医療ガバナンス学会 (2010年8月25日 06:00)
【1】日本医師会の医療倫理観。
(その1)、(その2)で述べてきた「世界の常識」をまとめるとつぎのようになる。
(1):医療倫理の第一は患者の人権擁護である。
(2):医療倫理の遵守は、これまでの「個人の努力まかせ」ではダメであるから、「個人の努力だけでなく、システムで守ろう」というのである。これは医療安全の考え方と同じである。そのシステムが「professional autonomy and self-regulation」である。
それでは日本医師会の医療倫理観は、「世界の常識」とどのように違っているのであろうか、まとめると次のようになる。
(1):日本医師会の「医の倫理綱領」には「患者の人権擁護を医療倫理の一番」とする考えは無い。「患者の人権擁護そのものに異存は無いとしても」(日本医師会「医の倫理綱領注釈」より)という程度の「患者の人権」意識である。一番最初に患者の人権擁護をあげているアメリカ医師会の倫理綱領とは対照的である(その2.参照)。
(2):医療倫理の遵守は「個人の努力まかせ」である。「倫理は社会的ルールといえるが、基本的には個人的、内省的、非強制的なものであり、各個人が自覚を持ってルールを認識しそれを遵守することが最も大切であることは言うまでもなく、この倫理指針がそのお役に立てば幸甚である。」(日本医師会「医師の職業倫理指針」序文より)。これは個人の倫理と集団における倫理指針との混同である。この医療倫理観が「個人の努力だけでなく、システムで守ろう」という医療安全の考え方を進める上で障害となっているのである(2010年6月MRIC no.215掲載)。
日本医師会の以上のような医療倫理観が、つぎに述べる「国内向け情報操作」によって、「日本の常識」となっているのである。すなわち、多くの日本の医師が「医療倫理は個人の努力で守ればよい」、「私は倫理違反をしていないので問題ない」という考えになっているのである。
【2】日本医師会の「国内向け情報操作」のルーツ。
キッカケは世界医師会東京総会(1975)である。
「患者の人権擁護が医療倫理の第一」とする「世界の常識」が、具体的な形で日本に入ってきたのはインフォームド・コンセント(患者の自己決定権)である。それが東京総会である。その時の状況を述べた日本医師会の「医の倫理綱領注釈;医の倫理の変遷」[1] と、水野肇氏の「誰も書かなかった日本医師会」[2] を見比べてみよう。日本医師会が国内向け情報操作を必要とする、「その理由」が明らかになるだろう。
「ニュールンベルグ裁判で第二次世界大戦中に行われたナチスの非人道的行為が明らかにされたのを受けて、第18回世界医師会総会(1964)は、ヒトを対象とする医生物学的研究における被験者の人権擁護を目的として『ヘルシンキ宣言』を採択した。さらに、1975年の東京総会においてその改正案を採択し、インフォームド・コンセント(informed consent)が不可欠であることを宣言した。この宣言はその後数回にわたり改定されているが、医の倫理として広く各国で承認されている。」[1]
「ニュールンベルグ裁判でドイツの学者が裁かれたことは本人の了解をとらない人体実験で、日本軍が満州でやった石井部隊の人体実験と同一のものである。これを医師会全体のものとして自戒しなければならないという取り入れ方を世界の医師がしたのは世界医師会の力である。大幅に修正されたのはヘルシンキの世界医師会大会(1964年)ともう一回は東京大会(1975年)である。東京大会の時の会長は武見太郎だった。これはあとでわかったことだが、武見は記者会見で、このインフォームド・コンセントの説明はしなかった。このため、当時の新聞にはこのことが一行も触れられていない。おそらく武見が故意に説明しなかったのだと思う。」[2]
水野肇氏の「誰も書かなかった日本医師会」の内容は、あたかも日本医師会の「医の倫理綱領注釈」の内容を踏まえて、それを批判しているように見える。日本医師会が国内向け情報操作を行わなければならない「その理由」はその歴史認識にある。すなわち日本医師会は、「日本軍が満州でやった石井部隊の人体実験」が「ニュールンベルグ裁判でドイツの学者が裁かれたことは本人の了解をとらない人体実験」と同じであると認めない(あるいは認めたくない)のである。しかし「世界の医師」は「これを医師会全体のものとして自戒しなければならないという取り入れ方を世界の医師がした」のである。だから、日本医師会は国内向け情報操作を必要としたのだ。「おそらく武見が故意に説明しなかったのだと思う」と書かれているように、当時の武見太郎会長が最初の国内向け情報操作を行ったのである。たんに、「武見太郎がパターナリズムの権化のような人だった」(水野肇、同)というような個人的理由だけではないだろう。
【3】「国内向け情報操作」の必要性をさらに引き継いだ日本医師会「生命倫理懇談会」。
「日本軍が満州でやった石井部隊の人体実験」が「ニュールンベルグ裁判でドイツの学者が裁かれたことは本人の了解をとらない人体実験」と同じである、と認めないのが日本医師会の歴史認識である。その当然の帰結として、日本医師会は「患者の人権擁護が医療倫理の第一」という「世界の常識」を受け入れることができない。そこで日本医師会は「世界の常識」を受け入れない理由を、その歴史認識以外に求めなければならなかった。それが「社会状況」である。つぎの文章がそれを示している。
「しかしこれは、個人主義を基盤とする西洋型の民主主義社会で起こってきた考え方であり、わが国は欧米とは異なった社会状況にあることから、わが国に適したインフォームド・コンセントの構築が求められる。すなわち、患者の人権擁護そのものに異存は無いとしても、むしろ医師と患者との間のより良い人間関係や信頼関係を築くうえで、インフォームド・コンセントは大切なものであると考えるべきである。(第II次生命倫理懇談会:「説明と同意」についての報告)」[1]
この文章は「社会状況」が異なるから「世界の常識」が受け入れられないと言っているのであるが、その意味するところをもう少し詳しく見てみよう。「わが国は欧米とは異なった社会状況」とは何か。それはすなわち「日本軍が満州でやった石井部隊の人体実験」が「ニュールンベルグ裁判でドイツの学者が裁かれたことは本人の了解をとらない人体実験」と同じであると認めない「社会状況」である。日本医師会は自身の歴史認識によって「世界の常識」を受け入れないのではなく、そのような「社会状況」にあるから「世界の常識」を受け入れないと言い換えているのである。この言い換えは何を意味しているのであろうか。
「個人主義を基盤とする西洋型の民主主義社会で起こってきた考え方」により、「医師会全体のものとして自戒しなければならないという取り入れ方を世界の医師がした」のである。すなわち「自律」が「世界の常識」となっているのである。professional autonomyとは「時の権力」からの「患者の人権侵害」を擁護するためのシステムであることは前稿(その1.)で示した通りである。「時の権力」にモノ申すためには、「時の権力」からの自律が必要なのである。これが「世界の常識」である。
一方、日本医師会の医療倫理観は「社会状況によって律せられる」、すなわち「他律」であることを自ら告白したのである。これでは「社会状況」からの「患者の人権侵害」を擁護することはできない。だから「患者の人権擁護そのものに異存は無いとしても」程度の人権意識しか持っていないのである。その程度の「患者の人権擁護」しか考えていない医師が、「医師と患者との間のより良い人間関係や信頼関係を築くうえで、インフォームド・コンセントは大切なものであると考えるべきである」とするのは矛盾である。日本医師会の医療倫理観自体が、「世界の常識」に比べてより悪い医師・患者関係しか結べなくしているのである。
この矛盾を覆い隠すために、さらに日本医師会は「国内向け情報操作」を必要とした。とくにprofessional autonomyに関する「国内向け情報操作」が必要となったのである。それは具体的には世界医師会の翻訳に現れてくる。
[1] 日本医師会の「医の倫理綱領注釈」、平成12(2000)年2月2日。
[2] 水野肇著「誰も書かなかった日本医師会」、草思社、2003、166-167頁。