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Vol.217 現場からの医療改革推進協議会第十六回シンポジウム 抄録から(9)

医療ガバナンス学会 (2021年11月18日 06:00)


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2021年11月18日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

【Session 09】ポストコロナを考える II 11:45~12:50(司会:鈴木寛)
パネルディスカッション形式
●塩崎恭久 (元衆議院議員)
●立谷秀清 (福島県相馬市長、全国市長会会長)
●佐藤慎一 (元財務事務次官)
●中国的「データ主権」とポストコロナ
石本茂彦 (森・濱田松本法律事務所 パートナー弁護士)

コロナウイルスの震源地でありながら、その後の中国は、広大な国土と膨大な人口にかかわらず、徹底してコロナのコントロールを図り、現状かなりの程度成功しているように見える。その背景には、急速に進んだデジタルテクノロジーの社会実装と、これをベースとする中国政府の強力な情報管理システムがある。
中国のデジタル化は、2000年前後に創業されたBAT(百度、アリババ、テンセント)を中心とする民間企業が牽引し発展してきた。近年は、巨大な国内市場で蓄積されたデータを活用したAI開発でも、中国は国際的に強い競争優位性を見せている。
最近、BATをはじめとする巨大民間IT企業に対する中国政府のコントロールの強化が顕著となっている。独占禁止法と並んでこうしたコントロールの有力なツールとなっているのが、個人情報保護とデータセキュリティの規制である。
中国は、サイバーセキュリティ法(2017年)等を通じて、中国国内のネットワークシステムに対する国家としての主権(サイバー主権)の確立を進めている。併せて、「中身」であるデータに対する国家的コントロールも、今年制定されたデータセキュリティ法などによって強く推し進めようとしている。同じく今年制定された個人情報保護法も、個人の自己の個人情報に対する権利の保護の強化が図られる一方で、国家としての「データ主権」の確立の一環という側面が強く見られる。
もともとデータ主権は、EUにおいてGAFA等から域内市民の利益を保護するという文脈で語られてきた概念である。しかし中国では、国家としてデータの流通やビッグデータの蓄積をコントロールするという、別の意味での「データ主権」が強く志向されていると言える。
こうした中国の状況は、日本経済としてこれをいかに取り込むか、また安全保障・地政学的にいかに対峙するかといった問題だけでなく、ポストコロナにおいて、デジタルテクノロジーの進化に社会としてどのように向き合うべきかという根本的な問題も同時に、日本に投げかけている。

●コロナは国際社会の仕組みを変えるのか? ――安全保障の観点から
後瀉桂太郎 (海上自衛隊幹部学校戦略研究室教官2等海佐)

パンデミックは人類全体に対する脅威であり、人類共通の課題である。したがって気候変動などと同様に、人種や宗教、国家の垣根を超えて人類が協力し合える、数少ないイシューの一つといえるだろう。コロナワクチンの開発と供給を巡って国際社会は協力することもできるし、「ワクチン外交」と呼ばれるように国家の影響力拡大や国益を追求する、対立軸ともなり得る。
では、コロナパンデミックが原因(独立変数)となり、国際社会のシステムや国家間の関係(従属変数)に変化が起こるのだろうか。おそらくそうはならない。コロナパンデミックは世界中の人々の生活に重大な影響を及ぼし、現時点でヒト・モノ・カネ・情報の流れに大きな変化を与えている。しかし現時点で「大国間競争の時代」というトレンドに根本的な変化は見られない。
冷戦期の世界は米ソ対立という二極構造であり、ポスト冷戦期は米国の覇権と並行しグローバル企業・NGO・テロリストといった非国家主体の影響力が拡大した。そしておおむね2010年頃から現在のトレンドは、米国に加え中国、ロシア、インドなどの台頭による、主権国家が再び国際社会の中心的役割を演じる「大国間競争の時代」である。かつて帝国主義列強が覇を競ったが、それは欧米諸国と日本という限られた国家群によるものであった。現在は史上初めて、人種・宗教・文化が全く異なる大国間でグローバルな競争が展開されている。コロナパンデミックへの対応は、軍事や経済、先端技術などにおける大国間競争の一つのイシューとして位置づけられていくことになるだろう。
冷戦後、多くの国家や地域はグローバリズムの下で経済規模を拡大してきた。一方で格差の拡大や価値をめぐる分断も激しさを増している。コロナウィルスの淵源や伝播経路などの情報公開について、多くの国家は中国を批判する。それは単なるコロナパンデミックへの対応を超え、言論の自由や情報通信の自由化、さらには民主主義や人権といった「価値」を巡る対立構造を内包している。
●日本人の死生観の再構築
鳥越俊太郎 (ジャーナリスト)

日本人はいつ、どのようにして斯くも死生観を失い、コロナウイルス如きの前で右往左往する国民になってしまったのか?
私自身は昭和戦前生まれ(昭和15年)で、5歳の頃は毎日のように空襲警報のサイレンが鳴り響き、防空壕に飛び込んだ経験がある。家族親戚の誰かが傷つき戦場で倒れ、死は日常であった。もう一つ、結核は日本人の命を容赦無く奪っていった。父方の叔父叔母3人を結核で亡くしている。また母方も叔父1人は若くして結核に倒れた。さらに子供の頃、お墓で遊ぶうち、墓石のずれた先に骨壺の中にある白い人骨を目撃した。以上のような経験から私は若い頃、自分の命はやがて尽きる、という事実の前に強烈な衝動を抑えられないことがしばしばあった。
ちなみに1944年の結核の死者は、10万人あたり241人。日本の現人口に当てはめると何と約31万人。コロナの死者は20ヶ月で1万8千人弱。比較にならない数字だ。死生観と言えば、織田信長27歳の折、桶狭間の戦いに臨む朝、謡曲「敦盛」の一節、「人間50年化天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け滅せぬもののあるべきか」を一指し舞ったという。戦国武将なりの死生観だったろう。日本人は、高度成長期、豊かな社会の中で死生観を失っていったように思う。
今回のコロナに対する過剰反応は、ひとえにメディアの情報災害(長尾和宏「コロナ禍の9割は情報災害」)によるものだと思う。感染症の一部専門家とメディアがここぞ出番と思い込み、死生観なき情報を流し続け、日本人特有の同調圧力とあいまって欧米とは異なるコロナ禍を作り出した。ポストコロナの課題として、貧困・格差社会の深刻化する2020年代の日本にふさわしい死生観を共有したい。(10/5日 記す)

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