医療ガバナンス学会 (2010年8月20日 06:00)
ベイラー研究所フォートワースキャンパス: ディレクター
東京大学医科学研究所・先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携部門: 客員研究員
松本慎一
2010年8月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
現在、我々は今までに人類が経験をしたことがない情報化社会に直面している。TwitterやFacebookでさまざまな職種の個人が意見を述べ、時に一夜にして世論が変わる。見過ごされていた問題が重要な課題に変わることもしばしば目の当たりにする。
このように、目まぐるしく情報が行きかう現代において、変化に対応することが米国での最大の関心ごとの一つである。「CHANGE」を唱えたオバマ氏が大統領になったことは、多くの米国の人々が変化への対応の重要性に気がついている現われである。
私が所属しているベイラー研究所そしてベイラーヘルスケアシステムも変化への対応を急いでいる。ベイラーヘルスケアシステムは、テキサス州で急成長をしている医療システムである。CEOであるMr. Joe Allisonは、5年以内に全米ベスト5の医療機関を目指すと公言している。実際に、この目標を実現させるために、テキサス州カウボーイズスタジアムに 2011年のスーパーボールの誘致に成功したMr. Bill Livelyを後述のベイラーヘルスケア基金をリードするために引き抜いている。ベイラーのリーダー研修で講演したMr. Livelyは「スーパーボールとベイラーはとても異質に見えるかもしれないが、最大の共通点は両者ともテキサスの誇りであり、ベイラーからのプロジェクトによろこんで参加した。」と発言し会場を沸かせた。
ベイラーヘルスケアシステムはキリスト教の精神の元、26の病院と31の外来診療所と131のクリニックを抱える医療システムであり、さらに、最先端の医療を導入するためにベイラー研究所を有している。ベイラー研究所は、ダラスに本拠地を持つ免疫学研究所であるBaylor Institute for Immunology Research、とフォートワースに本拠地を持つ膵島移植の研究所であるBaylor All Saints Islet Cell Laboratoryの二つの独立した研究機関を有する。ほかに、ベイラーヘルスケアシステムに所属する病院での臨床治験を支えるための Institutional Review Board (IRB)、動物実験を支えるInstitutional Animal Care and Use Committee (IACUC)、生物統計部門、そして、特許や外部との交渉を担当するリーガル部門からなる。また、研究を経済的に支えるために、ベイラーヘルスケアシステム基金がダラスに、オールセインツヘルス基金がフォートワースにある。これらの基金は、地元からの善意の寄付金を集めており、寄付を行った方や企業の希望の部門やテーマ、あるいはベイラーの発展のために重要な部門に資金を提供している。
【成長戦略における基金(Foundation)の重要性】
成長を成し遂げるためには、イノベーションが不可欠であることは誰しもが認めるところであろう。イノベーションの結果、今までなかった新しい価値や仕事そして産業が生まれ、発展する。イノベーションを実現するためには研究が不可欠であり、研究には費用がかかるのだが、うまく利潤につながるイノベーションが生まれると投資した研究費は’生き金’となり、何倍にもなって戻ってくる。ただし、すべての研究がこのようにうまくイノベーションを生み出すとは限らないし、むしろ、何倍にもなって跳ね返るイノベーションはまれである。このため、研究費の多くは、支出として無駄となる可能性をはらむ。医療機関が成長するためのイノベーションには研究と研究費が必要なのだが、このような金銭的なリスクがあるため、病院自身が研究機関をもつことは難しい。ベイラーヘルスケアシステムが研究機関を持つことができるのは、資金提供を担当する基金があるからである。この基金の仕事は、前述のように、地元の企業や一般の市民から寄付金を集め、そのお金を有効活用し、寄付いただいた企業や一般市民に寄付したことを満足していただくことにある。ここで重要なのは、寄付をした側が、「社会的に貢献した。よいことをした。」と実感し、満足することである。このため、基金は、毎年地元で最大のホテルを使って、寄付に対する感謝のパーティーを開き、貢献して頂いた方々を表彰する。また、基金のプレジデントは、寄付の尊さを機関紙を通じてやパーティー時に真摯に感謝する。そして、ナイチンゲールの言葉、「ヒトの幸せは、物質的な豊かさで得られるのではなく、いかに自分が人類に貢献できたかで得られる。」を引用する。
【ベイラー研究所の成長戦略】
ベイラーヘルスケアシステムは、巨大な医療システムであるが、前述のように独立した研究機関はダラスの免疫学研究所とフォートワースの膵島移植研究所の 2箇所だけである。これは、「ベイラー研究所での研究は患者さんの利益に直結した研究であるべき」という研究所のプレジデントのDr. Mike Ramseyの信念による。研究分野を厳選するが、選んだ研究分野は世界のトップにするために手厚くサポートを行う。選ばれた分野のリーダー選びは極めて重要と考えられており、米国内からだけではなく世界中からリーダーとなる人物を探す。ヒト免疫学のリーダーであるDr. Jacques Banchereauはフランスから呼ばれ、膵島移植の研究所は私が日本から呼ばれた。選ばれたリーダーは世界でトップの研究実績のみならず、その成果が直接患者さんに還元すること、さらに、ベイラーに利潤をもたらすことを課せられる。
世界で最高水準の研究であることと患者さんに直接還元することは、基金活動にとって極めて重要である。これは、一般の市民が、ベイラーに寄付をしようと思う原動力になるのが、ほかの病院では治らなかった病気が治ったという喜び、あるいはベイラーなら治してくれるであろうという期待であり、世界最高水準の研究が地元で行われているという誇りであるからだ。Dr. Ramseyの「患者さんに直接還元できる世界最高の研究のみをサポートする」という考えが、基金活動にも生かされる。つまり、患者さんに還元できる最高の研究をベイラーが実施しているという事実が宣伝効果を生み出し、基金がこの宣伝効果をうまく活用することで更なる寄付を獲得するという、好循環を生み出している。
この戦略での最初の鍵が、どの分野の研究が患者さんに直結するかの見極めである。ベイラーでは20世紀の奇跡と言われている移植医療を選択した。これは、移植医療が従来の不治の病を治すことを実感したからである。移植医療を発展させるべく、当時、移植での最大の問題点であった拒絶反応を解決すべく免疫学研究所が設立された。現在、ベイラーは肝臓移植の分野で米国をリードする医療機関の一つとなり、スエーデンからリクルートされた移植部門のトップである Dr. Klintmalmはアメリカ移植外科学会の会長を務めている。また、経済面での貢献としても、移植部門はベイラーヘルスケアシステムの中でも稼ぎ頭となっている。Dr. Banchereauがリードするヒト免疫学でもベイラーは世界をリードする位置にあり、免疫研究所からのイノベーションとして今まで不治といわれていた悪性黒色腫の免疫治療に成功したり、外部から巨額の研究費用獲得にも成功している。イノベーションが極めてうまくいった事例だ。
2000年に膵島移植という細胞移植により1型糖尿病患者がインスリン治療さえ不要になったという臨床の成功例を知り、ベイラーは次の課題を膵島移植に決定した。選択の際の最も重要なポイントは、「すでに患者さんを不治の病から救った臨床実績」である。ライフサイエンスの世界では、多くの基礎研究が実施されているが、それが本当に臨床に役に立つことは極めてまれである。このため、医学の基礎研究を利潤につながるイノベーションへ発展させることはほぼ不可能である。つまり、ライフサイエンス分野で、実際に成長をしたければ、「臨床成功例からテーマを探す」ことが一番の近道である。
ここで、一番難しいのは、患者さんに直接還元できる、世界最先端の研究をリードする人物の発掘である。この作業が重要であり、難しいことを理解しているため、ベイラーでは人材を世界中から探すのである。
【膵島移植研究所の戦略】
生体ドナー膵島移植の成功例が評価され、私は2007年に、ベイラーの膵島移植をリードするためにリクルートされた。膵島移植のプロジェクトに私が課せられた課題は、世界最高レベルの研究をすることはもちろん、3年でこのプロジェクトを経済的にも自立させることであった。
膵島移植は、糖尿病を完治させる治療ではなく、インスリン分泌能力を補う、細胞補充治療である。膵島移植により、血糖値が劇的に安定化し、インスリン注射も不要となるが、病気から開放されるわけではない。このため、膵島移植は患者さんの生活の質(Quality of Life; QOL)を向上させる治療として位置づけることができる。ここで、大切なのは患者さんのQOLが改善したどうかは、医療者が判断すべきではなく、患者さん本人が実感することなのだ。つまり、患者さんがよかったと実感し満足することこそ膵島移植の目標なのである。
この目標を達成するために、1型糖尿病の患者会の協力のもと患者さんの意識調査や最先端医療に望むことは何かを調査した。我々は、患者さんは血糖値が安定化して合併症を防ぐことが重要と考えていたのだが、患者さんの希望はさらに先を行き、血糖値の安定化とともにインスリン注射から開放されることを実は望んでいた。そこで、ベイラーでは、膵島移植の目標は、血糖値の安定化からさらに発展させ、インスリン注射からの開放としている。
2007年から3年たち、ベイラーの膵島移植は、膵島分離の成績は世界でトップとなり、目覚しいイノベーションがいくつも生まれ移植成績も劇的に改善している。患者さんが望んでいるインスリン注射からの長期離脱も成功例が生まれている。私自身、昨年と本年は、移植最大の学会であるアメリカ移植学会の膵島移植および細胞治療分野のサイエンスプログラムのチェアを任されている。我々の、患者さんが満足する膵島移植を目指す研究の成果は、移植分野での最高峰の TransplantationやCell Transplantationという雑誌にこの3年で20本近くの論文がアクセプトされた。ベイラーから課せられた世界最高水準の研究は予想通り達成できている。もう一つの経済的自立は、悪戦苦闘しながら何とか達成できている。患者さんの満足が得られる移植を目指す態度は、地元の人たちの理解が得られ、膵島移植のための寄付金が集まっている。また、膵島移植のための膵島分離技術を利用し、腹痛が激しい慢性膵炎の患者さんから膵臓を全摘出術し、摘出された膵臓からの膵島を分離し移植する膵島自家移植を実施している。この慢性膵炎のための膵島自家移植は、糖尿病を防ぎながら疼痛を激減させるという有効性が認められすでに標準治療となった。つまり、膵島移植チームが研究の成果としてベイラーに新たに生み出した治療であり、すでに利潤をベイラーに還元している。 1型糖尿病のための膵島移植も、標準治療にするためのPhase3の臨床治験の準備が着実に進んでおり、もうすぐ標準治療となるところまで来ている。膵島移植が標準治療になれば、当然提供臓器の不足が次の課題となる。この問題の解決策の一つとして、私自身が日本で唯一の成功例として経験がある生体ドナー膵島移植の米国での導入を検討している。
【ライフサイエンス分野での成長戦略】
私が米国で学んだことは、ライフサイエンスでの成長戦略において、「臨床での成功がスタート」であるということである。将来的に臨床応用が期待されるであろう基礎研究は、臨床応用に成功するまでは成長戦略に入れるべきではなく、巨額の投資には不向きである。逆に、すでに臨床応用で成功してる分野は、さらに、利潤を生むためにはどうするかを、行政や政治家など様々な人々の協力を獲て多角的に検討することで、最大限に利潤を創造できる可能性が高い。このための、巨額投資は’生き金’として、数年以内に何倍もに膨れて戻ってくるであろう。
もう一つ大切なことは、医療の原点は患者さんであり、患者さんとの真摯な対話が新しいイノベーションに不可欠ということである。血糖値を安定化させ合併症を防ぐことが大切と考えていた膵島移植はもはや患者さんのニーズに合わず、インスリン注射からの開放が膵島移植の効果として患者さんから期待されている。情報が激しく行きかう現代では、患者さんの意識や希望は日々変わり、この変化に対応できない医療は成長戦略としては不合格である。多くの患者さんとの真摯な対話と、対話から得られた膨大な情報に対する分析が今後ライフサイエンスでの成長戦略でも重要となるであろう。
【最後に】
米国でも、リーマンショックに端を発する経済危機にいまだあえいでおり、米国での研究活動も決して理想的とはいえない。このような時期でも、知恵を絞ることで今後すべき挑戦や未来のゴールが見えてくる。成長戦略は、今最も重要な挑戦であり、イノベーションによる活気あふれる未来がゴールである。
「人生でもっとも輝かしい時は、いわゆる栄光の時でなく、落胆や絶望の中で人生への挑戦と未来への完遂の展望がわき上がるのを感じたときだ。」
これは、私が好きなナイチンゲールの言葉の一つである。