医療ガバナンス学会 (2010年8月19日 06:00)
時の権力・その他からの「患者の人権侵害」を擁護するために必要とされるのがprofessional autonomyである。「患者の人権擁護を医療倫理の第一」とすることによりprofessional autonomyを維持・実践することが医療倫理となる。それを維持・実践しなければ医療倫理違反となる。医療倫理は「個人の努力まかせ」では守れなかった。「個人の努力だけでなく、システムで補完」するための医師集団内のシステムがself-regulationである。「個人の努力だけでなく、システムで補完」しようという考え方は医療安全と同じである。
日本の医療界は「患者の人権擁護を医療倫理の第一」とすることを宣言(profess)していない。だから日本のプロフェッショナル・オートノミーは「患者の人権擁護」のためではない。だから国民や患者から支持されない。そして日本の医療界は閉塞状態から抜け出せない。
なぜこうなったのか。それはつぎの構図による。
日本医師会の国内向け情報操作
↓
日本語という壁による「世界の常識」からの鎖国状態
↓
日本の医療界の「ガラパゴス化」
↓
日本の医療界の閉塞状況(医療不信、医療崩壊)、である。
インフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンを知らない医師はいないだろう。しかし世界医師会(WMA)のいう「professional autonomy and self-regulation」が「患者の人権擁護のためのシステム」、「医療倫理の遵守のためのシステム」だということを日本の医師は知っているだろうか。「世界の常識」を知らない(あるいは知らされていない)日本の医療界、これこそが「鎖国状態」と呼ぶべき状況である。そして独特のプロフェッショナル・オートノミーを発展させている。これが「ガラパゴス化」である。そして、閉塞状況から抜け出せないのだ。
「医療倫理は個人の努力で守ればよい」、「私は倫理違反をしていないので問題ない」というところが、多くの日本の医師の考えであろう。すなわちこれが医療倫理観についての「日本の常識」である。ところがである。この「日本の常識」が医療界の閉塞状況をもたらしているということに気づいていない。日本医師会の国内向け情報操作を止めさせ、日本の医療界は「ガラパゴス化」から脱却しなければならない
はじめに「世界の常識」を見てみよう。
【1】医療倫理観の「世界の常識」とは。
まず医療倫理観の「世界の常識」を確認しよう。世界医師会の「professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言の考え方を整理すると以下のようになる。
(1):医療倫理の第一は「患者の人権擁護」である。基にあるのは、ナチス政権下の人権侵害への医師の加担に対する反省である。
(2):professional autonomyは医療倫理の本質的原則である。なぜなら、「時の権力、その他からの患者の人権侵害」を擁護する(という医療倫理を遵守する)ためには、個々の医師が時の権力、その他からの「強迫があるとしても(even under threat)」、professional autonomyを維持することが必要だからである。そして、professional autonomyを守らない医師は倫理違反を犯したことになる。
(3):医師による倫理違反(もちろんprofessional autonomyを守らない医師を含む)に対しては、医師集団内部の「医師間の相互評価(peer review)」による自浄機能を持つシステム、すなわちself-regulationのシステムが必要である。基にあるのは「医療倫理の遵守を『個人の努力まかせ』にしていて、医師による人権侵害という医療倫理違反が起こった」ことへの反省である。これは医療安全の考え方と同じである。「医療安全を『個人の努力まかせ』にしていて、医療ミスは起こった」ことへの反省から、「個人の努力だけでなく、システムで補完しよう」となったのである。
(4):professional autonomyとself-regulationはコインの裏表の関係にある。それぞれが他方を必須とするからである。professional autonomyを維持する(という医療倫理を遵守する)ためには、有効に働くself-regulationのシステムが必要である。また一方、医師集団内部のself-regulationのシステムが有効に働くためには、医師集団として「時の権力・その他」からの「autonomy(自律)」を「profess(宣言)」する必要がある。なぜなら、「時の権力・その他」に律せられると(すなわち他から律せられる=自律の反対の他律では)、 self-regulationのシステムが有効に働かなくなるからである。
(5):このようにしてprofessional autonomy とself-regulationは一体として、「患者の人権擁護」のためのシステム、「医療倫理の遵守」のためのシステムとなるのである。医療倫理の第一を「患者の人権擁護」とし、医療倫理の遵守を「個人の努力だけでなく、システムで補完しよう」とすると、このようになるのである。
これが世界医師会が示し、各国が受け入れた「世界の常識」である。これに至った経過は「その2.」で述べる。
【2】「患者の人権擁護」の背景。
「患者の人権擁護」の思想は、ルーツをたどればカント(Immanuel Kant, 1724~1804)の「人間性」に行き着く。カントはつぎのように述べている。
「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に存する人間性を、常に同時に目的として取り扱い、決して単なる手段として取り扱わないように行為せよ。」[1]
カントの考えを医療倫理に導入したのがフーフェラント(Chrstoph Wilhelm Hufeland、1762―1836)である。彼の「医学必携」の最終章の現代訳「医の倫理」[2]ではつぎのようになっている。
「その際、医師は患者を決して手段として見るのではなく、常に目的として見なければなりません。つまり患者を生物実験の単なる対象として、あるいは単なる医術の対象として見るのではなく、患者を人間として、自然そのものの最高目的として見なければならないということであります。」
これはまさにヘルシンキ宣言に盛られた考えではないか。フーフェラントの「医の倫理」の抄訳が緒方洪庵の「扶氏医戒之略」である。そこではつぎのように述べられている。
「其術を行ふに当ては病者を以て正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ。(後略)」。
【3】「professional autonomy and self-regulation」の背景。
professional autonomyのautonomyとは、個人の「意志の自律」を意味するカントのAutonomieの概念を、医師集団を人格とみなして外挿したものである。
道徳的行為を生み出すための根本的条件を、カントはつぎのように言っている。「君の確率がすべての人に妥当する普遍的法則となることを欲するような格律に従って行為せよ」と。「格律」とは主観的な行動原則をいう。「すべての人に妥当する普遍的法則」は現実には存在しない。しかし「それを欲するような格律に従って行為せよ」と言っているのである。すなわち「主観的な行動原則」を自身の理性が絶えず批判(Kritik)=自己評価して、「現実には存在しないが究極の」普遍的法則に近づけなさいと言っているのである。その結果は、自身の理性がみずから創造した道徳的法則に服従しこれを自分自身に課することになる。これを意志の自律Autonomieと言っているのである。この道徳的法則は神から与えられたものでもなく、「時の権力」から押し付けられたものでもない。AutonomieとKritikはコインの裏表のように切っても切れないものである。KritikなくしてAutonomieはあり得ないのである。カントは神(キリスト教という精神世界)からの、そして「時の権力」(王制という現実世界)からの(個人の)自律を望んだのである。
集団に外挿すればつぎのようになる。集団としての道徳的法則すなわち倫理綱領を公表・宣言(profess)し、絶えざる集団内の相互評価(self- regulation)により、集団構成員を倫理綱領に従わせる義務が生じることになる。その義務を果たすことによってその集団は自律 (autonomy)を得ることが出来るのである。自律を得ることにより、「時の権力」や他の圧力など、反道徳的な外部から律せられる(他律)ことが無くなり、倫理綱領を遵守することが可能となるのである。カントのAutonomieとKritikは精神世界のことであるが、集団における professional autonomyとself-regulationはそれぞれ、反道徳的な外部および内部から、倫理綱領の内容を遵守するためのシステムとなるのである。
Professional autonomyとself-regulationとはコインの裏表のようなものである。概念として分けることはできない。しかし現実のシステムにすると上述のように分かれるという事である。Professional autonomyとself-regulationは一対のシステムであり、どちらか片方だけ実行するということは成立しないのである。
カントのAutonomieとKritikの思想は「扶氏医戒之略」ではつぎのように述べられている。
「然りといえども実にその誤治なることを知て、之を外視するは、亦医の任にあらず。」
フーフェラントの「医の倫理」ではつぎのように述べられている。
「けれども万一その患者が間違った治療を受けていると分かったならば、もちろん患者の救済という医術の最高目的があるわけですから、同業のよしみを斟酌することなどはすべて後回しにして、この目的を果たすべきです。」
フーフェラントの時代の「誤治」、「間違った治療」を、現在に通じるように「患者に対する人権侵害」と読みなおせば良いだけである。
カントの「人間性」の思想、「AutonomieとKritik」の思想は、フーフェラントの医療倫理となって、幕末すでに日本に入ってきているのであり、洪庵の「扶氏医戒之略」を介して日本の医療界にも大いなる影響を与えてきたのである。「緒方惟準は、明治20年3月、これを活版印刷にして、「医戒十二要」という名称で各府県の医師会に配布した。第16回日本医学会総会(昭和38年、1963、於大阪)では、洪庵の100年忌を記念して、洪庵自筆のものが復刻されて、広く配布された。」[3] のである(注:緒方惟準は洪庵の二男)。洪庵の「扶氏医戒之略」を日本の医師はもう一度、読み返してもよいのではないだろうか。もちろんパターナリズムを「患者の人権擁護が第一」に置き換えてではあるが。たまたま今年(2010年)は洪庵の生誕200年にあたっている。
[1] 篠田英雄訳「道徳形而上学原論」岩波文庫、1960、103頁。
[2] 杉田絹江・杉田勇共訳「フーフェラント自伝・医の倫理」、北樹出版、1995。
[3] 伴忠康著「適塾をめぐる人々:蘭学の流れ」創元社、1978。