol.J82-D-I, No. 2,pp.391–400, 1999.