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Vol.22054 大学生活前半を振り返って

医療ガバナンス学会 (2022年3月8日 06:00)


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浜松医科大学医学部医学科4年
鎌本紗衣

2022年3月8日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

先日、ふとこれまでの大学生活を振り返ってみようという気になり、振り返ってみた。

思い返せば、大学入学以降、私は様々な違和感を覚えてきた。なんで、テストってだけで勉強しよう、となれるのか。テストがあろうと自分の中でその時他にやりたいことがあったら私は迷わずそっちをギリギリまで優先した。日本教育が刷り込みに失敗したのか、条件反射のように勉強する気はどうも起きなかった。なんで、先輩がやってきたように、みんなと同じようにやるのがベストなのか。安全だというのはわかるが、方法は一つでないのに。なんで、みんなと違う人が除け者のような扱いをされるのか。面白くていいのに。高校生の時には感じなかった違和感だ。自意識過剰かもしれないが、周りとの違いを感じ、孤独を感じるときもあった。入学して数ヶ月は軽いカルチャーショックを受けた。だが、夏までには大学に期待をするということを完全にやめた。大学生だし、学校がすべてではない。周りとは違う選択を、それもできるだけ医学部らしくないことをしようと決意した。それが将来自分の人との差別化となり、価値になると思ったから。

そこで、私が一番初めに手を出したのが、基礎研究だった。(あ、これは別に医学部らしくなくないですね。)入学した次の週には研究室の門戸を叩き、当時は近藤さんという助教の先生にピペットマンの使い方から細かく一から十まで付きっきりで教えていただいた。今思い返してもその時間は楽しかった。薬品が棚にびっしり並ぶ研究室に踏み入れた瞬間の感動は忘れられない。そして連日、夜遅くまで近藤さんから実験の仕方、考え方を学んだ。蛍光顕微鏡で、特定のタンパク質にGFPをくっつけてクローニングをした細胞が光るところ見て、よくわからない毛がびっしり並んでいるのを発見した時は本当にワクワクした。学校が多少退屈でも大学に入って良かったって思えた。

近藤さん以外にも呼吸器外科の高梨先生や大学院生とはよく明け方まで語り明かした。今でも重症だが、さらに重症だった大学入学当初の尖っていて偏屈な考えをしていた私の話を聞いてくれ、とことん議論してくださったことはとても感謝している。本当に楽しく、自分の中で考えが進む大きなきっかけであったと振り返る。皆かなり個性的だが心優しく、私はかなり救われた。

ところが、近藤さんが9月で北大に移動になってしまった。直接教えてくれる指導者を失ったのだ。他の先生方も気に掛けてはくれたが、基本は一人でやっていくことになった。近藤さんに教えて頂いた言葉をびっしり敷き詰めたノートと睨めっこをし、バングラデシュ人の大学院生たちに質問しまくりながら、私は何とか実験を成功させようと頑張った。その一方、研究室からは優秀な先生方がどんどんいなくなってしまい、頼れる人がいなくなっていき、研究室自体の勢いもかなり落ちていった。数えきれないほどの失敗を経験した。実験は一回失敗したら、一からやり直しで、2、3週間の努力が水の泡と化す。また振り出しに戻るのだ。結局、大学3年生までかなりの時間を費やしたが最後まで成功させることはできなかった。本当に悔しかった。実験自体をしている人が減り、私一人ではできないと判断した、というよりも半分投げ出してしまったのだ。もっと違う方法を取ればよかったかもしれないが、私は自分一人でやっていく能力のなさを痛感し、私にとって環境は大事だということを感じた。今思い返しても、不完全燃焼で終わっていて非常に苦い思い出だが、成功よりも失敗を幾度となく繰り返したことから、様々な事を学んだ。

先ほどの基礎研究の次に自分が始めたのがバイトだ。お金が欲しかったのもあるが、主な目的はそこではない。私は、大学に入ったら社会を知る必要があると自負していた。なぜなら、私が将来相手にするのは社会で生きている人々であるにも関わらず、あまりにも私が社会を知らなかったからだ。その方法として、様々なバイトを経験することが一番簡単に取れる方法であり、尚且つ色んな人と知り合える方法だと判断した。

特に大学1、2年生のうちは単発のバイトをたくさん経験し、時給1000円を超えるバイトは極力しないようにと自分に課した。なぜこのことに固執したかというと、医学部に入ると優遇されているように感じる雰囲気があるが、そんな謎のプライドは持ちたくなかったからだ。どんなことでもやる、自分を特別視せずにみんなと同じラインでやる、その精神を忘れずにいたかった。旅館の泊まり込みバイト、ホテルの清掃、スーパーで肉の日の行列を案内する係、看板をずっと持つバイト、ラグビーのスタジアムで子どもが投げるラグビーボールをずっと拾うバイトなど様々なジャンルのものを選択し、取り組んだ。

初めての環境でその場で仕事を覚えるのは楽ではない。一度覚えてしまい慣れた仕事をする方が余程楽だが、あえて毎回違うことをした。これを通して私が身につけたかったことは大きく三つある。一つ目は、様々な年齢、職業の人を見たかったということだ。二つ目は、その場で仕事を覚え+αをつけて直ぐに実行できる能力を身に付けたかったということだ。これは訓練だと思って鍛えたつもりだ。三つ目は、色んな仕事を経験してその大変さを体感したかったということだ。看板は一日中持つととても重くて疲れる。百聞は一見に如かず、経験しなければ楽だと思ってしまっていたかもしれないが、どんな仕事でも大変だと知ることができた。実際、様々なバイトを通して私はこれらの目的を自分の中である程度満足のいくところまで達成できたと考えている。

次は長期バイトの中で特に勉強になったバイトでの経験を二つ紹介する。

まずは、ビュッフェ形式の飲食店でのバイトだ。私がこのバイトを選んだ理由は極めて単純である。大学生と言えば皿洗いだと思ったからだ。コロナ前は混む日は一日に100万円以上を売り上げ、ウェイティングも出る程、忙しいお店のキッチンを担当した。料理の差し替えをするだけと想像するかもしれないが、かなり本格的な料理も作る。料理を仕込みながら、前に出ている食べ物を補充し、人が足りていないときにはホールのヘルプに回る。本当に忙しい日は間に合わない。大量のやることリストができ、優先順位を付けながら、順番にこなす。時にはどう頑張ったって間に合わないと割り切ることも必要だ。その方がかえって冷静に対処できることを学んだ。結局、私はこのバイトを約2年半続けた。時に理不尽だと感じることもあったが、たくさん怒られたこと、豆腐が固まらなくて号泣したこと、どれも今となっては良い思い出だ。

このバイトで学んだことはあまりにも多いが、やはり一番は人間観察をする格好の場だったということだろう。社員の店長、料理長を除き、このお店のバイトは学生数名以外、ほとんどが30~50代の主婦だ。私は元々、主婦に苦手意識があった。裏で何を思っているか分からず、今日の友は明日の敵という勝手なイメージがあったからだ。それで選んだというのも少しある。具体的にどんな人間観察をしていたかというと、どういった人がリーダーとして優れているのか、どういった人が仕事ができると評価されているのか、そして一緒に働きやすいと感じる人はどういったことをしているのかなど、時期によってテーマを決めて観察した。人数が多かった分、比較をすることで観察から考察までの過程がかなり捗った。

閉店後は好きな賄いを食べて良いのだが、2年生の頃は毎日のように主婦の方々と深夜遅くまでご飯を食べながら、旦那の愚痴から始まる家庭事情とかの話を聞いた。とりわけ鈴木ひとみさんという方がいるとき(ほとんど)は3時越え確実だ。次の日、私は部活の朝練が5時からあるため早く帰って寝たいところだったが、私は彼女の話を聞きたくて、余程疲れ切っているときでない限り、とことん付き合った。私は基本、常に聞き役だった。

鈴木ひとみさんは35歳くらいの主婦。22歳の時に授かり婚で子どもを産み、ママママとひとみさんに甘えてくるいかにもダメ男を想像させる2歳年下の旦那と小学生の娘が二人いる。なんで付き合ったのか、なんで結婚してしまったのかわからないのだという。詳しくはわからないが、夫は工場で働いていたが、怪我を負い、労災を受けているが、あまり働けなくなってしまい、代わりにひとみさんが家計を支えるため夜、飲食店で働くことになったのだそうだ。ひとみさんは離婚したいそうだが、夫が理解してくれないのだという。
ひとみさんはとにかくよく働き、とてもしっかりした女性だ。朝8時から午後4時まで衣服屋で働き、家に帰って晩御飯を作って家事をし、夕方7時から夜11時半まで飲食店で働くのだ。(そして毎日3時までお店で話す。)それを日曜日以外の週6日こなす。バイトでのひとみさんはとてもしっかりしていて、抜かりがなく何でも気付く。お皿のちょっとした汚れだったり、みんなが忘れている仕事だったり、何でも気付くから、店長や料理長から圧倒的な信頼を得ていた。(それによって仕事を増やされていて、人より負担が多く大変そうにも見えたが)さすが私の年から子供を育ててきただけある。純粋に感心した。医学部の世界に閉じこもっていたら、ひとみさんのような人と出会うことはなかっただろう。

もう一人は同じく鈴木の、鈴木吉代さんだ。吉代さんは50歳くらいの主婦。子どもはもう社会人として自立していて、旦那と仲良く暮らしていて、バイトは暇つぶしのためにやっているのだという。吉代さんはツムツムというゲームがとても強く、個性的な人だが、私とはポジションが一緒だったこともあり、一緒に働きながら、色んな話をし、学生の私をよく気遣ってくれた。吉代さんもとても仕事ができる人だが、一個一個のスピードが速いというよりは無駄がなく、着実で早いタイプだった。よく色んな時短できる裏技を教えてもらった。

飲食店のバイトの人間観察において最も面白い時期は店長や料理長が変わる時だ。やはり、人は人との間で自己のバランスを保っているのか、バイトを始めたばかりの頃に、あれ程ボロカスに店長の愚痴を言っていた人が店長がいなくなった途端、魂が抜けたように暗くなり、やがて辞めていった人を見ていた。人は実に面白いと思った。

私が大学3年の秋、頼りないおじさん料理長が異動になり、新しくちょっとイケてる風おじさん料理長がやってきた。年齢は両方、50歳くらいだ。新しい料理長は、最初はよく手伝ってくれ、優しそうに見えた。皆良い人が来て良かったと喜んでいる中、吉代さんだけはあんまり好きではないと言っていた。前の料理長の方が仕事はできなくて、私達にまでしわ寄せが来ていたが、一生懸命ではあり、困ったときには聞きやすかったから良かったと。私も最初は前の料理長よりもよっぽど仕事できるし良いと思っていたが、だんだんと新しい料理長の本性が見え始めた。結局、前の料理長よりも嫌われることとなる。なぜ、吉代さんは見抜けたのか聞いた。そしたら、「人生経験よ」と得意げに言った。「人によって態度を変えるような人はトップとしてはダメ」と。なるほど、と私は感嘆した。

他にも西村ひとみさんという人も印象に残っている。西村さんは四人の子供を持つ、とても明るくエネルギッシュな主婦で、彼女がいると仕事場が明るくなるのだ。西村さんは少しおっちょこちょいなところがあり、仕事を覚えるのは早い方ではないが、一度覚えたら野菜を切ったり、煮たり、一つの仕事をするのが異常に速いのだ。西村さんの技術を盗みたいとこっそり見て練習したが、どう頑張っても勝てなかった。腕が人よりも多いとしか思えない。やはり四人の子供を育てる主婦は偉大だ。

三者三様に仕事ができるが、それぞれ持ち味が違う。バイトを通して人を見て学んだ面白かったところである。だが、やはり今日の友は明日の敵というのは最後まで不思議だった。いつも仲良さそうでプライベートでも家族ぐるみの付き合いがある人のことを他の人の前で嫌いと言ったり、次の日には楽しそうに話していたり、たくさんそのようなことがあった。自分の都合の良いときは味方という感じなのだろうか、これは不思議なままで終わった。

次に紹介するバイトは英会話教室の先生だ。このバイトは飲食店を始めて半年くらいしてから並行して始めた。なんでこのバイトを始めたかというと、飲食店は主婦層しか関わることがなかったが、英会話教室の先生という立場であれば、年下から年上まで色んな層の人と関われるのではないかと考えたからだ。また、学習塾とは違って、年上の方を相手にしたかった自分にとっては好都合だと思った。実際、一番若い子で中2、一番上でおそらく50代半ばの方まで11名の生徒を受け持った。理学療法士、翻訳家を目指す中学生男子、美術専攻の高校生女子、転職活動中の工場で働く男性、看護師、会社の社長、御朱印集めが趣味のサラリーマンまで様々な職種の方だ。このバイト自体は半年ほどしか続けなかったが、飲食店と同じくらい多くのことを学んだ。

まず、何といっても年上の方を教えるのはものすごく気を遣った。その後に中学生の女の子を教えるとどれ程気楽であるか。中高生と何が違うかというと、大人は自分のお金、時間を使って、自らに投資をする習い事として来ているということ。有意義な時間にしなくてはとより責任を感じた。一切研修などはなく、適当に煽てられて、初日から自分で頑張るように言われた。中高生に教えるのと違って、大人は何をしたら良いかわからなかった。第一、英会話と言っても英語だけで一時間話せる程、実力のある人はいなかった。困った、私も教えることに関しては全くの素人だったが自分で何とかするしかなかった。そこで、まずはなんで英語ができるようになりたいか、どれくらいできるようになりたいか、どうやって授業を進めていきたいかを細かくヒアリングしていくことにした。良くも悪くもマニュアルなんてものはないのだから、顧客ニーズを満たせばよいのだ。そして、聞いていくうちにこんな感じで進めていったらどうかというイメージが湧いていき、試しでやってみることにした。

英語を教えるのと同時に私も生徒から様々な事を学んだ。彼らの職業のことだったり、美術専攻の高校生からは絵を描くときの題材の決め方だったり、いろんな話を聞かせてもらった。そして、英語を勉強するのはもちろんだが、せっかく時間を使って来てくれるのだから、週に1回話したくなるような場を提供しようと思った。顧客ニーズを満たすには相手から引き出し、一緒に方向性を見つけていくというスタイルを自分の中で確立できたのを感じた。

もう一つ意識的にしたのは、毎回必ず一回は、生徒の顔がわっと驚く知識を教えることだった。私はそのぱっと明るくなる瞬間を見るのが好きになり、ネタ帳を作り、機会を見て使った。なぜ意図的にこのことをしたかというと、自分自身が面白いことを知った瞬間が好きだったのと、そうした体験は頭に残りやすく、同時に満足度に繋がると考えたからだ。

一番自分の中で印象に残っている生徒のことを話そう。その方は浜医の看護師であり、基礎看護の先生でもあり、同時に大学院に通って勉強もしていた。相当忙しい日々を送っていたことだろう。年齢は35歳くらいだった。その方は、今度大学院の発表で韓国に行って英語でプレゼンをしなくてはいけなくなり、どうせやるならちゃんとこの機会に英語を勉強してプレゼンをしたいと通い始めたのだ。

最初の頃は、発表原稿とパワーポイントの添削をした。グーグル翻訳か何かで訳してきてくれていたが、翻訳特有の間違いが所々あり、それを直しつつなんで間違っているかを逐一説明した。とても熱心で、一語一句メモをして、納得するまで質問してくれた。原稿が完成したら、発表まで三週間くらいひたすら原稿を読む練習を繰り返した。最初に私がお手本を見せ、その後に彼女はそれを真似た。そして、原稿一行ごとに発音や抑揚の付け方を細かく書いていき、家で練習を重ねたそうだ。彼女の原稿はまるで発表会前の楽譜のようだった。毎回成長してくる姿にとても驚いた。最後には日本人らしい発音が完全になくなっていて、10分くらいの原稿を暗記していた。模倣から始まったが、完全に自分のものにしていた。
また、質疑応答に関しても、自分で質問を予想し、その答えを英語で言えるように練習していた。その徹底ぶりに私は感心し、本気で役に立ちたいと思った。韓国での発表は大成功に終わったようだ。彼女にとってこのように頑張ってうまくできたことは良い経験になったであろうが、私にとってもとても良い経験となった。

発表が終わってからは、上達するようにと毎日英語で日記をつけ始めたそうだ。それを毎週見せてくれて、使える便利な表現をその場で教えると次の週には必ず使ってみていた。また、必ず最初はフリートークの時間を設けているのだが、そこで話す内容を予め考え、単語を調べて用意をしてきてくれた。彼女は私が持った生徒の中で断トツ成長が著しかった。彼女の姿勢から学ぶことは非常に多くあった。

この他に私はボート部に所属し、早朝から湖でボートを漕ぐ生活を送っていたが、部活の話は長くなるので今回は割愛する。大体こんな感じで私は大学3年生までを過ごした。ここに書ききれなかったこともたくさんあるが、振り返ってみると、総じて人と関わって学んだことが多かったように感じる。あの頃はがむしゃらでうまくいかないことも多かったが、それはそれで楽しかった。今回は行動ベースで書いてみたが、毎週見ている世界が違って感じるくらい考え方もかなり変わった時期であった。
大学4年生からは、取る行動の選択を自分の中で変えた。それは、自分の中で次の段階に来たと感じたからだ。これからも自分と向き合い、目の前のことを頑張りたいと思う。

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